第10話 車の幸せ

 軽音部での校内選抜で、匠の所属するOne smile for allが選ばれた。顧問の森は念のため、理事長である透に報告しておこうと、選抜に使っていた視聴覚室を出た所に、透が立っていた。

「築地先生、その髪、どうしたんですか?」

「色々ありまして……」

透は会うたびに聞かれるので、だんだん説明することが面倒くさくなってきていた。匠の気持ちが少しわかった気がした。

「結果が気になる様でしたら、中で聞けば良かったじゃないですか……」

 

 匠はこの後、メンバーの結衣からお祝いしようと、誘われ、メンバーでカラオケに行く事になった。それを聞きつけた他の軽音部員も一緒に行く事になった。「くみ」は一週間に一度のメンバー練習しか参加せず、今日初めて「くみ」の歌声を聞いた軽音部員たちが、「くみ」に興味を持ったからだった。


 匠は結衣に、門限があるから18時には出る事を告げておいた。本当は門限ではなく、青少年保護育成条例などで16歳未満の中学生は18時までしかカラオケを利用できない決まりがある為、合唱コンの前に不祥事を起こすリスクは避けたかったからだ。ちなみに高校生は22時まで利用可能の所が多い。

「くみの家は厳しいんだね」

「部活は仕方ないけど。今日出かけるって言ってないから、夕飯用意してあると思うし」

と、取り繕っておいた。まさか自分は中学生だからとは言えない。匠はこっそり、家に連絡を入れておいた。が、母や祖母に迎えに来られるのは恥ずかしいので、電話を鳴らして促してくれる様に、と頼んでおいた。父である和人はこの時間に帰宅している事はない。


 匠の周りはOne smile for allのメンバーが固めていた。隣を陣取ろうとしていた男子たちは、それでも、少しでもくみである匠の近くに座ろうと席を奪い合った。それを数人の女子が、面白くなさそうに遠巻きに眺めている。

「まずは皆さん、お疲れ様!」

軽音部の部長、柴田が乾杯の音頭をとった。飲み物が各自に配られる。出入り口付近にいた誰かが、適当に頼んだ様だ。

「ほら、くみ」

誰かに、飲み物を渡されたので、匠は乾杯に合わせて、グラスに口をつける。待ちきれない誰かが、もう歌い出している。

「なんか、不味っ」

匠が呟いたのを聞いた結衣が、

「じゃ、これ飲んで口直ししたら」

と自分が飲んでいたジュースと交換してくれた。匠はさり気なくそのままグラスに口をつけて、有り難くいただいた。結衣は気が付いていないが間接キスだ。匠は一人でドギマギしていた。大人っぽくて優しい結衣は匠にとって、憧れの人だったのだ。


「自己紹介も兼ねて、くみ歌って!」

と声がかかる。匠が選曲しようとしていると、声がかかった。

「リクエスト! これ歌って!」

波瑠が慌てて、

「この曲、サビの高音が尋常じゃ無いよ。大丈夫?」

と小さい声で匠に聞いてきた。

「コンテストに出るならさ、これくらい歌えなきゃ? じゃない?」

前奏が流れ始める。匠は売られた喧嘩だと感じた。

「結衣、バック歌える?」

「む、無理だよ、高すぎ。」

匠はマイクを受け取り、立ち上がった。男性ボーカルの曲だが、比較的高音だ。その上、波瑠が言っていた様にサビの高音が異常に高い。

(合唱部で鍛えた高音を出してやる!)

小声で波瑠に尋ねる。

「今、この曲歌えって言ったの誰?」

波瑠は絶対音感で誰の声かすぐわかる。

「あの入り口付近にいるロングヘアーの長沼さん」

「サンキュ」

匠はマイクのスイッチを入れた。

「長沼さん、リクエスト有難う。私が一番を歌うから、二番をお願いします」

長沼は絶句している。自分が歌う羽目になるとは思っていなかったのだろう。前奏が長くて助かったと匠は思った。結衣の方へ屈み込み、囁いた。

「私の飲み物、タバスコが入ってたから、飲んじゃ駄目」

「長沼の奴、くみに恥かかせようと……」

結衣が立ち上がりそうになるのを、匠はそっと押し留めた。

「大丈夫、ほとんど飲んでない」


 この歌は亡くなった人に、会えない人に、逢いたい、逢って伝えたい事がある、何処にいるの、と切々と歌い上げる曲だ。匠は自分は誰に逢って何を伝えたいんだろうと思いながら歌った。感情的になり過ぎない様に気をつけて、けれど感情を込めて振り絞る様に歌った。一番を歌い終わり、そっとマイクをおいた頃には、売られた喧嘩はどうでも良くなっていた。拍手が沸いた。

「すげぇ声……」

「流石、くみ!」

「やばいな、上手すぎて泣きそう」

結衣は嬉しそうに、匠の肩を叩いた。長沼が二番を歌う事はなかった。他の部員を押し除け押し除け、匠の前まで来ていたからだ。

「去年亡くなった友達を思い出した……。ごめん……」

ごめんが、何に対してなのか、匠にはどうでも良かった。下を向いた長沼の頭に、匠がそっと手を置いた。


「長沼、なんで歌わないんだよ?」

部屋の入り口の方から聞こえてきた声に、長沼は、はっと我に返った。

(私、何、感動しちゃってんだろ?)

次の曲がかかり、誰かが歌い始めた。長沼は席に戻るどさくさに紛れ、手近にあったアイスコーヒーのグラスを匠の方へ倒した。狙い通り、匠の制服のスカートはコーヒーでびしょびしょになった。

「ごめんねぇ」

と言い捨て、長沼は席に戻っていく。

「今のわざとだ」

紬が立ち上がって追いかけようとしたのを、匠が止めた。匠のスマホのバイブが振動していたので慌てて出る。スマホの表示を見ると、透からだった。

「と、透ちゃん?」

「もう入り口にいるけど」

「あ、今いく」

結衣が小声で、時間? と問う。

「迎えが来てるから、帰らなくちゃ。後でいくらか教えて」

こっそり、メンバーに帰宅する旨を告げ、他の部員には洗面所と言いながら、匠は外へ出た。


 透が車にもたれて待っていた。

「透ちゃん、どうしたの、その髪?!」

「小川君の件で保護者会があってね。匠や小川くんの気持ちを少しでも、分かれたらと思って。まぁ、そんな事はいいから、乗った、乗った」

「何で、電話だけくれればいいって、母さんに言ったのに」

何か言おうとした匠を、透は目で制した。匠が振り返ると、結衣が立っていた。

「結衣、どうしたの?」

匠の言葉を無視して、自身も茶髪にしている結衣が透に聞いた。

「理事長、その髪どうしたんですか?!」

「気分転換です。それよりどうしましたか?」

「くみって、何処のクラスにもいないんだけど、どうしてですか?」

「いない?」

「昼休みに、くみと話をしようと教室を探したけれど、何処のクラスにもいなかったんです。くみはうちの学校の生徒じゃないんですか?」

透は溜息をついた。

「くみはうちの高等部に毎日通っているわけではありませんが、静実学園の生徒です。あまり詮索する様であれば、森先生には申し訳ありませんが、ボーカルをやめさせます」

 匠と一緒にいる所をアントンに見られたらまずい、と思った、透は何か言いたそうな匠を助手席に押し込み、自分も車に乗り込んだ。前回匠達の初めてのライブでの前座出演で、みんなを送った時はワゴン車だった。今回、乗ってきた車はフェラーリだ。助手席の窓が開いて匠が手を振った。

「結衣、ごめんね。また、練習で!」


「なんか、コーヒーの匂いがする」

透が鼻をクンクンさせているのに、匠はハッとした。

「ごめん! スカートにコーヒー溢してびしょびしょだった。今すぐ脱いだ方がいいかな? この車、爺ちゃんの形見だよね?」

匠は慌ててスカートのホックに手をかけた。

「うわ、こんな所で脱ぐなよ。スピード違反取り締まりや検問の警察が見たら、絶対に誤解をうけるから! 濡れていて気持ち悪いかもしれないけど、脱ぐのはやめてくれ!」

透の慌て振りに思わず匠は笑ってしまった。笑った後、自分が女子高生なら、確かにまずい状況だと思った。下着姿の女子高生と、大人の男がドライブ……。


「迎えに来るなら、こんな目立つ車で来るなよ」

匠はぼやきながら、皮張りのシートが汚れない様に気をつけながら濡れたスカートを膝の上にまとめる。

「たまにはこの車、エンジンかけてくれって母さんから電話がかかってきたんだよ。この車、父さんの形見だからね。乗ってしばらくしてから、今度は姉さんから電話がかかってきて、ついでに匠を迎えに行ってくれって。わかっていたら、ワゴンで来たよ。この車、駐車場選ぶし、雨の日は乗れないし面倒臭いんだよね」

「爺ちゃんは透ちゃんと違って、車好きだったからね」

「私はバイクで十分なんだけど。そのうち、この車売っちゃおうかな? フェラーリは値下がりしないって言うから」

「駄目だよ。爺ちゃんが、ばあちゃんとのデート用に購入した思い出の車だから、売るなんて言ったら、ばあちゃんが悲しむよ」

「誰も運転しないなんて勿体無いよ。だったら、車好きの人に譲ったほうが、車も幸せでしょ」

「車の幸せねぇ……。この車、俺が免許取るまで売らないでよ。一度は運転してみたい。車の幸せより、俺の幸せを優先してよ」

「匠に乗りこなせるかな?」

「言ったな!」

(匠の幸せか……)

透は改めて、匠の幸せについて考えた。レイラの元に返す事が良いのか、日本でこのまま自分たちと一緒に、変わらぬ日々を過ごす事が良いのかは、何年後、もしかしたら何十年経ってから、わかる事かもしれない。それだからこそ、匠本人に、行く末を選択して欲しかった。

 仲良く言い合いしながら、帰ってきた二人を見て、洋子は安堵した。透が、もう少し、走ってくる、と言うと、匠は急いで着替えて来て、助手席に飛び乗った。もちろん、綺麗な雑巾を何枚か持って。


 結衣の後から、こっそり後をつけて出てきた長沼は、匠がフェラーリに押し込まれるところを目撃した。カラオケに戻って、長沼は自分のメンバーに早速見てきた事を話した。

「ニュース! くみを迎えに来た彼氏、凄い外車に乗ってた!」

「どんな車よ?」

「高級スポーツカー、サーキットで走るようなやつ? あんなの、その辺の大学生とかじゃ乗れないから、こういう人か」

と頬に線を描いて見せる。

「パパ活で見つけたおっさんとか? 髪色がやけに明るかったから、もしかしたらホストとか」

「やばっ!」

 匠の話は密やかに、長沼の思い込みと共に、カラオケの歌の合間に、参加していた部員の間を駆け巡っていた。



 小一時間ほど走った後、透と匠はやたらとくしゃみが止まらず、路肩に車を止めた。ここはアントンの活動の範囲外だ。街が一望できる展望台で、車を降り、街を見下ろす。

 たくさんの灯りが集まった家々や、店やビルは宝石箱のようだ。その明かりの下で、毎日続く日々を、当たり前のように繰り返していく事の方が、匠にとって幸せなのではないだろうか。目立つことを嫌がっている匠が、王国の後継者となれば、目立たずにいる事は難しいだろう。透は匠に、レイラのことを話してしまおうかと思ったが、その役目をするのは自分では無いと考え直した。しかし、匠は目立つことが嫌いな割には、人前で歌う事が好きだと言うのは、不思議な気がした。


「匠、コーヒーかぶって風邪ひいたんじゃないか?」

「透ちゃんこそ、どこかで女子が噂してんじゃない?」

「ない、ない。そしたら、今頃、独身じゃないし」

「透ちゃんさ、高等部女子に自分がなんて呼ばれてるか、知ってる?」

「え? 知らない。何?」

「やっぱ、なんか悔しいから教えない」

「なんだ、それ?」

 透は生徒の気持ちには敏感だが、女心には鈍感なのかもしれないと、匠は思ったが、言わずにいた。透は高校の教師をしていた関係もあり、高校によく顔を出す。そのせいもあり、高校生女子からは陰で「イケメン理事長」とあだ名をつけられ、人気があった。One smile for allのメンバーも陰でそう呼んでいる。

「あ〜、お腹すいたな。カラオケで何も食べる時間なかったし」

「出かけに、姉さんに夕飯いらないって言っといたから、なんか食べて帰ろう」

「やったー!」

「食べる前に、軽く打ち合わせがあるけど、いいか?」

「仕事なら仕方ないね」

「では、お嬢様、お車にどうぞ。」

透がふざけて、助手席のドアを丁寧に開ける。匠は透の方を向いたまま、すっと座席に腰を下ろし、斜めに膝を揃えて優雅にゆっくりと前を向いた。

「完璧でしょ?」

唖然とする透に向かって、匠はにっと笑った。合唱曲は映画やミュージカルの曲も多く、何回も見ている為、所作まで覚えていたりするのだ。嫣然と微笑む匠を見て、透はレイラを思い出してしまった。声を聞いたら飛んできたくなると言ったのであれば、また逢う事が出来るのだろうか、と。透はもう一度、レイラの声を聞きたくて堪らなくなってしまった。


 打ち合わせがあると言って、匠を連れて行ったレストランの入り口は、こじんまりしてはいたが、見るからに高級そうだった。

「透ちゃん、こんな格好で入っていいお店かな?」

匠はジーンズに黒い大きめのパーカーにスニーカーだ。

「打ち合わせだけだから、いいと思うが……」


 透が店の中に入ると、ウェイターが飛んできた。匠は怒られるかと思って首を竦めていると、

「築地様、いつも有難うございます。ただ今、戸沢シェフを呼んで参りますので、こちらでお待ちください」

すぐに個室に通された。

「連れがこんな格好ですが、大丈夫ですか?」

「ここは個室ですし、大丈夫です」

すぐに髪を一つに縛った、キリッとした女性が現れた。コック帽は手に持っている。

「築地先生、こんばんは。あら? 髪を染めたのですね。素敵です。それに今日は珍しく、可愛らしい連れの方がいるのですね」

匠は黙ってペコリと頭を下げた。匠はどうやら、女子と間違われているようだ。

「戸沢さん、こんばんは。毎年お世話になっている、料理教室の話に10分ほど時間を下さい」

「時間を指定したのはこちらですので、お構いなく」


 静実学園では高校2年生になると、食事のマナー教室を行う。さらにマナー教室の前に実際に、戸沢シェフに作り方の手ほどきを受ける。美しい料理がどれだけの手間をかけて作られるのか、それを正しいマナーで美しく食べるにはどうすればいいのか、社会に出て恥をかかないようにする為の授業だ。マナー教室は色々な学校で実施しているが、その教室で出される料理を実際に調理する学校は少ないかもしれない。


 10分ほどで打ち合わせも終わり、透が立ち上がろうとすると、戸沢がにっこり笑った。

「せっかくだから、食べて行ってください」

「でも、連れの格好が……」

「このまま、この個室をお使いください。私も腕を振るいますから、是非」

「有難うございます。この格好で表から出るのは申し訳ないので、帰りは裏口から出させてもらいますよ」

「お気遣いなく」

戸沢が出て行った後、

「透ちゃん、よくここに来るの?」

「まぁね」

「戸沢さん、綺麗だよね」

「そうだね」

 透は、打ち合わせの内容を吟味している。透にこれ以上追求しても、まともな回答を得られないと、匠は断念して室内を見回した。室内のカーペットに合わせた深いグリーンのテーブルクロスには一つも皺がなく、完璧なアイロンがけがしてあった。ガラスの花瓶には真紅の薔薇が挿してある。椅子の足は優雅な曲線を描いている。運ばれてくる、美しくも美味しい料理を味わうにつけ、こんな格好でここにいるのは本当に申し訳ない、と匠は思った。


「高校生は戸沢さんから、マナー講習も受けるの?」

「マナー講習の講師は別の人が担当、講習に出る料理を戸沢さんにお願いしている」

「高校生に、ここの料理の価値わかるのかな?」

「だから、その前の週に料理の講習会をする。こういう料理がどれだけの手間をかけられて、調理されるかを知る為でもある。ちなみにその日の家庭科は2時間ではなく、4時間だ。足りなくて授業時間をオーバーすることもある。職業体験の一種とも言える。何年かに一度、この講習の後、シェフになりたいと言う子が出てくる。戸沢さんも、うちの生徒だった」

「え? だから、先生って言ってたんだ」

「そう言う事。邪推しないように。それもあって、毎年マナー講習の料理と、調理実習を引き受けてくれる。先生達の歓送迎会もここでやる事が多い。そのおかげで、その格好でもいいと言ってくれたんだ」

透はチラッと匠を見て、ニヤリと笑う。

「料理に敬意を評して、今度ドレスアップしてくるか? ドレスは買ってやるぞ」

「え?」

「冗談だよ」

「冗談に聞こえないよ、透ちゃんの冗談は! 軽音だって、女装で参加させられてるし……」

 冗談とは言ったものの、透は匠がドレスアップしたら、物凄い美人になるのではないか、と一瞬思った後で、匠の顔がレイラと重なった。透は苦笑しながらその考えを振り払った。似てはいるが、子供と大人であり、性別も違う。

「他人事だと思って、酷いや」

匠はぶつぶつと文句を言った。

(本当に、血の繋がりの無くて、透ちゃんは他人なんだ……)

匠は口に出してから改めて、ショックを受けた。普段はあまり感じないが、時折、血の繋がりが無い事を思い出してしまうのだ。


 優雅な食事も終わり、店を出る時に、戸沢が見送りに出てきてくれた。

「先生、今日はお越しいただき、有難うございました。素敵な車に乗っていますね」

匠には言外に、今度乗せて欲しいと言っているように聞こえた。多分、透は気づいていない。

「先代の形見ですよ。今日はご馳走様」

「お連れの方、お口にあいましたでしょうか?」

「今日はこんな格好で来てしまい、本当に申し訳ありませんでした。斬新な取り合わせのものや、器と食材の色の取り合わせも素晴らしく、五感を楽しませて頂きました。本当にご馳走様でした」

 匠は深く頭を下げた。戸沢の作る料理は、こんな格好で食べにきて良いものではないと心から思った。それが戸沢に伝わったようで、戸沢がハッとした。マナー講習の後、即座にきちんと感想を述べることができる生徒は少ない。しかも、料理に真剣に敬意を評してくれる生徒も少ない。もちろん、大人も。透の匠を見る眼差しは温かい。

「有難うございます。もしかして、先生の見込んだ生徒さんでしょうか?」

「大事な家族です」

戸沢がよくよく見ると、透の連れは、格好こそパーカーにジーンズだが、妖精のような美しさがある。家族ということは、まだ若そうに見えるが、

「先生、ご結婚されたのですか?」

「? 相変わらず独身ですが」

式がまだという事だろうか? と戸沢は思った。

「ウェディングケーキは是非、私に作らせてください」

「? いつになるかわかりませんが……」

戸沢と透の会話は噛み合わない。匠には戸沢の言いたいことが分かったが、透にはわからなかったらしい。

「また、食べにきます。戸沢さんの料理は癖になりますね」

透が微笑むと、戸沢は赤くなった。

 透は会う人ごとに髪の色について尋ねられ、答えるのが面倒になったので、翌日には髪の色を元に戻した。黒に戻すには白髪染めしかないと知らされ、驚いたが、仕方がなかった。匠とドライブをして以降、透は匠と会うことを避けた。帰りの信号待ちの時に、アントンとすれ違ったからだ。アントンは気がつかなかったようだが、もし、アントンが車の方を見たら、すぐにわかってしまっていたに違いなかった。

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