第3話

書店を出てしばらく歩くと、小さな商店街が見えた。定食屋、居酒屋、呉服店などが詰め込まれていて、それぞれ控えめな明かりを漏らしている。その一角にあるビルの、バーの看板が指し示す、狭い階段を降り、薄暗い中にひっそりと佇む西洋風の扉を開けた。


 カランカランとベルの控えめな音が響いた。アルコールと香水と衣類の匂いが混ざった匂いに迎えられ、カウンターの奥の席に着いた。


細身の青年と、同年齢くらいと思われる女性の二人で切り盛りしている店のようだ。女性店員は2人組みの女性客と話している。


「こんばんは。今日は何にしますか。」


くすんだ白いシャツを着た男性店員が目の前に立った。


「なんか酔えるやつを、適当に。おすすめはある?」


 店員は答えずに無言で酒を選び始めた。


 対応の悪い奴だなと思いつつ、なんだが向こうはこっちのことを知っているような感じもして、卑屈な目線がさらに下を向いた。


 氷で割ったウイスキーを差し出しながら、


「どうです。お仕事は順調ですか?」


と男がたずねてきた。無表情で、しかしまっすぐにこちらを見て話してくる。答える気にはならない。


「なんだかいろいろあって。そっちはどうなの?お店とか。」


男は少し俯いて話し始めた。


「最近はどうにも客層が悪くていけません。客入りはいいのです。夫婦で暮らしていけていますし、貯金も少しずつですができています。そろそろ子どもとかいいなあとか、そういう話もできるようになりました。子どもはいいのですが、妻の体から別の人間が生まれて、自分とは全く異なった思考とか性質をもったその人間のためにあくせく働いていくのが、なんだか気味悪くも感じます。子どもはお嫌いですか?世間では家庭を持って子どもを作るということが、らく印を押し合う一つの線引きみたいなっていますからね。そう考えると、なんとも窮屈ですね。あ、客層が悪いといいましたが、本当に悩んでまして。私の気のせいならいいのですが、最近は暗くてじめじめしたような感じのお客さましか来なくなりました。要は卑屈な感じを受ける方ばかりなような気がするのです。お話しをして、その方の人生を想像しても、明るいものがあまり見えないといいますか。いえ、もちろん私が個人的に抱いた印象で、思い過ごしなのかもしれませんが。最近というのは、ここ数か月間くらいでしょうか。暗い事件が多いからかもしれませんね。」


 相槌を打ちながら、ちらっと足元の鞄に目をやった。


「・・・それはそうと、この間は大変驚きましたよ。一体どうされたのですか?」


唐突に投げかけられた質問は、怪訝な胸裏からの響きを持っており、ふっと上げた目が店員の目線とぶつかった。思いめぐらしながら何も言えないでいると、


「覚えていらっしゃいませんか。前回いらっしゃったとき、ご友人と店内で口論し、取っ組み合いの喧嘩をしていたこと。」


と店員が目を鋭くし、身を乗り出すようにしながら重ねて問う。記憶はない。


「いい加減にしてもらえませんか。とぼけても無駄ですよ。その証拠に、なんですかその落ち着きのない挙動不審な態度は。ご友人と口論になったあの日はそれもうひどかった。あなた方は最初は経済学だとか労働社会学だとかの話を双方うなずきながらされてましたが、難しい研究者の名前を出しながら生命倫理だとかの話にまで移ると、二人とも不満そうな顔をするようになりました。私は学のあるほうではないですが、あの議論であなたのほうがやっつけられているということはわかりました。何かの弾みで糸が切れて、結局あなたは殺さんと言わんばかりの暴力の応酬で、ご友人の頭を激しく殴り、店内をめちゃくちゃにした後、ご自身で友人を担いで退店されました。本日のお見えになったのは当然謝罪と弁償のためかと思っていましたが、どうやら違うようで驚きましたよ。まさか、今回のご友人を伴わずにきた寂しい身なら店に受け入れてもらえると思っているのですか。そうして居合わせないご友人に罪のほとんどを被せられると、そんなつもりで来られたのですか。そうでしたら勘違いですし、あなたは大変狡いです。」


 誤解だ。この男は今日この店に初めて入った者を、以前何やら店に損害をもたらしたらしい者と間違えている。反論をしようとしても、なぜかうまく言葉が出てこない。なんだか視界がうつらうつらとする気がする。体全体がなんとなくふわふわして力が入らない。盛られたのだ!さっき注文した酒。あれに何やら抵抗力を削ぐ薬でも盛られたのだ。しかし一口も飲んでいないはずだ。いや、目の前のグラスは少し減っている気もする。きっと盛られたのだ。だが確かに飲んだ記憶はない。何がなんだが分からなくなってきた。そういえば、よく一緒に酒を飲む友人にも心当たりがある気がする。この店も店員の男も、見覚えがあるように思えだした。


「黙りこむのはよしてください。この間は非常に流暢にお話ししてたじゃあないですか。それとももう居直って黙っていると、追及を回避できるとお考えですか。冗談じゃないですよ。それなら。そうですね。今日持ってこられたその黒い鞄。それを置いて行ってくれませんか。」


 私は言われるが早いか、鞄を抱えて席を立ち店外へ急いだ。二人の女性客の不審そうな目線を受けながら、もつれそうになる脚を必死に動かし、ドアを開けて階段を駆け上がった。追いかけてこられたら、鞄を武器にして殴ってやろうと思っていたが、追ってくる様子はない。


 危険だ。ここには二度と来ることはないだろう。鞄をとられるところだった。しかし、一体何が起こっているのか。あの男の気がふれているのか。それとも男の言った全てが事実で私のほうがおかしいのか。いやそれよりも鞄だ。まずは鞄のことだけに意識を当てて、後のことはこの仕事が終わってから考えればよい。


周囲に目立たないように、動揺を隠してゆっくりと歩いた。


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