第8話 王位継承者
「ただいま、和兄帰って来てる?」
透はリビングのソファに座っている和人を見つけた。和人は家にいる時は大抵ソファに陣取っている。
「和兄、最短でいつ有給取れる?大事な話があるんだけど」
匠がリビングにいないのを確かめて、透は声を潜めて聞いた。
「透君、急ぎ?」
透が縦に首を振る。
「今立て込んでいるから、来週の月曜なら、有給取れそうだけど。土日じゃ駄目なの?」
「匠にまだ聞かせたくない話だから」
「だったら、今週の土曜、匠はNコンの練習でいないから、土曜にしよう」
透は翌日すぐに、修の使っていた家にアントンを連れて行った。仕事を午前中で切り上げて、小さな平家の一軒家の鍵を開ける。だいぶ使っていなかったせいか、埃っぽい。二人ですぐに家中の窓を開け放ち、掃除をする。
「アントン、調査が済むまで、ここを自由に使っていいから」
「透はなんて親切なんだ! 有難う!」
「アントンはわかるだろうけれど、ここで揉め事を起こさないで欲しい」
「揉め事?」
「子供をさらって来て、監禁するとか。殺してしまうとか……」
「その話なら、昨日レイラ様に話をしておいた。国際問題になってしまうのは大変困るから、子供を見つけたら相手の両親に確認を取る事になった」
それを聞いて、透はホッとした。
「帰国する前に、連絡をくれれば鍵を取りに来るから」
帰ろうとする透をアントンが引き留めた。
「日本に滞在するのが長くなりそうだから、今日くらい泊まっていってくれないか。聞いて欲しい話もある」
最近、透は家にいても匠と顔を合わせない。まだ体調があまり良く無いからと、自室に篭ってしまうからだ。仕事も持ち帰って来てやっているようだった。透は以前も自室で仕事をよくしていたが、息抜きに、リビングに来たり、匠の部屋に顔を出したりしていたのだが、それが無い。しかも、洋子の話だと、今日はどこかに泊まってくるようだ。洋子と菊は、透に、たちの悪い彼女でもできたのではないかと考えているようだった。匠も女性が関係しているとは思ったが、それだけではないように感じた。匠から見ると、透は何か悩んでいるように見える。しかも、なぜか匠を避けているようだ。原因がわからない。これは、透が家に戻って来たら、直接聞くしかない。今は、大会が目の前で、それに集中しなければならない。その後すぐに、軽音のコンテストも控えている。仲の良い兄のような透に避けられる事は、匠にとって初めての事であり、辛い事だった。
すっかり、夕食も風呂もすませ、アントンは寛いで布団の上に座っている。透に勧められて、風呂にゆっくり浸かった。少々長くつかりすぎた様だ。その上、透から冷蔵庫にビールを入れておいたから、と言われていたので、アントンは早速、全部飲んでしまった。アントンはかなりいい気分になった。どちらが寝心地がいいのかわからなかったが、ソファは病み上がりの透に譲った。風呂から上がった透は流石に、手術したばかりなせいか、すでに疲れてしまっているようだ。
「アントン、冷蔵庫のビール二十四本全部、飲んじゃったのか? まぁいいけど。聞いて欲しい話って……」
「まぁ、そう急かすな」
「アントン、レイラの事」
透が意味あり気に、ちらりとアントンを見ると、アントンは顔を赤くし、隠すように慌てて手を振り回す。
「それ以上、言うな。恐れ多い。身分が違いすぎる。古くから我が家系は護衛と大臣を輩出している。それ以上でも以下でも無い。我が家系に生まれた者は命を賭けて王家をお守りするのが役目なんだ」
「アントン、私はレイラの事、としか言っていないのに……。自分から白状してしまったな」
アントンは、今度は屈辱で顔を赤くした。
「透、引っかけたな。酷い奴だ。親切だと思ったが取り消す。レイラ様はなんでこんな奴に……」
アントンは、今度は悔し涙を浮かべている。透は溜息をついた。
(それは自分が聞きたい。自分にも聞きたい)
透は結局、痛手にならぬうちにレイラから離れようとしながら、匠の事もあり、関わり始めてしまっている。
「悪かった。謝るから、そんなに怒らないで、ほら、温いけどビールまだあるから、これでも飲んで」
アントンは渡されたビールを一気に煽る。透が冷蔵庫に入れていないビールをケースから出し、2本目を渡すと、それも全く間に飲み干し、少し落ち着いたようだ。
「全く、手術後でなければ殴るか、ナイフで喉を切ってやりたくなるな……」
「アントンの話を聞いていると、サファノバは平和な国というより、物騒な国に聞こえてくるな」
「サファノバは警察が不要なくらい、平和な国だ。落とした財布が戻ってくる日本ほどでは無いけれどな。だが、王家に関しては別だ。私は護衛だが、必要となれば暗殺者になれるよう訓練を受けている」
透はアントンが窓まで上がって来て、懐に手を入れた時の、一瞬の殺気を思い出した。ふらりとアントンが立ち上がった。
「ビールを飲みすぎたようだ……」
「大丈夫か?」
アントンは頷いた途端に、ソファに座っている透の方に倒れ込んできた。
「お風呂に長く浸かりすぎたんじゃないか? 酔いが回り易くなるんだよ」
アントンは透に寄りかかったまま、じっとして動かない。
「気分悪いのか? トイレまで連れて行こうか?」
透の肩にアントンの吐き出す、アルコール臭い息がかかる。透はアントンに肩を貸して、立ち上がらせ、トイレに連れて行った。トイレから出てくると、アントンは透にすまないと、謝った。戻って眠るのかと思いきや、話し出した。
「最初の王配アレクセイが死んだのは事故みたいなものだ」
「どう言う事だ?」
「レイラ様はアレクセイから暴力を受けていた」
「あのレイラが?」
「お子様を宿してからずっと。しかも、帝王学やマナーや国際情勢など勉強しなければならない事がたくさんあった。レイラ様はいつも寝不足で、フラフラだった。そこへアレクセイの暴力だ。レイラ様は、流産してしまいたかったのだと思う」
「……もう、言わなくていいよ」
レイラが暴力を受けていたと考えると、透は冷静でいられなかった。アレクセイとお互い好きあっていなかったにしても、そこまで酷いことが出来るのかと。
「いいや、透には聞いてほしい。全て聞いて、レイラ様を受け入れてほしい。私達はレイラ様が暴力を受けているのに気がつかなかった。レイラ様は王族同士の離婚は、許されない事を知っていた。もし、母親が知ったとしても、どうしようもなく、ただ悩ませるだけである事も知っていた。だから、誰にも気づかれないよう、耐えていた。ある晩、私はレイラ様が廊下に走り出て来たのを見た。アレクセイがレイラ様の袖を掴み、腕が顕わになった為、腕に痣が出来ているのが見えた。夫婦喧嘩であれば、見なかったふりをして通り過ぎなければいけない。でも、何箇所も痣があった。暑くなっても長袖ばかり着ていると不思議に思っていた。痣を隠していたのだ。アレクセイが電気スタンドでレイラ様を殴ろうとした為、私がナイフを投げた。運悪くナイフはアレクセイの首に刺さった。私とマルコヴィチで自動車事故に見せかける事にした。誰も疑わなかった。アレクセイはアル中気味で、よく酒を飲んだ後、車を運転していたからだ。」
「酷すぎる……」
透はそれだけ言うのが精一杯だった。
「産まれた子供の目の色はアレクセイにそっくりだった。レイラ様は出産後、その子供を見ることに耐えられなかった。子供の近くにいると、何かしてしまいそうで、怖いと言っていた。それで、流産した事にして、捨てたのだ」
アントンは話し終えると、項垂れた。
アントンの脳裏に当時のことが浮かび上がる。透には言えない。アントンがナイフを投げたせいで、アレクセイは死んだのではない。
レイラが廊下に置いてあったブロンズ像を掴んだ。アントンは止めようと、走ったが間に合わず、アレクセイは床に倒れた。
レイラの手を開かせ、ブロンズ像を取り上げるのは大変だった。手とブロンズ像とくっついてしまったように、固く握り締められて開かなかったからだ。アントンはなんとか辺りを片付け、自動車事故に見せかける事にした。しゃがみこんで震えていたレイラを落ち着けようと、アントンが手を伸ばすと、レイラはその手を遮って、歯を食いしばって立ち上がり、後始末を頼むと言い残し、部屋へ戻って行った。部屋の中から嗚咽が聞こえて来た。「透」と、か細く呟く声も……。
透は匠の瞳の色はアルビノ故の薄いブルーなのだと言いたかったが、今言うわけにはいかない。
「去年亡くなったお子様––クリスチーナ様には、暗殺の跡はなかった。でも、どう考えても昨日まで元気だったクリスチーナ様がいきなり死んでしまうなんて、おかしかった。二番目の王配ステファン様は、レイラ様の母であるアデリーナ様が癌で亡くなった数年後に、心臓発作で亡くなった。もともと心臓が弱かったと言われていたが、暗殺でないとは言い切れない。それ以来、レイラ様は昨年亡くなったクリスチーナ様を守りながら育てていた。だが、亡くなってしまった」
「レイラは危険な目にあったことはないのだろうか?」
「何回もあった。小さい頃、階段から突き落とされたり、乗った車のブレーキが効かなくなったり、森を散歩中に狙撃されたりした。毒を盛られた事もあった。車の時はスピードが出ていなかった為、車から飛び降りて助かった。階段も受け身の姿勢で落ちたのか、大した怪我はなかった」
透はゾッとした。そんな危険な所に、匠を行かせるわけにはいかない。それに自分の生まれた国とはいえ、レイラはそんな所に、アントン抜きでいて無事なのだろうかと、心配になる。
「最初の子供を連れ戻したとして、その子がまた暗殺されない保証はないんじゃないか? それなら、護衛とレイラだけが知っている状態で、成人するまで日本に置いておいた方が安全ではないか?」
「透、レイラ様は透の提案を受けて、早急に欧州連合に加盟するおつもりだ。そうなれば、大国もサファノバを併合出来ないから、暗殺しようとする事もなくなるだろう。それに、自分の治める国の事を大人になるまで知らないというのは、良くない」
「……そうかもしれない。今、レイラの周りに、信頼できる護衛はいるのか?」
「大丈夫だ。護衛は十二人いる。決まった家から出る。だから、皆信頼できる」
アントンのスマホが鳴る。急にアントンが背筋を正す。
「順調デス。透にご馳走になり、家も借りマシタ。はい、いまここにイマス。替わりマスカ?……わかりマシタ。では失礼シマス」
アントンの日本語は丁寧になると途端にぎこちなくなる。それなら、自国の言葉で話しても良さそうなものだが。
「レイラから? 何でわざわざ日本語で話しているんだ?」
「どこで誰が聞いているかわからないからな。日本語ならほぼ、誰もわからない。レイラ様がお礼を伝えてほしいと。声を聞いたら、日本に飛んで行きたくなるから、いいと。レイラ様は本当に高校生の頃から、ずっと透のことを想っていた……。羨ましい」
「私は声を聞きたかったな……」
アントンは透の腹に拳を見舞おうとし、寸止めした。
「手術後だからな……」
「手術後で良かったよ」
「アントンは高校の時、レイラの気持ちを知っていたのか?」
「周りはレイラ様が男子だと思っていた。だから、透とレイラ様は、単に仲がいい二人だと思っていたようだ。私から見れば、はっきりわかっていたよ。透本人が気づかないなんて、信じられないな。透は鈍感なのではないか?」
透もなんとなく、好意を感じてはいたが、自分の中で否定して友情だと言い聞かせていた。自分の気持ちも友情だと言い聞かせていた。
「そうかもね」
まるで、修学旅行の夜のようだなと透は思った。しかし、話の重さが格段に違うのが悲しかった。透が何か手伝える事があるかもしれないから、当分の間ここにいる、と伝えると、アントンは疑いもせず、透は親切だと喜んだ。透もまたアントンを監視しているとは知らず……。
透は意識して匠を避けているつもりはなかったが、無意識に避けていた。
土曜日。匠が部活に行ってしまった後、家族会議が始まった。洋子と菊は、透の婚約報告ではないかと考えていたようだった。
「匠の母親がわかりました」
透の一言に、全員が息を飲んだ。
「サファノバ国の女王です」
「それ、どこの国?」
和人が聞いた。
「欧州にある小さな国だそうです」
「それと、透ちゃんの夜の見舞い客は関係があるの?」
洋子が鋭く突っ込んだ。透としては、そこは避けて通りたかったが、後々のことを考えると避けては通れない。
「高校の時、私と一緒に生徒会をしていた留学生が、その女王」
「あの、美少年? あれ、女の子だったの?」
洋子は透の持って帰ってくる行事の写真をよく見ていたので、覚えているようだ。レイラは昔も今も、一目見たら忘れられないくらい印象が強い。しかも、どの写真を見ても、必ず透の隣に一緒に写っていた。
「身分を隠すために、男装していたようで、私も気がつかなかったので……」
透の歯切れが悪くなる。
「あ、もしかして、体育祭で透を抱えて、走った子!」
今度は菊が思い出した。透は話した事を後悔し始めた。
「それで、匠を返してくれと言ってきたの?」
和人がまともな事を聞いて、話を戻してくれた。
「話してみたところ、向こうは調査中で、匠のことはまだ気がついていません。ただ、わかってしまえば、匠は王位継承者としてサファノバに行く事になるかと……。姉さん、和兄、どうする? 見つかるのは時間の問題だ。時間を稼ぐ事は出来るけれど、いずれわかる」
「なんでそう言い切れるの?」
「彼女の部下がもう日本に来ていて、匠が捨てられていた学校の周りを調べ始めていて、私は調査の協力を求められている。何も手掛かりになるような事は言っていないけれど、会えば匠の特徴から、わかってしまうのではないかと思う」
「今更、捨てた子供を取り戻すなんて、都合が良すぎやしない?」
「それはそうだと思う……。ただ、彼女には後継者が匠しかいない」
「そんなの、向こうの勝手じゃない」
「もしかして、このままいくと、王位継承者がいなくて、国が消滅するとか?」
和人が聞いたので、透は頷いた。
「女王から話を聞いたと言うけれど、その人は透とどんな関係があるの? なんで、人目を避けてお見舞いに来たの? お忍びできたの? 懐かしいだけなら、面会時間が終わってから、こっそり来たりしないのではない?」
避けていた話を菊が振ってきた。
「関係というほどでも……」
母と姉を刺激しない、いい言葉がないか透は探したが、見つからなかった。洋子は普段穏やかだが、怒ると相当怖い。すでに、洋子は怒っている。
「彼女に慕われています……。それを伝えに病室に来たので……。彼女と話しているうちに、匠が彼女の子供だと気がついたので……」
「は?」
「つまり、求婚されているという事、透君?」
「有り体に言えば……」
洋子の怒りが爆発した。
「透ちゃん! 匠を捨てた女とよもや、結婚なんてしないでしょうね!? 自分の子供を捨てているのよ!」
「透、学校はどうするの? その人は日本では暮らせないんでしょ?」
「一旦は断りましたが……」
「『が……』ってどういう事? 匠は渡さない! 透ちゃんは魂を抜き取られでもしたの? 結婚したいなら、勝手にすれば!」
和人は普段穏やかな洋子のあまりの剣幕と、いつも落ち着いている透が相当参っているのを見て、驚いた。
「待って! 透ちゃんと同級生なら、その子が匠を産んだのは高校生の時じゃない! 日本で妊娠して国に子供を連れて帰れないから、子供を捨てていったって事?」
「歳が合わないでしょう? 彼女が日本を離れたのは高一の時だから」
「まさかと思うけど、匠は透ちゃんの子供じゃないでしょうね?」
洋子が食い付かんばかりの勢いで聞いてきた。菊は珍しくオロオロしている。
「ちょっと、洋子も、みなさんも、落ち着いて。きっと理由があったんでしょう? ね、透君」
透は時計を見た。匠が帰ってくる前に、話を落ち着かせなければならない。和人がいてくれて、助かったと思った。本当の事はレイラとアントンと透だけが知っていればいい。三人が墓場まで持っていけば済む事だ。
「匠は私の子供ではありません。彼女の一番上の姉は暗殺され、彼女は暗殺を逃れる為、日本に留学していました。レイラ、現女王は高校一年の秋に、母である女王が余命数年と診断された為、母親から政略結婚の命を受け帰国して、隣国の王と結婚。翌年、出産。レイラは匠を日本に連れて来て、置いて帰ります。匠は偶然、私に拾われたと言うわけです。匠が生まれる前に、彼女の夫は事故死、その後、数年後にレイラの母親は癌で死亡、レイラの二番目の夫は心臓発作で死亡。二番目の夫との子供は、去年謎の死を遂げていて、暗殺が疑われています」
「つまり、子供を安全な場所に隠すために、日本に捨てたと言う事?」
透は黙って頷く。映画のような展開に、怒り心頭だった洋子は呆気に取られている。
「知っていて拾ったのかい?」
和人の問いに透は首を横に振る。
「でも、透の子供だという可能性は?」
菊が食い下がる。
「私はレイラを同性だと思っていたので、あり得ません。母さんはわかるでしょう? 匠は私に似ていない事からしてもわかる筈。匠が私の子供だった方が良かった?」
そうであれば良かったのにと透は内心思いながら答える。匠が自分の子であれば、色々な事が面倒な事にならずに済む。
「親権を主張できるでしょ? 育てている方が、強いはずよ。いっそ、あなたの子供だということにしてしまえば?」
「匠が普通の子供で、透君が父親であれば、匠の年齢だと、子供が一緒にいたいと主張する方の親と暮らすことが出来るんじゃなかったかな。でもこの場合、匠は王位継承者だから、どうなるのか……」
和人が考え込む。
「私の子供ではないので、どうなるかはわかりません。私は、匠に選ばせたらどうかと思います」
透は考えていた事を、やっと口にした。
「匠はまだ中学生よ」
「姉さん、もう、中学生だ。本当の親が見つかったと話して、どうしたいか聞いた方がいい。これは、私たちだけで決めていい話ではないと思うんです。匠の将来がかかっているのですから」
「駄目よ。そんな物騒な所へ匠を帰したりしては……。匠の安全はどうなるの?」
「それについては、手を打ち始めているようです」
「折を見て、匠に話すのが親としての勤めじゃないかな、洋子。知らないままでいて、いい事ではないでしょう。既に実子では無いという話はしたのだから」
「和君……。もし、匠が……」
「それは匠の判断だよ。責任と自由と、何を取るかは匠にしか選べないはずだよ。僕たちには見守るしか出来ない。子育てって、そういうものだろう?」
和人が落ち着かせるように洋子の手を握る。
「和君、匠が私たちの子じゃないから、言っているんじゃないよね?」
「違う」
和人と洋子の話を無視して、菊が問うた。
「で、透はどうするの?」
菊は透を見据える。
「え?」
「求婚されているんでしょう? 女王と結婚するの?」
「……私の事はどうでもいいでしょう?」
「学校はどうするの?」
言い募ろうとする菊を和人が制した。
「お母さん、透君には透君の人生があり、縛りつける権利は誰にもないはずです。もしかしたら、透君がずっと独身なのは、彼女のせいだったのでは?」
透は俯いたまま返事をしない。そういう訳ではなかったのだが、取り敢えず匠が帰宅するまでに、話を収めなければならない。余計な事を言えば、また話がややこしくなるだろう、と透は考えた。
和人は言ってから、気がついた。透はつい最近までレイラが女性だと思っていなかったという事は、透は同性愛者では無いかと悩んでいたのでは無いか、という可能性もある。義父は生徒に対しては大らかではあったが、自分の息子に対しては、常識の枠を当てはめようとする傾向があった。和人は自分の考えた事を口には出さなかった。
「ただ、透君には何を選択するにしても、なるべく後が綺麗になるようにしてもらわないとね」
透は和人の疑問に気づいたが、あえて何も言わなかった。当時、目を逸らして気持ちに蓋をしてしまった事だった為、自分でもよくわからなかったからだ。ただ、今言える事は男だろうと女だろうと、相手がレイラだったから、という事だけなのは確かだった。今まで、レイ以外の男性に(そう思っていたから)惹かれた事はなかった。和人の疑問に答える義務はなかったので、透は答えなかったが、彼女がいなかった訳ではなかった。ただ、レイラほど惹きつけられる人はいなかった。
「私は調査に来ているアントン––彼も留学生として一緒に来ていたので––から協力を依頼されている為、しばらく、行動を共にして彼を見張って、必要なら時間稼ぎをしようと思います。彼には親父の書庫を貸しました。下手に周りをうろうろされて、匠が決断する前に、匠に気がついてしまうのもどうかと……」
「匠には私たちから話せばいいんだね?」
「私の話はしばらく、伏せておいて貰えれば……。匠に書庫の場所は教えないようにお願いします。遊びに来てしまって、アントンに見つかるといけないので。しばらく匠とは接触しないようにします」
「いつになく、弱気だね、透君」
「……しばらく、親父の書庫にいるから、何かあったら、連絡して下さい」
透は荷物をまとめて、すぐに出ていった。
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