第3話 夢の続き

 その夜は珍しく濃霧だった。そして今夜も消灯時間後に、レイラはバルコニーから入って来た。透は昨日見た夢の続きをまた見ている様な、不思議な感じがした。

「透、返事を聞きに来た、と言いたいところだけど、濃霧で飛行機が飛ばないらしいから、後一日猶予が出来た」

「それは良かった。今日は本当の話を話してくれないか。前回入院し、君がバルコニーから同じ様に入って来た日、私は薬物を注射された。そして朝まで、意識が朦朧としていた」

透はじっとレイラを見つめる。レイラは表情を隠す様にぷいと後ろを向いた。

「思い出したみたいだね」

「レイラ、ここに座って。何があったのか教えて欲しい」

ベッドの横にある椅子に座る様、手招きする。

「私は、透の生徒じゃ無い」


 レイラは拗ねた様に、渋々椅子に座る。そんな様子はとても同い年とは思えない位、可愛らしい。レイラは、透が教師をしていた事まで知っているようだ。仕方がなさそうにレイラは話し始めた。

「あの日、母が後四〜五年の命だと宣告された為、明日にも戻ってくる様にと連絡が入っていたんだ。私の姉は病弱で、母より先に死んでもおかしく無かった。 

 母は小さい国だが、絶対君主国家の女王だ。女系国家なんだ。弱小国によくある様に、常に大国に飲み込まれる危険があった。隣の大国は国民を冷遇しているから、母はありとあらゆる手段を使って、何とか独立を保たせていた。もし四〜五年で母が亡くなってしまうと、大国が潰しにかかってくる事は目に見えていた。姉は王位を継承するには体が弱すぎたし、一番上の姉は数年前に事故を装って暗殺されていた。私も暗殺される危険を逃れる為と見聞を広げる為、日本に留学していたけれど、母の余命が四〜五年とわかれば、何処かの国の王子か貴族や、大国のお金持ちと結婚して、国難を乗り切るしかない。その為に、国に呼び戻されたんだ。母が生きているうちに跡継ぎを産まなければならなかった」

 レイラが俯いた。膝の上においた指が膝を掴み、骨が見えそうな位真っ白になっている。透は手を伸ばしかけて、止めた。

(高校生で跡継ぎを産む為に、政略結婚なんて……いや、ちょっと待て。今母親が女王で、レイラは後継ぎを産まなければならなかった、って言わなかったか? つまり、レイラは王女だったって事か……)

「一番初めは透が、透とが良かった。たとえその後、見知らぬ人と結婚しなくてはならなかったとしても。それに結婚する前に、後継ぎさえ出来てしまえば、結婚しなくて済むと思ったんだ」

透はレイラが何を言っているのか、すぐには理解出来なかったが、何かとんでもない事を言われている気がした。レイラは不意に顔をあげ、真っ直ぐに透を見詰め、またすぐに俯いた。

「だから……透を一晩だけ誘拐して……」

「え……」

「だけど、失敗してしまったんだ……。妊娠どころじゃなかった」

透は顔から火を吹いているのではないかと思った。大事な事の筈なのに、記憶が全く無い。何か大失態をしでかしてしまったのだろうか、初恋なのに……。

「透を連れ去る際に、打つ麻酔の分量を間違えたから、病院から連れ出したものの、透はぐったりしたまま朝まで目が覚めなかった……」

透は頭を抱え込んだ。

(なんて事だ。レイの想いは強烈すぎて犯罪じゃないか……もし、レイの計画が成功していたら、どうなっていたんだろう)

「透が、私の事をどう思っているのかわからなかった。しかも、透は私を男だと思って疑ってもいなかったし、連れ出す前に説明して、透の気持ちを確かめる時間も無かったんだ。帰国する前に、事を運んでおく必要があったから、退院するまで待っていることが出来なかった。だから、入院先から連れ去って、説明して、それで……」

コンコン、と扉を叩く音がした。透はレイラに背後の寄せてあるカーテンの中に隠れるよう合図した。

「失礼します。お話ししている様な声がしたものですから……」

看護師は、入り口から顔を覗かせた。

「そうですか。講演会で話す練習をしていたのです。うるさかったでしょうか」

「いえいえ、昨日も物音がしたと言っている者がおりましたので、気になりまして」

「多分、昨日は寝言でも言っていたのでしょう。ベッドの上に読みかけの本を何冊か乗せていたのですが、いつの間にか床に落ちていたので、本が落ちた音だったのでは無いでしょうか。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

「とんでもありません。同僚が面会時間を過ぎているのに、誰かお部屋にいるのでは、と言うものですから、念の為、見に来ました」

「誰かいるか調べてみますか。何なら、ロッカーの中を調べてくださっても構いませんし、ベッドの下を調べていただいても構いませんよ」

「いえ、とんでもない。練習のお邪魔してしまい、すみません」

そういいながら、看護師の女性はほのかに赤くなった。

「失礼しました」

パタンとドアを閉めて出て行った。


「看護師たちは自分たちの誰かが、透の所に忍び込んでいるのではないかと思ったんじゃ無いかな」

「有り得ないな。看護師さんは開腹手術をしたばかりの人間が、どう言う容態かわかっているはずだから」


 レイラは背後のカーテンから出て、透の背と柵の間に座り、小さい顎を透の肩に乗せた。透がビクッとすると、小さく笑いながら囁いた。レイラから濃厚な甘い香りがする。

「もう麻酔を打ったりしないから。そんな事する必要ないでしょ?」

「話の続きがあるんじゃないのか」

不承不承レイラは立ち上がり、透のベッドの足元の方に座った。


「……私は帰国してすぐに隣の弱小国の王と、結婚させられた。私はまだ十六歳になったばかりで、母親には逆らえない。本当であれば、少なくとも七年間は日本で自由を満喫できるはずだった。それがたった一年にも満たずに、終わってしまったんだ。母の病気は心配だったけれど、まだまだ元気そうに見えた。透の事を好きになっていたから、よく知りもしない倍くらい年齢の違う奴と結婚なんて、どうしても嫌だった。当時、透と結婚するのは無理だと知っていたけれど、政略結婚なんて、まだ先の話だと思っていた。実らなくたって、大学を卒業するまでは自由でいたかった」

 レイラは透の気持ちを測る様に、透を見つめながら話を続ける。自虐的ではありながら、透の気持ちを確かめ、眺めるのが楽しいかの様に。透はそこまで想われていた事に、気がつかなかった。そんなに真っ直ぐに、好きだったと言われ、くすぐったいような、恥ずかしいような気がして、どんな顔をして話を聞いたらいいのか分からず、俯き加減で話を聞いていたので、レイラの様子が目に入らない。しかもこの調子で行くと、話はレイラにとっても、透にとっても辛い方向へ行きそうだった。

「悪かった。話すのが辛いなら、もう話さなくていいよ……」

透は初恋の顛末を聞いた事を後悔し始めた。しかし、レイラはやめない。

「いいんだ。最後まで聞いて。私にとって皮肉な事に、結婚後すぐに子供が生まれた」

レイラは心底嫌そうな顔をした。思い出すのも汚らわしいと言わんばかりだ。その言い方の激しさに、透は驚いてチラッとレイラを見る。

「亡くなった人をあまり悪く言いたくないけれど、とにかく最悪な人物だった。もちろん、私は夫が大嫌いだったから、流産した事にして、その子供を捨てる事にした。今考えれば、とんでもなく愚かな事だけどね。我慢ができなかったんだ」

透はハッとして顔をあげた。初めて見るレイラの冷たい表情。まるでいらないものを捨てるような言い方。

「その子供は……」

「どうなったかは、知らない。元夫は子供が生まれる前に、自動車事故で亡くなった。彼はその国の最後の王族だったから、国は元夫との約束通り、我が国が併合した」

「子供は、どこに……?」

「静実学園の校門に置いて来た。当時、たまらなく透の顔を見たくなって、日本に来てしまった。でも、会う勇気がなくて……。透の事を考えながら、車に乗っていたら、校門まで来てしまった。誰も人がいなかったから、そこに置いて来た」

透は息を飲んだ。

「気に、ならないのか、その子供の事」

「子供の事? 生まれていない事になっているし、日本にいて存在を知られていなければ、殺される心配はない」

「会いたいとは、思わない?」

「私の子供、しかも元夫との子供だとわかったら、正式な世継ぎになってしまう。命を狙われる可能性も出て来る」

(やはり匠はレイラの子供だったのか。だが、レイラの話が本当なら、その存在を明かすわけにはいかない。真実を知っている人が少なければ少ないほど、いいのだろう。それに、レイラは捨てた子供にあまり関心がないように見える)

透は迷った。

「それはその子供が助かって、幸せでいてくれればいいと思って言っているのか? それとも、もうどうでもいいと言う事なのか?」

「透のその言い方を聞いていると、まるで私には心が無いみたい聞こえるな。あの時は、今ならきちんと症状として認められている、産後の鬱状態だったんだ。気にはかけていたが、こんなに時間が経ってしまったら見つからないと思う」

「君にしては、諦めが良すぎじゃないか」

「透? どうしたの? 何でそんなに拘るの?」

「いや、別に。つい職業柄、子供の行く末が気になってしまっただけだ。それで、レイラはその後、どう言う状況に置かれたんだ?」

「母の在位中に、すぐに次の夫を持つ様、厳命されて再婚した。母の存命中に後継者を設けなければならなかった。もうその頃には、どうとでもなれと言う気分だった。自分の人生は、母の敷いたレールを走る以外には、選べないと絶望していたんだ。国民と任務にだけは、きちんと向き合ってはいたけれどね。子供は一人生まれたけれど、去年、事故死してしまった。ずっと守ってきたのにも関わらず……。二番目の夫は母の死後、三年後に病死した。今は私が母の後を継いでいる。私と結婚したい王族なんて、周りにはいない。だって、二人続けて、事故死に病死、そして子供も。私は国を存続させる為に、これから何人か世継ぎを産まなくてはならない。しかも、その子が殺されない様に守らなければならない。我が国は、絶対君主国家だから、継続させていく為に子供達には優秀な遺伝子が必要なんだ。女王の夫となる人は、頭脳、身体能力が高い人がいいと思う。暗殺されない為にもね。国民に愛される為に、見た目も大切な要素の一つだ。次期女王は長女でなくても構わなくて、一番才能がある女の子が継ぐ事になる。もちろん、女の子がいない時は男の子が継ぐ」

レイラは淡々と話した。

「家族の事故死や病死は偶然? それとも全て暗殺?」

「そんな事を聞くなんて、透は私と来ることが怖いの? 透なら、一緒に乗り越えてくれると思っていたのに」

(レイラは、今、国を統べる女王なのか……)

透は愕然とした。俯いたレイラの長い睫毛を伝う、宝石のような滴。匠を捨てた事もかなりショックだったが、それ以外の話も衝撃的で、透はレイラに慰めの言葉を口にする事ができなかった。

「私は平和ボケした日本に生まれて、育ったから、レイラの話はまるで映画の中の話の様に聞こえてしまって……。レイラの国はいきなり外国人である私が重要な地位につく事に抵抗はないのか?」

「日本の天皇だって、民間人と結婚したじゃないか。確かに、私の国は日本に比べたら、安全ではない。でも、日本より安全な国なんて、世界中探しても、あまり無いんじゃないかな。でも、私はその中で生きているし、生きる術を知っているよ。小さい頃から、護身術もやっているし、信頼出来る護衛もいる。私がそばにいる限り、透には指一本触れさせない。国は資源の産出国だから、国民の平均所得は日本より高いし、不自由はさせないよ」

「女王であるレイラに守ってもらわなくても、自分の身くらいは自分で守れるよ」


 透は天皇が民間人と結婚という話が出てきたことに疑問を感じた。

(何故そんな話が出てくるのだろう? 教育について改革をする為の、ご意見番を求められているのではなかったのだろうか?)

 透は一晩考えた。答えはまだ出なかったが、レイラの国へ行くことに前向きになり始めていた。レイラの国で教育について改革をしつつ、ヨーロッパの教育事情を勉強し、日本に戻ってそれをまた、学校で活かすことが出来るかもしれないと考えた。それならば、一〜二年学校を離れても、無駄にはならない。匠の生まれた国を見ておき、匠にとって将来どうするのが一番良いか考える為にも、実際に行ってみるのが良いだろう。

 透にとって、レイラの近くにいられる事は嬉しい事ではある。自分の過去の気持ちを素直に肯定でき、高校時代にお互い想い合っていたという事を知ったのも透にとって嬉しかった。ただ、惹かれてはいるが、レイラの過去と現在は想像の域を超えていて、全く透とは関わりのない非日常的な世界、いわば、映画の中の世界だった。

 しかし、これは映画の中の世界の話ではない。レイラが女王として世継ぎを生まなければならないのであれば、いずれ近い将来、レイラは王族や家臣と結婚するであろうし、その生活を透は目の当たりにしなければならなくなる。

(そうなる前に学校の事もあるし、日本に戻ってくればいい。一〜二年の間だけ、誰かに学校を任せておく事は可能だろうか。それができれば、レイラを助ける事も出来、学校経営の為にもプラスになるだろう)

「行ったら戻れないと言うのはなぜ? 国交は開かれているんじゃないのか?」

「それは、移動の際に狙われる率が高いから、当分、外には出て欲しくないから……」

(ご意見番でも狙われるとは、治安が相当悪いのだろうか。大国の目的は、国の併合だろうか)


 透は念のため、青いブーケは家に持って帰ってもらった。レイラからは、別の甘い花の香りがする。その香りを吸い込むと、透は血が沸くように熱くなってきた。透はこっそり、レイラのいる側と反対側で深呼吸をし、肺に新鮮な空気を入れる。また脳内に警告音が微かに鳴り始める。

「なんで日本を留学先に選んだんだ?」

「世界最古の王室があるから。日本の皇室は古いだけではなく国民からも慕われ続けている。そのあり方を学んで来いと言われたんだ。もちろん、日本は色々なことで先端を行っているし、治安もいい。他にも色々あったけれど、覚えていない」

「そうだったのか」

(それで日本の皇室の話を持ち出したのか……王族というのは色々制約があって大変なんだろうな)

透はせめて、力になれる事があれば、力になろうと思った。


「ねぇ、覚えてる?」

パッと顔を上げたレイラは笑っている。

「?」

「体育祭で借り物競走をやった時の事」


 透にとって、黒歴史とも言える、蓋をしていた記憶ばかりをこじ開けられる。

「透は自分が出ないから、高みの見物を決め込んでいた様だったけど。私は、『

好きな人をお姫様抱っこで連れてくる』を引いてしまった」

レイラはクスクス笑っている。透は片手で顔を抑える。

「あれは、私が書いたんじゃない」

「知っているよ。女子たちが私と透のどちらも参加すると思って、同じカードをたくさん入れたんだよね」

透は参加しなかったが、レイが参加することになった。司会が、レイが引いたカードの内容を読み上げると、レイが誰のところに行くかで、騒然となった。レイは走りだす前に、近くにいた係りに何事か依頼した。


 あの時、透もレイが誰の所へ行くのか、そんなカードを入れる事を許可してしまった自分を密かに呪いながら、微妙な気持ちで眺めていた。

キャーキャーいう女子たちにウィンクを投げながらレイは、透に向かって手をひらひらさせた。そして、真っ直ぐに生徒会のテントの所へ来た。透は隣に座っていた、書記の長塚を前へ押し出した。長塚は耳まで真っ赤になったが、慌てて透を振り返って言った。

「私じゃ無いと思う」

レイは透に手を差し出していた。

「透! 早く!」

固まっている透を、他の生徒会役員がテントから押し出した。レイが透を抱き上げた。

「透、しっかり首に腕を回して、掴まってて」

ゴールはテントのすぐ目の前だ。レイはゴールへ向かって危なげなく走り出した。キャーキャーにギャーギャーが混じった。


「あれは、冗談としてとられて、いい余興になったけどね。私はあの時も、本気だったのに。でも、私が鍛えている事はわかったよね?」

あの時も細っそりしていたレイに比べて、まだひょろりとしていたとはいえ、透の背の方が高く、10キロ位は重かったはずだ。それを軽々抱えて、1番でゴールした。

 その後、係が、レイにおもちゃの剣を渡し、透の頭に後ろからベール付きのティアラを無理やり載せた。透は諦めて茶番に付き合うことにした。レイが左膝を立てて、跪き、剣の柄を透に向け差し出し、透はその剣を受け取って返し、レイが剣身にキスをして、鞘に納める仕草をすると、その芝居がかった仕草に拍手喝采となった。あの怪力では、誰もレイが女子だと思う者はいなかったに違いない。

(あの時、レイはなんと言ったんだっけ……)


「あの時、私は透に『生涯愛を誓う』と言ったんだけど、覚えてる?」

レイラが透の指をそっと握る。細っそりした長い指。薄暗い部屋で良かったと、透は思った。透は顔が赤くなったのを自覚したからだ。

「記憶にないな……」

「透は『愛』と言う言葉に驚いてか、何も答えなかったけどね。昔話もいいね。ずっと話していたいくらい。それはそうと、返事を聞きたいな」

「改革を手伝いに来てほしい、という事か? 学校の経営を代理でしてくれる人を決めなければならないから、そんなにすぐに返事はできない……それに家族にも家を空ける事を話さなければならない」

「それは、わかっているけれど、残念ながら私の時間はあまり無い。それに私はあまり国を空けておくわけにはいかないんだ。念のため聞くけど、透の家族って……」

「母と、姉夫婦とその子供。外に、護衛か何か待たせているのか?」

「窓の下にね。……私はやっと自由になれたんだ」

レイラの満面の笑みは、大輪の薔薇を思わせる。透はコロコロ変わるレイラの表情に幻惑されそうになった。不意にレイラが身を寄せて来た。透は惑わされたように、そっと腕をレイラの背中に回し、柔らかい銀の髪に顔を埋める。むせ返るような強い甘い香り。

(彼女は数年後には、他の誰かと……それなのに、何故こんな事を?)

「透、また、明日。プロポーズの返事を待っている」

レイラは囁いて、透をそっと押し返し、再びバルコニーから消えて行った。


 透はやっと、事の重大さに気がついた。一緒に来て欲しいとは、プロポーズだったのだ。それは単なるプロポーズとも結婚とも違う。いくら小さい国とは言え、一般人の、しかも異国民の透に、女王の夫になって支えてほしいと言う懇願だ。

(そもそも、国民は異国民の私を受け入れるのか? その役割が務まるのか? レイラに惑わされていないだろうか。学校はどうすれば良いのか?)

 透は後から後から、疑問や、懐疑やらが湧いて来てしまい、考えれば考えるほど、良い答えが見つからない。しかも、人生を大きく変えてしまうほどの決断をするには、透に与えられたタイムリミットは短すぎた。


 透は自分がレイラについて行くことを想像した時、女王蟻の為だけに存在する雄アリを連想してしまった。宮殿という巣の中で、世継ぎを産む女王の結婚飛行の為だけに必要な雄アリ。その想像には嫌悪と戸惑いが伴う。その反面、レイラの話を聞いていると、国の改革を支えて、一生を終えるというのも、悪い話ではない様な気がしてしまうのは、学校よりも大きな規模での改革をやってみたい、という思いが心の底にあるせいなのか、レイラの魅力のせいか。突然断ち切られてしまった初恋が、いきなり目の前に現れたせいなのか、透には判別がつかなかった。

(レイラの夫となる事を選んだら、仕事続ける事は出来ないに違いない。しかも、レイラは匠を捨てている。いくら嫌いだった人物の子供とはいえ、産後鬱だったとはいえ、捨てるなど子供にとっては酷い事だ。でも、もし、レイラの手元に居たら、匠はとっくに暗殺されていたかもしれない)

 子供の将来や可能性を育てる事を第一に考えて、学校経営をしている透にとって、それを見過ごすわけにいかなかった。透の理性はレイラが酷い事をしたとは理解しているが、実はいろいろな事情があったのではないかと、考えようとしてしまう。事実に感情が追いつかない。思い出すのは鮮やかな笑顔ばかりで、透にはイコールで繋がらなかった。


 透の姉の洋子と母の菊は、いつも午前中にお見舞いに来る。部屋に入ってくるなり、菊は鼻をひくひくさせた。

「なんか甘い香りがするんだけど」

ずっと部屋の中にいる透にはわからない。洋子も鼻をひくひくさせる。

「あら、イランイランの香りだわ。透ちゃん、大丈夫? 誰か忍んで来たりしなかった?」

洋子は笑ったが、菊は青くなって透を見た。

「? 姉さん、どう言う事?」

「イランイランは男性を誘惑する香りなの。インドネシアでは新婚夫婦のベッドにイランイランの花をまく習慣があるのよ。惚れ薬としてクレオパトラも使用していたって言う話だわ」

透はイランイランのせいで、いつもより気持ちがザワザワと揺れ動いてしまったのだと言い聞かせた。

「透、どこかおかしな所はない?」

菊が心配そうに聞く。あまり二人を心配させるのは良くないと言う思いと、後ろめたさから、透は首を横に振った。洋子は知らないが、菊は透が入院中に拉致された事を知っている。菊は透が意識朦朧として病院のベッドに寝かされていた時、同じ香りがしたと言う。菊が洋子に説明すると、洋子も青ざめた。

「透ちゃん、とりあえず、換気をしておいて。後で匠に別のアロマを持たせるから」


 匠が一旦帰宅してから、お見舞いに来た。

「One smile for allのメンバーが、早くも透ちゃんが入院中って聞きつけて、お見舞いに行きたいって、聞いてきたけど、いいかな?」

「えぇ、あぁ、いいんじゃ無いかな」

珍しく、透は上の空だ。

「本当にいいの? って、話聞いてる?」

「あ、ごめん、よく眠れてなくて」

「なんか、心ここにあらずって感じだよね。何か手術後に問題でもあったの?」

「なんでも無いよ、疲れたせいかな」


 匠は1階の自販機で買って来たのか、常温の水を飲んでいる。地区予選を突破して、次は合唱コンクールの東京都コンクールなので、喉を冷やさないようにしているのだ。

 透は親ではないにしろ、ずっと姉夫婦と一緒に見守ってきた匠は、レイラの子供。そして、見知らぬアレクセイという男性とレイラの間に出来た子供。

「匠、食堂で何か食べるか?」

「もうじき夕飯だから良いよ。そろそろ、帰るね」

匠がレイラに似ている所があるという事は、アレクセイに似ている所もあるという事だ、と透は思った。

「あぁ、来てくれて有難う」

透はそう考えるとこれから、匠とどう接したら良いのかわからなくなってきた。

「あ、そうそう、母さんに頼まれていたものと、透ちゃんから頼まれていた物を持って来たよ。透ちゃんもアロマやるの? ユーカリのアロマオイルセットだよ」

「ちょっと頭がボーッとしているから、スッキリしたくてね。悪いけど、セットしていってくれるかな」

「お安い御用だよ。早く退院できると良いね」

「有難う」


 匠がナースステーションに受付証を返却しようと立ち寄ると、女性の看護師がジャンケンをしているのが見えた。匠の後ろから来た看護師が、匠に声をかけた。

「あ、受付証はこの箱の中に入れておいて下さいね。ちょっと、あなた達、何やってるの?」

匠は言われた所に受付証を置く。

「あ、師長!」

「どうしたの?」

「築地さんの検温、誰がするかって……」

匠は思わず足を止め、聞き耳を立てた。ジャンケンをしていた看護師たちは匠が、透のお見舞いに来たとは気づいていないようだ。

「だって、あんなイケメン、なかなかいませんよ〜」

「手術の時にいた子が言っていたけれど、腹筋シックスパックだったって」

きゃ〜という歓声があがった。師長と呼ばれた看護師は溜息をついている。匠はなんだか気恥ずかしくなって、慌てて階段に向かった。匠は誰も居ない階段を降りながら、自慢の叔父がどこでも人気がある事を知り、一人でニヤニヤしてしまった。


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 産後の鬱症状:急激なホルモンのバランスの崩れにより起こるものとされている。無気力感、疲労感、気分が沈む、異常行動、物事に対する判断力の低下等。中には自殺してしまう人も。

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