第2話
駅の近くにある書店に立ち入った。特に目当てのものはないが、少しでも目立たないようにするため、何かしら用事があるように振る舞う意識もないことはなかった。店内の本の数に反して人は少ない。それでも注意して店内の隅に移動し、鞄を床に置いて左手を休めた。
膨大な数の知識や営為を蓄えた本棚を目の前にしていると、自分の卑小さと比べてしまい、自分という存在がより矮小化され陳腐になったような感じを受ける。いつだったか、このような連想から起因する焦りと反感を抱いたことがあった気がするが、どこで誰と感じたことなのか思い出せない。
しかし、今の私にはこの鞄がある。私を罰の業火へ引きずり込む危うさを持ち、逆らい難い縛りを発しているものではあるが、同時に自己に特殊性を付与し、強烈な満足をくれるものでもある。もし鞄をこの場に放置して立ち去り、発見した誰かが開けるとする。中身を見た奴はおそらく、予想を凌駕する事実に驚嘆し悲鳴を上げることだろう。その想像をしただけでクックッと卑しい笑いがもれそうになる。この巨大な爆弾を抱えているような感覚は、もちろん身を焦がすような恐怖と緊張を生むが、自己へ恍惚たる飛翔を予感させてもくれる。
すぐそばで本棚を整理している店員が目に入った。こいつも鞄と私の罪について何も知る由もないのだ。そう考えると優越感に近い高揚感が発生し、自身を不必要に快活にさせるので、気づいた時には床に置いた鞄はそのままに、クリーム色のシャツの背後から話しかけていた。
「すみません。教えてほしいのですが。」
眼鏡をかけた中年の店員が振り向いた。
「何かお探しですか?」
「ええ。友人から紹介された小説を探しています。サスペンスもので、犯人の死体隠しの方法が特徴的らしいのですが、タイトルや作者名を思い出せなくて。いえ、最近発刊されたもので、文庫本ではないはずです。先ほどから見つからなくて、あちこちの棚を見ていたところでした。実は友人から聞いた内容はメモしてまして、あそこに置いている鞄の中を探せばメモも見つかるかもしれませんが、大荷物なので開けるのが億劫で。荷物を出して散らかすのもお店に迷惑かと思ったので。」
そこまででたらめを話すと店員は特に怪しむでもなく、少し考えた後、確認してくる、とレジの方へ向かった。
存外おかしく思われることもない。やはり自分の考えすぎで、鞄を過剰に意識しすぎていたのだと思い至った。しかしその一方で店員が戻ってきた時、私を捕えようとする誰かを連れていて、そのままお縄をにつく結末の空想をしないこともない。このまま鞄を持って出てしまおうかとも思ったが、店外へはレジのすぐ近くを通らねばならず、変な疑惑の種をわざわざふやすこともないと、内心の不安を歪な自信で隠しつつ店員を待つことにした。
店員は小走りで戻ってくると、一冊の黒い本を持って
「お待たせいたしました。この本ではないでしょうか。」
と言った。
私はタイトルも碌に確認せず、違うと言った。そもそも依頼した本は存在しないはずだし、あったとしても別に買いたいとも思わないだろうから。鞄を持った私は冥々としたような勝利の情を抑えて、失望の感で滲んだような微笑を作り、少し残念そうにしている店員のそばをゆっくり通過した。
外は相変わらず人が多いが、なんだか勝手に安心して、人々の群れに混じっていった。
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