口づけは交わさない

mizunotori

口づけは交わさない

[美鳥が家を出たよ。よろしくね。]


 スマホに届いたメッセージを確認して、僕も自宅から飛び出した。

 クーラーで冷えた肌に、じんわりと夏の暑さが染みていく。

 少し気分が高揚しているのは、今日が文化祭という特別な日だからかもしれない。

 道行く人たちがみな高校へ向かうように見えてしまって、やはり浮かれているなと苦笑する。

 待ち合わせ場所は、互いの家のちょうど中間にあるコンビニで、だから同じ時間に出れば同じ時間に着く。

 そう思ったのだが。


「遅いっ!」


 小さな駐車場に仁王立ちした暴君は、険しい顔でこちらを睨んでいた。

 僕は、ごめんよと口では言うものの、思わず笑ってしまいそうになるのを堪えなきゃいけない。

 だってよっぽど急いで来たんだろう。

 彼女の額には汗が滲み、ちょっと息も切らしている。なんとも愛らしい。

 もちろん、僕が遅いんじゃなくて君が早すぎるんだ、なんて口答えをするわけにはいかないけれど。


「遅刻の罰はアイスだから!」


 怒れる女王陛下がそう命じるのに、僕はひたすら頭を下げるのだった。


 ◆


 帆稀美鳥とは長い付き合いになる。

 出会いがいつだったかも覚えていない。

 親同士が友人だったという関係で、物心がつく前から互いの家を行き来していた。

 そして、小学校、中学校、高校と、ずっと一緒に通っている。

 彼女の性格を一言で表すなら、「コミュ障」とか「自己中」ということになるだろうか。

 口を開けば、その本心とはかけ離れた、過度に攻撃的な言葉が湧いて出てくる。

 自分の思い通りにならなければ、あからさまに不機嫌になって、ますます意固地になってしまう。

 彼女とまともに友達付き合いをしている人間は、僕の知るかぎり存在しない。

 他ならぬ僕自身を除いては。

 自然、美鳥が周囲と起こす軋轢を、フォローするのが僕の役割になっていた。

 他の生徒たちも、あるいは教師でさえも、美鳥がトラブルを起こせば僕のもとにやってきて被害を訴えるようになった。

 すっかり保護者と被保護者の関係を認められているわけだ。

 幸いなことに、と言っていいのか、いじめの対象となるようなことは無かった。

 それは、僕が必死に取り繕ったからかもしれないし、あるいは美鳥自身の存在感によるものだったかもしれない。

 檻のなかにいるはずの肉食獣がいつのまにか教室に鎮座していたようなものだ。

 彼らは手に手を取り合い排除を試みるよりは、遠巻きに見守ることを選択したらしかった。

 ちょうどよく猛獣使いが隣にいるわけだしね。

 そんな、ある意味では均衡のとれた状況が、つい最近までは続いていたのだが。


 ◆


[美鳥、昨日は楽しみで夜中までばたばたしていたから、今日は眠たいんじゃないかな]


 ちらりと確認したスマホにはそんなメッセージが届いていた。

 僕たちは、軽音部の古いけれど柔らかいソファの上に、ふたり並んで座っていた。

 部室には他に誰もいないが、窓ガラス越しの陽気を浴びながら、遠く文化祭の喧騒を聴いていると、僕もぼうっとしてしまう。

 美鳥に眠くないかと訊ねる。

 「眠くない」と即座に返ってきた。

 スマホをいじりながら、見るからに不貞腐れた顔をしている。

 眠いと機嫌が悪くなるタイプなのだ。

 もちろん、彼女がうつらうつらと頭を揺らしはじめるのに時間はかからなかった。

 少し身を寄せて肩を差し出すと、美鳥は安心したように体重を預けて、すぐに寝息を立てはじめた。

 心の中で嘆息しながら、窓から外を眺める。二人組の女生徒と目が合った。

 彼女たちもこちらの様子に気付いて、途端に破顔するや、きゃいきゃいと騒ぎながら歩き去っていった

 たぶん僕たちのことを知っていたのだろう。自意識過剰ではなく。

 隠すようなことでもないので告白すると、僕と美鳥はバンドをやっている。

 わりと有名なはずだ。テレビにも出たことがある。ローカル番組だけど。

 少なくとも「校内で知らぬ者のいない」という形容を冠してもいいとは思っている。

 いや、有名なのは美鳥だけかもしれない。

 なにしろ美鳥は目立つ。

 ただ美人というだけではなく、ひと目で記憶に残る、はっきりとした顔立ちをしている。

 太い眉。ぎらついた眼差し。いつも不機嫌そうに結ばれた口元。

 そして凄絶なまでの歌声。

 どう見たって、美鳥が主役で、僕はオマケだ。

 しかしオマケはオマケなりに大変なわけで。

 ずっしりと体重のかかる左肩を意識すると溜息がこぼれる。

 僕は、自分まで寝てしまわないよう、静かに気合を入れた。


 ◆


[美鳥が部活に入ったって聞いた?]


 去年の春のこと、そんなメッセージが美樹さんから送られてきた。


[軽音部だって、びっくり]


 美樹さんは、美鳥のお姉さんで、もちろん僕とも長い付き合いだ。

 密かにメッセージをやりとりして、美鳥の日常をあれこれと報告してもらっている。

 とはいえ、軽音部に入ったという話については、美鳥本人から聞いていた。

 元から歌うのは好きで、二人でよくカラオケにも行っていたこともあり、美鳥が音楽を始めたということにそれほど驚きはなかった。

 問題は、僕以外にはまともに友達もいない美鳥が、どうして部活に入ろうだなんて思ったかということだ。

 なんでも、勧誘がしつこかったので抗議するために部室に乗り込んだら、上手いこと丸め込まれてその場で入部届を書かされたらしい。

 軽音部は校外でもバンドを組んでいるが、去年まで人気を一身に背負っていたイケメンの先輩が卒業後に東京の大学に行ってしまったとのことで、その人気が大きく低下してしまった。

 そこでフロントマンとして白羽の矢が立ったのが、入学直後からその容姿が評判だった美鳥だったわけだ。


「歌は下手でもいいんだ」と軽音部部長は言い放ったそうだ。


「我々が求めているのは顔だ。とにかく帆稀さんはその顔で観客の注目を集めてくれればいい」


 そんな失礼な口説き文句でどうして了承したのか分からない。

 ともあれ美鳥は軽音部に入った。

 そしてすぐに僕のところに苦情が入ることになった。


「人格も求めるべきだった」


 軽音部部長は苦々しげな顔で言った。

 話を聞けば、入部早々に他の部員らと衝突して追い出してしまったらしい。

 そこで逆に美鳥を退部させて、他の部員たちを呼び戻したい、というのが部長の要望だった。

 僕は美鳥の首根っこを掴んで、二度と軽音部に行かないことを誓わせるはめになった。


 ◆


[あの子、毎晩ギターの練習してるよ]


 入部騒動からしばらく経った頃だった。

 美樹さんからのメッセージで、美鳥がすでにギターまで買っていたことを知った。


[バンドをやりたがってるみたいだけど]


 軽音部から追い出されてこの方「バンドなんて、嫌い!」と口癖のように言っていたのに。

 本当に面倒くさい奴だ。

 とはいえ、僕のまったく知らないところで、変な男とバンドを組まれても困る。

 これは偏見だが、男が音楽をやる理由の9割は女にモテるためだ。

 そんなナンパな奴に美鳥を近づけるわけにはいかない。

 しょうがないのでこちらからバンドに誘うことにした。

 美鳥は目を白黒させて「楽器弾けたっけ?」と言った。

 そのとおり僕は楽器なんて何も弾けなかった。

 美鳥だってほぼ独学なのだ。

 ちゃんと音楽をわかっている人を引き込む必要がある。

 というわけで軽音部部長を脅迫した。

 おまえのせいで美鳥が音楽にのめり込んだんだから責任を取れ、と言えば、意外にもあっさりと首を縦に振ってくれた。

 彼女としても、無理を言って加入させたあとに追い出す形になったわけだから、それを気に病んでいたらしい。

 もともとのバンドと掛け持ちでこちらにも参加してくれることになった。

 とはいえ。


「なんでこいつがいるんだ」


 部長との関係はそれほど悪くはなかったはずなんだが、やはり追い出されたことを根に持っていたらしい。

 露骨に不機嫌になる美鳥を宥めすかすのに苦労したし、美鳥が嫌がるならと翻意しようとする部長を引き止めるのも大変だった。


「別に彼を取って食いやしないよ、私には恋人がいるしね」


 部長がそう言って聞かせてなんとか結成と相成った。

 まあ十年も二十年もこのメンバーでやっていこうというんじゃない。

 こんなのはお遊びだ。

 美鳥の気が済むまででいい。


 そう思っていたんだけどな。


 ◆


[ライブ、いちばん近くで聴いてるから]


 美樹さんからのメッセージを眺めながら、ぼんやりと昔のことを思い出していると、かちゃりとドアが開く音がした。


「そろそろ出番だぞ」


 部長が呼びにきたようだ。

 たかだか高校の文化祭とはいえ、僕たちのバンドの評判もあって、かなり観客が集まっているらしい。

 さすがの部長も緊張を隠せないように見える。

 肩にもたれて眠っていた美鳥を、僕は揺すって起こした。

 寝起きの美鳥は、ぼんやりとして、僕の呼びかけにも生返事を返すだけだった。

 大丈夫だろうか?

 もちろん杞憂だった。

 中庭に作られた簡素なステージに上がったときには、美鳥はすでに触れがたいほど研ぎ澄まされていた。

 まずは学園ドラマの主題歌となったヒット曲。続けて劇中でも文化祭で歌われたポップなアニソンを演奏し、最後は唯一のオリジナル曲。

 部長が作曲をして、僕が作詞を担当した。

 「口づけは交わさない」という曲だ。

 シンセのプリセットを組み合わせただけの単調なメロディ。

 けれど美鳥の歌声が乗ると、そこには確かにグルーヴが生まれる。

 彼女の感情が莫大なエネルギーとなって放出される。

 歌っているときにだけ、美鳥は素直になれるのかもしれない。

 低音から高音へ、その特徴的な声色が力強くドライヴする。

 駆け上がっていく。絶頂へと向かう。

 サビの入りと共に、美鳥がその指を天に突き上げた。そのとき。

 一瞬の閃光と、そして何かが崩れ落ちるような音が響いた。

 雷鳴。でも雨は降っていない。雲すら出ていない。

 文字通りの青天の霹靂だった。

 動揺した僕のギターを、観客のどよめきがかき消そうとする。

 でも歌は止まらなかった。

 美鳥の声は、ざわめく観客を貫いて、遥か向こうまで響いていく。

 ああ、これはすごい。本当にすごい。

 それは確信に近い未来だった。

 十年後も、二十年後も、僕はこの歌を聴いているだろう。

 この歌声をいちばん近くで聴いて、聴き続けて、そして幸せに死ぬのだ。 

 僕たちの文化祭は、万雷の拍手で幕を閉じた。


 ◆


 帰り道。

 久々に美鳥はご機嫌だった。

 夕暮れのアスファルトの上を、楽しそうにくるくると回りながら弾むように歩く。

 転ぶぞ、と注意すると、じゃあ支えて、と返してくる。

 いまの彼女は無敵だ。

 全能感に包まれてどうしようもなく高揚しているのだろう。

 もちろん、それは僕も同じだった。

 僕たちは無敵だった。


「楽しくなってきた」


 美鳥は笑った。


「どこまでも行けそうな気がする」


 きっとそのとおりだ。

 美鳥はこれから遠くへ、ずっと遠くへ行くだろう。

 誰の手も届かない場所へ。

 雷鳴に祝福されるステージへ。


「おまえと一緒だったら」


 美鳥がこちらを向いて止まった。

 眼差しが僕を射抜く。


「付いてきてくれるよな?」


 ああ、もちろん、と僕は返した。

 それがカノジョから託された唯一の願いだったから。


 ◆


 それから電源の切れたように動きを止めた美鳥を背負って、僕はようやく帆稀家に辿り着いた。

 すでに日は落ちて、表札を照らす小さなランプだけが、薄闇を晴らしていた。

 着いたよ、と背中に声をかけて、ゆっくりと美鳥を下ろす。

 ほら、自分で歩きなよ、と促すが、しかし俯いてそこに立ち止まったままだ。

 しょうがないなとその手を引こうとした。


 ――不意に。


 パチリと目が開いた。

 雰囲気が違っていた。


「美樹さん?」 


 僕の漏らした言葉に、美鳥は――いや、美樹さんは、薄く笑って応えた。


「面と向かっては久しぶりだね」


 普段の表情とはまるで違う。

 朧月のように儚く、美しくて、とてもこの世のものとは思えない。

 いや事実として、かつてカノジョはいちど死んだ――


「びっくりしました、いきなりだったから」


「今日のライブ、素敵だったねって、それだけ伝えたくて。ただ、」


 美樹さんは少し言いよどんで、


「あなたは上手くなかったけど」


「勘弁してくださいよ」


 美樹さんに聴かれていたことを意識すると途端に恥ずかしくなってくる。

 もう少しかっこいいところを見せたいのだが。


「美鳥、すごく楽しんでた」


「それなら良かったですが」


 そこで言葉が途絶えた。

 話したいことはいくらでもあった。

 次に会えるのはいつになるかわからない。

 いや、また会えるという保証もない。

 この美しい女性は、この瞬間にも消え失せてしまうかもしれないのだ。

 そんな想いに囚われた瞬間に、思わず美樹さんを抱き寄せていた。

 ふわりとカノジョの体重を感じて、僕はどうしようもなく泣きたくなった。


「これからも妹をよろしくね」


「ええ、もちろん」


 そして、僕らは口づけを交わした。

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