第95話 襲来

 透が滞在しているアパートホテルのバルコニーに鳩が四、五羽並んで止まっていた。透がバルコニーに出ても、逃げようとせず、透の方をじっと見ている。その中の一羽が、恐れげなく近寄ってきた。透は少し気味が悪くなり、窓を閉めた。


レイラに来ないようにと連絡してから3日後、透の滞在しているロンドンのアパートホテルのドアノッカーが鳴った。


 透は恐る恐るドアチェーンをかけたまま、ドアを細く開けた。旅行鞄を下げたレイラが立っていた為、慌ててドアを閉めた。透はサファノバの諜報機関と暗殺部隊の情報収集力を過小評価していたと焦ったが、もう遅い。

 レイラは、透が採卵する事を護衛たちに知られたくないだろう、という事は分かっていた為、一人で現れた。しかし、透にとって、一番見られたくない相手はレイラなのだ。


「レイラ、会いたくない理由は、話した筈だ。遠い所まで来たのに申し訳ないけど、帰ってくれないか?」

「い・や・だ。飛行機だけで4時間近くかかった。一目も会えずに帰るなんて出来ない」

透が郵便受けから覗くと、レイラは手袋を忘れたのか、しきりに手に息を吹きかけている。レイラの真っ白な手は寒さのせいか真っ赤だった。このままだと霜焼けができてしまうかもしれない。透は見るに見かねて、溜息と共にドアを開けた。


 レイラは一眼見て、透の細かな変化に気がついたようで、会った瞬間に息を呑んだ。無駄な肉が全くなく、筋肉質だった透の体が少し丸みを帯びている。顔つきも少し丸みを帯びて、柔らかくなった。以前から前髪は少し長めだったが、切っていないのか全体的に伸びている。以前の透と比べれば、明らかに女性に近くなった様に見えた。


 透はレイラの反応を見て、頭から毛布を被ってしまいたい気分になった。自分でも、変化は感じていて違和感がある。透は自分の中途半端な身体が嫌だった。最近では悪夢を見始めるようになった。中学時代のような夢を見て、夜中に目が覚め、全身汗をかいている事もしょっちゅうだった。知らない人からすれば、透は普通の男性にしか見られないだろうとは思ったが、不安もあり、外出は生活必需品の買い出しなど最低限しかしなかった。


「お願いだから、あまり見ないで欲しい……。レイラのそういう反応を見たくないから、会いに来てほしくなかったんだ」

透は居た堪れなくなり、部屋の奥へ引っ込んで、窓の方を向いてしまった。

「……ジロジロ見るなら、帰ってくれ」

レイラは奥の部屋まで追ってきた。

「ごめん。一言相談してくれれば、良かったのに……」

「言ったよ、採卵するから来ないようにと。レイラが、両方の血を受け継いだ子供が欲しいと言った時の為に、前もって採卵しておこうと思ったんだ。この姿を見られたくないから、来ないようにと言ったのに」

「どうしても、会いたくなって……」

「もう少し我慢して欲しかったな……」

「ごめん……。3ヶ月も逢えないなんて、我慢できなくて……」


 レイラは背を向けている透に近づいた。同じ人物なのに、手を伸ばす事を躊躇ってしまうのは、透が拒否している様に思えるからか、透の変化に違和感があるからなのか、レイラには分からなかった。いつもなら、すぐに飛びつく事が出来るのに、それが今日は出来ない。

 

 振り向いた透は、腕組みしたままレイラを見下ろしている。レイラの気持ちを見透かす様に透が言った。

「帰った方がいい。違和感があるのであれば、まだ何も発表していないのだし……結婚も白紙に戻そう」

透の瞳に宿るものは怒りよりも、哀しさだという事に、レイラは気付いた。

「そんなこと望んでない……」

レイラは思い切って、透を抱きしめた。抱きしめた瞬間にわかった。

「透は、どんな姿になっていようと透だ」

強張っていた透の身体が、少しほっとした様に緩んだ。

「ごめん、言いすぎた……」

抱きしめた透の身体が、筋肉質だった以前より、少し柔らかくなっている様な気がしたが、レイラにはもう違和感はなくなっていた。いつもよりそっと、透がレイラの髪を撫でる。

「……本当に見られたくなかったんだ」

「無理に来てしまって、ごめん……。どうしても逢いたくて。今日はここに泊まってもいい?」

透は天井を見上げた。

「いいけど……」

何かあるのだろうか、とレイラは思った。

「それにしても、サファノバの諜報機関は凄いね……」

「え、諜報機関、使ってないけど……」

レイラは、動物たちのエネルギーと繋がって、探し出したことを説明した。透の頭に鳩の瞳が浮かんだ。


 手を繋いだり、腕を絡ませたりしながら一緒に買い物に行き、透の作った手料理を食べる。同じ家に、一緒に帰る。同じ家で一緒に過ごす。家に帰れば、自分たちの他には誰もいない。何だか普通の新婚夫婦みたいだと、レイラは浮き浮きした。それは、レイラにとっては、憧れていた非日常的な生活だった。城に帰れば、否が応でも人に囲まれる生活。自由気ままに過ごす事は許されない。

 料理も、後片付けも全て、透がやってくれた。レイラは、やってみたくて手伝おうとしたのだが、早速、洗おうとしてコップを割ってしまい、そこに座っているように、と言われてしまった為だ。

 透からすれば、レイラに怪我でもさせたら、と思うと座っていてくれた方が安心だったのだ。


 レイラはソファに大人しく座って、メールで送られてきた報告を読んでは、返信していた。しかし、気分が浮ついていて、なかなか捗らない。ふと、見ると透がソファの脇に枕と毛布と布団を運んでくるのが目に入った。

「レイラはベッドを使って。私はソファを使うから」

「やっぱり、来た事を怒ってる?」

透は気まずそうに、下を向いて消えてしまいそうな声で答えた。

「ベッドの幅が狭いし、今、……生理中なんだ……」

レイラは何と答えて良いのか分からず、なるべく普通に聞こえるように聞いた。

「いつまで?」

「昨日から……」


 透もソファベッドにノートパソコンを持ってきて、レイラから少し離れて座り、メールをチェックし始めた。エアコンの吹き出し口の関係で、キッチンよりもソファのある場所の方が暖かい。透は寒いのか毛布を肩から被って、パソコンに向かっている。

 暫くすると、透のキーボードを叩く音が聞こえなくなった。レイラがそっと横を見ると、透はうつらうつらしている。ノートパソコンもスリープ状態だ。レイラは透が生理中と答えた事を思い出した。生理中はとてつもなく眠い。ソファの背にもたれているなと思った途端、ずるずると横に倒れてきた。レイラの膝の上に。

 レイラは手を伸ばして、透に毛布をかけた。膝の上の愛しい重みのせいで、メールに集中出来なくなり、ぼんやりと透の顔を眺める。睫毛が長い。レイラとは反対の漆黒のサラサラの髪。枕と膝を入れ替えても、目覚める事はなさそうだが、そうしたくなかった。レイラはパソコンの電源を落とし、肩から布団を被り、そのまま不思議と静かに幸福な気持ちで、膝の上の寝顔を眺めているうちに、折り重なるように眠ってしまった。近くにいられれば、それだけでいい、と思いながら。


 レイラが目を覚ますと、きちんと布団をかけてベッドの上で眠っていた。起き上がって見回すと、透はソファの上で丸まって眠っている。レイラが起き上がった気配で目が覚めたのか、透も起き上がった。

「おはよう。昨日は膝の上で眠ってしまったみたいで……ごめん」

「わざわざ運んでくれたの? そのままでも良かったのに……」

「あんな姿勢じゃ、あちこち痛くなってしまうよ」

「透の近くで眠りたかったからいいの。それに、何処ででも、眠れるのが特技だから大丈夫」

「?」

「命を狙われて色々あったから、かしずかれているお姫様のように繊細には出来ていないんだ。眠れる時には何処でも寝ておく。そうは言っても、最近はちゃんと横になって眠ることの方が多いから、眠りの大切さがよく分かった」

「そうか……」

レイラの今までの過酷な人生を思って、透は胸が痛んだ。この先ずっと、レイラが安眠出来るよう守って行こうと決意を新たにした。


 レイラのスマホが鳴った。

「透、15時過ぎに広い部屋に移る事が出来そう」

「いや、別にこの部屋でいいけど、何で?」

「昨日、広い部屋が空いているかどうか聞いておいたの。透はあと1ヶ月以上滞在するんでしょ? 日本より近いから、毎週来ようと思って……」

「これから、もっと、女性化していくと思うから……。来なくていい」

透にしては珍しく、キッパリ拒否した。

「昨日はっきりわかった。透の近くに居たいって。どんな姿でもいい、透であれば。昨日は少し驚いたけれど、もう大丈夫だから……。だから、来させて」

「いや、何も大丈夫じゃないから……」

「広い部屋はベッドのサイズもキングサイズだし、マットレスもお願いして、最も体に良いものを入れてもらったから。ストレスがかかると採卵にも影響が出るかもしれない。何なら、きちんと採卵できるまで、何ヶ月でも待つから。お願い!」

 透はレイラに見られる事の方が、ストレスなんだと言おうと思ってやめた。レイラは、もう気にしていない。透の拒否さえも気にしない。気にしないというよりは、近くにいたいという思いで必死なのだ。だったら、自分も気にする事をやめるしか無い、と透は諦めた。レイラは透が気にしている事を、すぐに何でもない事のように軽々と乗り越えて来る。悩むほどのことではないとでも言うように。透は溜息をついた。これからは悩む前に、話してしまう事も出来るのだと、少し気が楽になった。

「わかった……」

 透は薬罐に水を入れようとしていたレイラを、後ろからそっと抱き竦めた。レイラの着ている真っ白なアンゴラニットは、抱きしめた透を包むように柔らかい。パレードを見ていた時のように、手を離したら腕の中から消えてしまいそうな幻影ではなく、柔らかく、しっかりとそこに存在感を示していた。それが嬉しくて、頸にキスをしようと、ふと見るとレイラが薬罐の口から水を入れようとしたまま、止まっていた。

「……もしかして、薬罐でお湯を沸かした事がないとか?」

「そ、そんな事ない! 蓋が外れないだけ」

そう言って、レイラは必死になって蓋を回して、耳まで真っ赤になっている。透はレイラの手から薬罐を取り上げた。

「いいから、レイラはそこに座って」

レイラは普通の人が出来る事が、多分出来ない。それでも、全く問題はない、と透は思った。レイラにはレイラの役割があり、自分には自分の役割があるのだから。悪夢にうなされながら、ひっそりと誰にも知られずに採卵する予定だったが、どうやら、これから週末は、賑やかになりそうだ。

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