第4話 長い夜

 入院5日目。

 透は病室内でユーカリオイルを焚いている。ユーカリのオイルは頭を明晰にし、集中力を高める効果があるという。清潔感が強過ぎて、美しく魅了するにはかなり辛いとされているらしい。透は時間が欲しかった。いきなり3日前に現れた初恋の人物に求婚され、一緒に国に来てほしい、と言われ即決出来るはずがない。元理事長の修がまだ生きていて、透が一教師であれば、話は違ったかもしれない。


 ユーカリオイルの効果なのか、レイラはサイコパスなのでは無いだろうか、という考えが透の頭に浮かんだ。

 自分の欲しいものを、手段を選ばず貪欲に手に入れる者。周りの人を平気で傷つけ、呼吸するように嘘をつき、他人の感情を考えず自分の感情を優先し、人を利用しても傷つけても罪悪感がない彼らに、周りは振り回され続け、精神的に追い込まれてしまうと言う。

 透には、レイラが自分の子供を捨てておいて、罪悪感を感じていないように見える。いくら暴力を振るっていた夫の子供とはいえ、罪のない匠を捨てている。透に「好きだ」と言いつつ、気持ちを無視して拉致し、それがバレるまで隠していた。透が独身かどうかも気にしていないようだった。それは、最高権力者故なのか。昔から人を惹きつけるくるくる変わる豊かな表情。サイコパスは外見も魅力的な人間が多いという。

 反面、レイラはサイコパスなどではなく、若い頃から国を背負わされ、自由もなく、普通に、人々と関わる事がなかったせいで、相手の気持ちを考えるという事が欠如しているのでは無いか、とも透は思う。暗殺を恐れながらも、まず先に国のことを考えているレイラを支えてあげられるものなら、とつい思ってしまいそうになる。何よりも、高校の頃自分では違うと言い聞かせてはいたが、透はレイラに惹かれていた。再会したレイラが女性だとわかった今、透の気持ちはレイラへ傾いていき、止まる様子が無い。透はこれ以上、近寄ってはいけない、と頭の反対側で思うが、行動が裏切っている。レイラの事を考えないようにしようとすればする程、考えてしまっていた。

(まるでブレーキをかけながら、アクセルを踏み込み始めているようだ)

断ち切ってしまいたければ、昼間のうちに病室を移るか、窓に鍵をかけて知らん顔をしていれば良いだけなのだが、透は今夜も窓の鍵をかけずにおいた。


 病室に入る前に、レイラはバルコニーの陰で少し立ち止まった。透の横たわるベッドから見えない角度で、ガラスを姿見にして見た。レイラは今までこんな大胆なドレスを着た事は無かったし、着る必要も無かった。

(今夜は何がなんでも誘惑してでも、透にイエスと言ってもらわなければ。今度こそ、一緒に来てほしい……)


「透、こんばんは」

レイラが月明かりを浴びてバルコニーから、透の前に現れた。肉食獣を思わせる、しなやかな仕草も映画のシーンのようで美しい。ユーカリの香りに気がついたのか、一瞬はっとしたが、

「返事をもらいに来た。プロポーズのね」

茶目っ気たっぷりに笑う。レイラは大きく襟ぐりのあいた、タイトなドレスを着ている。片方に太ももの半ばまでスリットが入っていて、くるぶし丈まである滑る様な光がある黒いドレス。透は目を惹きつけられ、離せなかった。レイラは昨日までのように殆ど化粧をしていなくても、十分美しいが、透き通るような肌を引き立たせる黒いドレスは体の線が顕な上に、花びらのような唇には夜目でもわかる深紅の口紅を塗っている。

「イランイランなんか使わなくても、レイラは十分、魅力的だよ」

透はそっと囁くように言った。


 レイラは華やかに微笑み、わざと透のすぐ横に椅子を持ってきて、見せ付けるように足を組んで座る。大理石の様に真っ白で滑らかな脚がスリットから覗く。

 透は少し目のやり場に困って、レイラの顔を見た。透の中のレイは、この三日間でだいぶ、現実に近づいては来たが、高校生の面影が色濃く残っている。日本語で話すレイラが高校の時の言葉遣いのまま変わらないせいだ。

 透は何となく、一生懸命お化粧したり、着飾ったりして背伸びをする学園の女子高校生たちを思い出してしまい、自分の為に着飾ってきたレイラが愛おしくなり、思わずふっと微笑んでしまった。

 レイラは柔らかく微笑む透の様子を見て、地に足がついていないのではないかと思うほど、気持ちが弾んだ。


「有難う。イランイランの効果に気がついたんだ? 流石だね。でも、ユーカリでは愛を囁くには気分が乗らないよ」

「その素敵なドレスで梯子を登って来たのか? 下に人はいなかった?」

「護衛には私が梯子を登る間、車の中にいる様に言っておいた。心配してくれたの?」

「まあね。ちょっと梯子を登るには大胆だと思って。レイラが来る時、私はいつもパジャマだね。私にも正装するチャンスが欲しいな」

透は、今日位は着替えておけば良かったと思ったが、もう遅い。レイラはドレス、透はパジャマで、なんともチグハグだ。

「透は正装しなくても、充分チャーミングだよ」

透は大袈裟に溜息をついて見せた。

「レイラ、君の国はどこかの連邦や連合に加盟している?」

「どうして?」

「その方が、君の安全も保証されるんじゃないかと思って」

「残念ながら単一国家だよ。でも、複合国家に加盟している方が、大国も手を出せないかもしれないね。考えてみるよ」

「少なくとも暗殺される心配は減るんじゃないかな」

「心配して、考えてくれたんだね。有難う」

レイラは立ちあがってベッドの上に乗り、透の前髪をかきあげ、額に接吻する。レイラの唇が透の額から、目蓋、鼻、口にゆっくりと移動する。透は麻痺した様に動けなかった。一緒にいる時間が長くなればなるほど、どうしようもないほどに気持ちが傾いていく事を、止められない自分に気がついていた。レイラの首筋に手を置きそうになり、その気持ちを振り払う為に、そっと、レイラを押しやり、思い切ってはっきりと言う。

(ここで終わらせなければ)

「ごめん……。行きたい気持ちはあるけれど、今は、君と一緒に行くことは出来ない。その代わりに、レイラが必要な時にはいつでも力になると、約束する。でも、今すぐは無理だ」

「透? まだ、夜は始まったばかりだよ。最初から、そんなつれない答えを聞かされるなんて……。ユーカリのせいじゃ無いよね?」

「困った事があったら、いつでも会いに来ればいい。私が入院していない時に。約束してくれれば、いつまででも待っているよ」

レイラは一瞬怒ったような顔をしたが、すぐに甘えるような表情になった。

「一緒に来てくれないのであれば、せめて私の欲しいものを頂戴。わかるよね?」

「それは……」

透は一瞬たじろぎ、頭を振った。

「レイラ、それは簡単にあげたりもらったりするものじゃない。今から言う事が出来たら、プロポーズの件は考え直そう。暗殺を恐れなければいけない環境を改める事と、捨てた子供の罪滅ぼしをする事、それから、私が君の役に立つのかどうか判らなくても良いのであれば。タイムリミットが短すぎるし、こんな場所でこんな風に逢うのは、嫌だな。お互いに色々片付けなければならない事を片付けることが出来てから、海の見える綺麗な場所で逢いたいな。そう想うのは駄目なのか……」

レイラが長い溜息をついた。その吐息のような溜息に、一瞬、透は意志が挫けそうになった。レイラは足音をさせず、歩き回っている。

「私には時間がない……それに、今言った事は、到底すぐには改められない。海の見える綺麗な場所か……透は意外にロマンティストなんだね」

レイラの一言で、透の意志は持ち直した。透はレイラを試すしかなかった。

(このまま、よく考えて、今日は引き下がって欲しい)

「意外で悪かったね。イランイランを用意するくらいなら、場所も時期も選んで欲しいな」

「場所が変わればいいの?」

レイラの瞳が怪しく光った。

「まだ抜糸もしていないから、今日ではなくてね。もうちょっと時間が欲しい」

相手の事を考えていれば、抜糸もしていない相手に傷口を広げるような真似はさせないだろう。

「仕方ない。透、借り物競走しよう、もう私には透をお姫様抱っこする事はできないけれど」

レイラが指笛を吹こうとした刹那、透はベッドから滑り降りた。まさか、動けると思っていなかった透が動いた為、レイラは完全に油断していた。透はそのままレイラの顎に、手加減しつつ拳を叩き込み、崩れ落ちるレイラの首の後ろに手刀を入れる。レイラが崩れ落ちる前に抱え込みベッドにのせた。これで物音は立っていない。

 透は痛みでベッドの脇に蹲み込んだ。傷口から血が滲んでいる。どちらにせよ傷口が開くのか、透は自嘲気味に笑った。なんとか立ち上がり、ベランダへ行って、下を見ると、護衛らしき体格の良い男が二人、立って上を見上げている。目があったので、上がってくるよう合図をした。一人がワンボックスカーから梯子を出してかけ、易々と登って来た。病室内に入らせる前に話をする必要がある。透は英語が通じれば良いが、と声をかけてから思った。上がって来た顔に見覚えがあった。


「君は隣のクラスにいたアントンだよな? 何でここに?」

「生徒会長は記憶力がいい。今も昔もレイラ様の護衛をしている。レイラ様ではなく、なぜ透が我々を呼ぶ?」

「色々あって、レイラに眠ってもらったが、怪我は無いと思う」

アントンは一瞬、殺気を放ち懐に手を入れた。透は慌てて飛び退いた。また傷口が開いた感じがした。アントンは思い直して手をベランダにかけ、溜息をついた。

「何て奴だ。刺し殺してしまいたいところだが、透を刺し殺したら、私がレイラ様に殺される……。レイラ様を眠らせた? プロポーズを受けてないんだな? なんでだ? 透がイエスと答えてくれれば、彼女は幸せなのに。レイラ様はずっと孤独だったんだ。透だけが心の支えだったのに」


 透は、黙って、アントンを室内に入れた。アントンはベッドに横たえられたレイラと、読書灯に浮かび上がった透の顔を見て、すれ違い様に喰い殺さんばかりの勢いで透を睨んだ。

「レイラ様が直々にプロポーズしに来たのに、お断りするなんて、そんな幸福を蹴るほどの相手でもいるのか? 攫ってまで、そばにいたいと願う程だというのに……」

透は首を振った。

「相手の意志を無視して連れ去るのは、相手を想っていると言えるのか? それは相手を大切に思う事にはならないんじゃないか。私は意思を持っている人間だ。障害があるのであれば、お互いに障害を乗り越えて、距離を縮めることが大事だと思う。レイラが目を覚ましたら、改めて、伝えて欲しい。レイラの為にも、暗殺を恐れなければいけない環境を改める事と、捨てた子供の罪滅ぼしをする事、それが出来れば、そして、私が役に立つのかどうか分からなくても良いのであれば、申し出を受入れるかを考える、と」

わからないな、と呟きつつも、アントンはレイラをそっと抱え上げた。その仕草と高校の時も、常に影のようにレイに付き従っていたアントンはもしかしたら、ずっとレイラを想っていたのでは無いだろうかと、透は思った。

 透は抱えられたレイラの顔にかかった髪をそっと払ってやり、スリットから覗く足を隠すために、洋子が忘れて行ったショールを掛けた。

「さようならと言うべきかな?」

「レイラ様はずっと透を想っていたからな。ショックが大きいに違いない」

「……レイラは本当にそのドレスで梯子を登ってきたんだな……。護衛として、止めなかったのか?」

「お止めしたのだが、梯子を登る時は、スパッツという物を履いて行くから良いと言っていた。バルコニーに置いてあったから持って来たのだが、透、その、着せて差し上げてくれないか?」

「断る。アントンがやれば良いじゃないか」

自分で動けない人に服を着せたり、履かせたりするのは、かなり難しい。その上、レイラは大胆なドレス姿。スパッツを誰かに履かせられたとなれば、後で恥ずかしい思いをするのはレイラだ。

「そんな、恐れ多い事は出来ない。透が出来ないのであれば、仕方がない。このままお連れする」

透はレイラの耳に口を寄せ、意識のないレイラに囁いた。

「逢いに来てくれて嬉しかった。さよなら」

「……透、何で断ったのか理解に苦しむが……とにかく顔を拭いておけ」

そう言ってアントンは透から顔を背けた。

「?」

アントンは窓辺でレイラを肩に担ぎ直したので、レイラの足が見えないように透はショールをレイラの腰に巻き付け結んだ。


 透は車が遠ざかる音を聞いてから、セットしておいたビデオを止めた。いつか、匠にこれが母親だと、見せる日があるかもしれないと思って録画していたのだ。

(写真として切り取っておいた方が良いかもしれない。聞かせたくない内容もあるし、……見せたくない内容もある。その上、最後には気絶させてしまった……。あれで良かったのだろうか。レイラを傷つけてしまっただろうか)


 透はビデオを鞄の底にしまった。傷が開いてしまった事で、病院側からお叱りを受けるのは目に見えていた。担当医が教え子なのだ。それにしても長い夜だった、と透は苦笑した。ビデオがなければ、夢だと思うかもしれない。なんとなくレイラが触れた顔に手をやった。その手を見て、アントンの言った言葉を思い出し、ハッと気がついて鏡を見た。

(看護師が検温に来る前に、顔中についた口紅を落としておかなければ……)

 透はアントンの言葉を思い出し、一人苦笑いをした。傷口が開いてしまった上に、この顔を担当医が見たら……。

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