第5話 朝を迎えて
翌朝、洋子と菊は担当医に怒られている透を発見した。
「どうしたら、こんなに傷口が開いてしまうんですか!? 何をやったらこうなるんですか、築地先生?」
洋子と菊は、それを聞いて青ざめている。
「いや、ちょっと、体が鈍っているかと思って運動を……」
「これじゃ、当分退院させられません。全く……。それに、この爪痕みたいなものはなんですか?」
パジャマの開襟シャツから見えるところに、3本薄く引っ掻いたような傷ができていた。
(レイラを昏倒させた時に引っ掻かれたのかもしれない)
「転びかけた時に、ライトかなんかに当たったんじゃ無いか? 須賀君、ごめん。おとなしくしているから、勘弁」
すっかりしおらしくしている透を見て、須賀も気を落ち着かせた。
「そんなに大人しくしていられないなら、今夜から、拘束具が必要ですか?」
それを聞き、透は青ざめた。拉致されていた間の微かな記憶が、蘇ってきた。
レイラが最初の日と同じように、両手を絡めていた。違うのは胸の上でレイラが泣いていた事だ。泣き止ませてあげたかったが、頭も重く、体も動かず、透は何もしてあげる事が出来なかった。透は今思い出してみると、それは嫌な記憶というよりは、無力さから来る絶望感だったような気がした。
「……それは冗談として、自重してくださいよ。手術したばかりなんですから、理事長先生」
足音高く、担当医が去っていくのを見て、菊と洋子の目が透に説明を求める。
「何も危険な事はありませんでしたよ」
「変な奴らが来たんじゃない、透?」
「ユーカリの香りで退散しましから。姉さん、有難う」
「透ちゃん、入院中なんだから、自重しなさいよ」
洋子は呆れ顔だ。爪痕があったせいか、誤解じゃ無いかもしれないが、誤解している。
「違いますって。私がそんな人間に見える?」
菊は真剣に聞いてくる。
「透、誰か意中の人でもいるの? 相手は人目を忍んで会わなければいけない人なの?」
「……もう勘弁してくださいよ。反省してますから」
「匠が、透ちゃんは学園の高校生の間ではイケメンで有名だって、言っていたわ。学生にだけは手を出すのだけはやめてね。匠のいいお手本になってもらわないと、困るんだからね」
「え? 初耳」
「全く、この子は、何をしでかすかわからなくて、困るよ」
「お母さん、なんの話をしているんですか?」
「さぁね、自分の胸に手を当てて聞いてご覧」
匠の生みの母親についての話は当分先になりそうだと透は思った。
夜になると、何度も窓の方を見てしまう自分に、透は苦笑した。レイラは透の心を捉えて離さない存在として、記憶の中から戻ってきた。レイラは、「到底今すぐには改められない」と言った。だから、
(これ以降、もう逢う事もないだろう)
透は溜息をついた。子供の事を探して罪滅ぼしを、と言ったのは、レイラには出来ないだろうと思ったからだ。思い出したくもない子供を探し出して、親子の名乗りをあげる事など、きっと出来ない。透は気持ちがこれ以上傾く前に、ここで、終わらせておきたかった。透は、これで良かったんだ、と思う反面、どうしようもなくレイラに焦がれている自分に気づいた。レイラが現れなければ、ずっと忘れている事が出来たはずだった。
帰国する専用機の中で気がついたレイラは、ショールを胸に抱え、外を見たまま黙っている。意識の底の方で、透から「さよなら」と告げられた様な気がした。専用機が離陸を始めると、レイラの頬を透明な滴が転がり落ちた。一人の護衛が涙に気づき、うろたえて申し出た。
「戻って、殺って来ましょうか」
レイラが屹と睨むと、申し出た護衛は縮み上がった。
「やはり、プロポーズをするのは攫ってからにすれば良かった……」
「そんな事をしたら、嫌われてしまいますよ。これで良かったのですよ」
別の護衛が、慰めようと声をかけた。
「そんな事はない! 透は私に惹かれている。だから、後から説明すれば、きっと分かってくれる筈……」
アントンが、慌てて口を挟む。このままだと、レイラは引き返して、透を攫ってこいと言い出しかねない。
「透が、『相手の意志を無視して連れ去る事は、相手を大事に思っているとは言えない』と言っていました」
レイラの目の縁から見る見るうちに、透明な液体が盛り上がってきた。アントンは他の護衛たちから、冷たい視線を浴びた為、更に、透からの伝言を伝える。途端に、雲間から光が差し込み広がって行くようにレイラの顔が明るくなった。
「全く透は、シャイなんだから……」
アントンは違うと思いますが、と言おうと思ったがやめた。とりあえず、ここは勘違いであれなんであれ、おとなしく帰国してもらわなければならない。
アントンはポケットの中に紙が入っていることに気づき、引っ張り出して見た。「レイラにもしものことがあったら、連絡してほしい ◯◯◯—◯◯◯◯—◯◯◯◯」
不意に見ていた紙が消えた。レイラがそのメモを長い指で摘んでいる。
「レイラ様、返してください」
「嫌よ。透のプライベートの番号でしょ。明日にでも私が危篤とでも連絡すれば、飛んで来てくれるかも?」
レイラは、ふふふと笑う。
「それは私が渡されたものですので返していただきます。失礼」
アントンはメモを取り返し、内ポケットにしまった。
「これで諦めがついたのではないですか。よりによって、レイラ様を昏倒させるなどと……その上、無理難題を持ちかけて」
「それでこそ、私の相手が務まる。私にかすり傷一つつけていない。今回はやっと、あの子の喪が明けたから飛んで来たのに、また入院しているなんて、運が悪かった。手術後と聞いたから、動けないと思ってうっかり油断してしまった。でも、私たちはずっと、お互いを想いあっていた事がわかった。環境を整えて、最初の子に対して、罪滅ぼしをすれば障害はなくなるはず。よく考えれば、そんなに時間がかかる事でも、無理難題でもない。新婚旅行は海の見えるロマンティックな場所を探さなくては……」
一気に夢見心地に浸るレイラに、水を差すようにアントンが言う。
「気分を害するような事を申し上げるようで、申し訳ないのですが、前から申し上げておりますが、日本と我が国では、習慣が違いすぎるのでは無いでしょうか。我が国は元々が母系社会。日本と違い、女性の地位が高く、財産を継ぐのも、家を継ぐのも女性。レイラ様が女王となり国から離れられないように、日本では、長男が財産、家を継ぐ事になっているため、長男である透は、次の学校経営者が決まるまで、日本から離れる事はできないのではないでしょうか? 我が国では求婚も女性からで、男性は求婚されたら、断る事なく女性の家に婿として入りますから、当然レイラ様は透に求婚されましたが、日本では、自由恋愛は建前で、求婚は男性から、結婚したら女性は男性の苗字を名乗り家に入る、と聞いています。全く正反対です。それに、透は今回、断ったのです。レイラ様には早く結婚していただき、世継ぎを生んで頂かなくてはなりません」
レイラは窓から景色を見下ろして溜息をついた。飛行機は高度を上げ、景色はどんどんミニチュアの世界に変わって行く。
「わかっている。でも、透は言ったんだろう?『お互いに障害を乗り越えて、距離を縮めることが大事』だと。透は断ったわけではないのだから、世継ぎの件は一〜二年待って欲しい。私は透を諦めない。……日本が、遠ざかって行く……」
レイラは窓の外を見たまま、透のもとを訪れた三日間に想いを馳せた。しかし、室内に顔を向けた時には、先ほどとは違って、凛とした表情に戻っていた。
「アントン、我が国はどこかの連邦制や同盟に加盟する事が可能かどうか、すぐに誰かに調査させて。加盟する事で国の独立と、国民と私たちの安全が贖えるなら、条件として誰も継ぐ者が居なくなった場合は、共和制への移行が入っていても良い。それと、これはアントンにしか頼めないのだが、私の、最初の子供の行方を探してほしい。できるだけ早く。世継ぎ世継ぎと言うなら、考えてみれば、その子こそ世継ぎだ。もし、私に何かあれば、その子が後を継ぐ事になる」
「本当に透に言われた事をするのですか……。それは、私に再び日本に行けという事でしょうか」
「日本語を話せるのは私とお前しかいない。私にはまだまだ国に残された課題があるから、動けない。……それに、子供に罪はない。あの時は、憎しみに囚われていて、そんな事すら気がつかなかった。あの子には可哀想な事をした。透に言われなければ、会ってみようと言う気持ちにならなかったかもしれない……」
「承知いたしました。お子様を見つけたら、透には?」
「まず私に知らせるように。透に知らせるかどうかは、私が判断する」
「ただ、学校の校門あたりから探すとなると、透とばったり出会う可能性が低くはありません」
レイラは爪を噛んだ。
「その時には、理由を言っていい。その方が透の印象もいいと思う。それと、万が一、私に何かあった場合には、お前に連絡がいくようにしておくから、必要であれば、透に知らせて」
「縁起でも無い……」
「どんな場合でも調査は続けて。考えてみれば、あの子しか後継者がいない。どんな子になっているのだろう? 後継者としてふさわしいだろうか? 放っておいた事を許してくれるだろうか」
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