第4話

店を出てから十分は歩いている。駅からもかなり離れたようだ。明るかった街並みもいつしか暗がりが勝るようになり、人も少なくなってきた。


 まだ頭がうつらうつらとする。先ほど出会った子供連れとバーの店員とのやりとりがちらつく中で、これからのことを考えていると、この鞄をどこに運ぶべきか思い出せないことに気が付いた。なぜ、駅の前を通過して商店街の奥に進む道を選んだのか。とにかく運ぶ。そのことだけは覚えているのだが、運ぶべき場所が判然とせず、自分と鞄が宙ぶらりんになって取り残されたような感じがする。


 山奥まで鞄を運んで、見つからないように処理する算段だっただろうか。いや、それならわざわざこの駅を選んだ意味がない。もっと閑散とした田舎の駅で行うほうがスムーズだろう。しかし、この街並みもなんだか既視感がある気がする。何か肝心なことを忘れているのだろうか。進めばその答えも思い出せるだろうか。


 道のわきに広い公園が見える。中央に大きな杉が立ち、遊具が取り囲むように配置されている。街の明かりと街灯の光でそこまで暗くはなく、まだ遊んでいる子どもたちと立ち話をしている保護者たちの姿も見える。公園の傍を通過する刹那、駅の近くで出会った子連れの女性を見たような気がした。もしかしたらこの辺りに住んでいるのかもしれないと思いつつ、駅まで案内した事実と相反していることに気づき、やはり見間違ったのだと言い聞かせた。


道はだんだんと狭くなり、ほの暗い中に規則正しく並んだ住宅が囲んで見下ろしてくる。人気はほとんどなくなったが、その代わり、後ろを歩く何人かの気配が気になった。それとなく振り返ってみると、白いジャージ姿の何人かの男が物も言わずに固まって歩いている。つけられている。その可能性がよぎった。五十メートルほど前を歩いている自分と、十字路が連続する住宅街であることを考慮すると、突然向こうが走って追いかけてきても撒くのは難しくなさそうであるが、今は体がうまく動かせる自信がない。その上、人数を分散して先回りし、挟み撃ちにされれば逃げられない。注意しなければならない。しかしそもそもこちらの考えすぎで、追手ではないかもしれない。


 確かめてみる決心をした。新たな十字路に差し掛かったところ、左手の道を少し進むと自動販売機が見えた。今の十字路の地点から追いかけられてもおそらく十分逃げ切れる距離に位置している。左に曲がり、後ろの集団の視界から外れた瞬間、自動販売機の前まで走った。飲み物を買うふりをしながら待機し、もし彼らもこちら側に曲がってくるのが見えたら追手と判断し、全力で走って逃げるという計画である。


 自販機のほの白い光を浴び始めて、三十秒、もしかすると一分たったかもしれない。あの集団がこちらに曲がってくることはない。それどころか、十字路を通過する姿すら見えない。どこかの住宅に入ったのだろうか。


 安心してまた歩き始めた。進むにつれて暗さが増している。黒い鞄も私も闇に馴染んできたような気がする。少し歩いて、ふと振り返って、心底ぞっとした。さっきまでと同じ間隔の後、白ジャージたちがそろそろと歩いている。またつけられている。走って逃げなければ。しかし、恐怖と眩暈が相まって足が強張っており、走れそうにない。


 この鞄を狙っているのだろう。なぜばれた。いつからつけられていた。あんな人込みを通るんじゃなかった。誰かに気づかれてしまったのだ。この鞄に入っている私の罪を。自業自得だ。すべて私が悪い。どうすればよい。全て白状して捕まってしまおうか、もしかしたら鞄を差し出すだけで許してもらえるかもしれない。そうだ、そうしよう。しかし、この鞄には一体何が入っている?私は一体何をしでかした?それは自分で言っていたろう。子どもを殺したのだ。その死体がこの中に入っている。しかし、その子どもは一体誰?誰の子供だ。なぜ殺さねばならなかった。どうやって殺した。覚えていない。しかし、この鞄が狙われていることは事実だ。組織で狙ってくるとは、それ相応のものが入っているはずだ。とにかく私は殺人者なのだ。この鞄は絶対に守らねばならない。


 殺人者という言葉が頭に居座って、乱れた思考を統制し始めた。そうだった。私は殺人者だった。殺人者という恐ろしい存在だった。追ってきている奴らも、決して平然としているわけではなく、先を歩く狂人に最大限の注意を払い、そうして闇に立ち入らんとするような恐怖を感じているはずだ。


 いつの間にか、小さな丘をのぼる坂道へ差し掛かった。坂を上りきるまで逃げ道はなく、坂の真ん中に街灯がぽつんと立っている。街灯の白い明かりの下に入ると、私は立ち止まり、坂を上がってくるジャージの男たちを見据えた。男たちは途中で立ち止まり、こちらの様子をうかがっている。街灯の明かりの及ばないところにおり、顔は判別できないが、五人いる。


 私は闇の中、街灯の下に佇む、死体を入れた鞄を持った殺人者の姿を想像した。しかも友人に暴力をふるい大けがをさせたらしい危険な男。もじかしたらその友人も殺したのかもしれない。頭の殺人者の姿が肥大化して、体の芯を震わせるような生暖かい高揚感を生み出し、頬の筋肉を釣り上げていくのを感じる。暗闇に浮かぶ歯をむき出しにした狂気の笑顔を重ねて想像した。


 奴らがこちらににじり寄ってきている。相手も相当の覚悟があるようだ。こちらの高揚感も増すばかりで、奴らを八つ裂きにしたくなるような衝動が体全体にいきわたる。


「知っているだろう。おれは、殺人者だ。」


 高らかに叫んだつもりだったが、舌がもつれて妙なうめき声がもれただけだった。彼らはにじり寄るのを止めない。街灯の明かりに入り、もう少しでそれぞれの顔が見えるくらいまで接近している。


 その時、口から下を血で浅黒く染めた狂人のイメージが去来した。鞄の中には死体が入っている。子どもの死体か、もしかしたら友人の死体かもしれない。死体を噛みちぎっている姿を、死体の胸を引き裂いて心臓に噛みついて血まみれになった狂人の顔を見せてやりたい。


 黒鞄のチャックを一気に開けた。その瞬間、奴らが駆けてくるのを感じたが、構わず鞄の中に顔を突っ込み、噛み付いた。


すると予期したような臭いや歯ごたえはなく、真っ黒になった視界と荒くなった息遣いの余韻を感じるだけであった。


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鞄を持った男 @aikawa_kennosuke

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