第39話 英首相
「何が間違っていたのか」
独りになった執務室で英国の首相チャーチルは考える。
英日の艦隊が激突したインド洋海戦、その戦いで東洋艦隊は惨敗を喫した。
東洋艦隊を撃ち破った日本艦隊はその後、コロンボやトリンコマリーといった英国の拠点を撃滅、さらにインド洋周辺のイギリス商船を片っ端から沈めて回っているという。
一連の報告を受けてチャーチルは自らの政治生命が断たれたことを悟った。
昨年の一二月、米日が開戦したとの報を受けたときは、これで英国はこの戦争に勝ったと喜んだものだ。
あれからまだ、半年も経っていない。
英国の情報機関の総力を結集して米日の対立感情をあおり、ときにはソ連の諜報機関とも連携して米国と日本を戦争に引きずり込んだ。
そこまではよかった。
読み違えていたのは日本の海軍力だった。
開戦早々に英国は新鋭戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」の二隻の主力艦を日本海軍の陸上攻撃機によって沈められた。
その同じ月、ウェーク島沖で米国と日本の主力艦隊同士が激突、その結果太平洋艦隊は壊滅した。
年が明けてからは日本艦隊が豪州の人口密集地帯を急襲、シドニーとブリスベンを文字通り火の海に沈めた。
そして先日、日本艦隊によって東洋艦隊までもが壊滅した。
チャーチルはいまさらながらに思う。
あるいは、最も読み違えていたのは日本の情報戦略だったのかもしれないと。
宣伝戦略と言ってもいい。
日本は「ハル・ノート」とそれに伴う米日交渉の経緯、さらにウェーク島沖海戦の真相を米国民に公表し、ルーズベルト大統領を窮地に追い込んだ。
豪州のブリスベンとシドニーが日本の艦砲射撃によって壊滅したときにも似たようなことを仕掛けてきた。
そう、英国に対して。
日本政府は豪州における一連の戦闘結果を発表した際、もし東洋艦隊が豪州に救援に来たならば、日本艦隊はおとなしく撤退するしかなかったと言ったのだ。
「日本の戦艦は七隻で東洋艦隊の五隻よりも数は多いが半数以上は装甲の薄い『金剛』型戦艦であり、主砲の威力も英戦艦のものより劣る。実際の戦闘力は東洋艦隊の方が上であり、もし、豪空軍と東洋艦隊に挟撃されるようなことになっていれば日本艦隊は大損害を被っただろう」
彼らはそう言って東洋艦隊を持ち上げつつ当時の英国の対応を皮肉った。
だが、それは真っ赤な嘘だ。
確かに戦艦の数は事実だ。
「金剛」型戦艦が半数以上というのもきわどいが真実だ。
だが、戦闘力は日本の方が明らかに上だった。
日本は四〇センチ砲戦艦を三隻も持っていたのだ。
あるいは、そのうちの一隻は四三センチもしくは四六センチ砲かもしれない巨大戦艦だ。
この三隻だけで東洋艦隊の五隻の戦艦と互角に戦えるだろう。
それに「金剛」型戦艦も数がそろっていれば相当な脅威だ。
空母や巡洋艦、駆逐艦に至っては比べるまでもない。
そのうえ、このときは東洋艦隊の巡洋艦や駆逐艦には整備中のものが多かった。
戦艦群も統一した訓練をしていない。
言葉が過ぎるのを承知で言わしてもらえれば、豪州が日本艦隊の攻撃を受けた時点での東洋艦隊は烏合の衆だったのだ。
とても豪州救援に向かえる状態ではなかった。
だが、一般の国民にはそれが分からない。
日本の発表を真に受けた豪州国民の多くは東洋艦隊は豪州を救う力を持ちながら救援に来なかったと思い込んでいる。
それに対し、豪政府はこれといった行動は起こしていない。
豪政府へ向かうはずの怒りが東洋艦隊にいくのであれば、それはそれで構わないと思っているのだろう。
軍事マニアだけは事情を理解していたようだが、軍事マニアという変わり者はどこの国でも少数派だ。
大きな声にはならない。
やがて、豪州国民の怒りの矛先は日本艦隊から東洋艦隊、さらには英国への不信と憎悪に変わっていった。
豪州は英国の求めに応じて遠い欧州の地に若者を大量に送り込み、多くの血を流してきた。
にもかかわらず、自分たちの窮地に対して英国は東洋艦隊という豪州を救える戦力を持っていながら手を差し伸べてくれなかった。
そして豪州は連合国陣営から離脱した。
英国への筋違いな怒りや恨みを残して。
英国が、少なくともチャーチル自身が豪州国民の誤解を解くための機会は永久に失われた。
日本政府は、同国艦隊のインド洋における作戦が終われば、また何かよからぬ発表をするのだろう。
その時はまだ自分は首相だが、すでに死に体だ。
どうしようもできない。
「しかし、いったい何者なのだ」
連合国の首脳をあの手この手で苦しめる、宣伝上手のロクでなしは。
そいつのために連合国はこれからも苦戦が続くだろう。
実際、米国から送られてくるはずだった欧州向けの戦争資源のうちの多くが日本艦隊を恐れた西海岸の住民らの訴えによって太平洋側へと回されている。
さらに米国は空母「ワスプ」ならびに「レンジャー」をハワイ防衛のために大西洋艦隊から太平洋艦隊に引き抜くと通告してきている。
英国はこれを何とか阻止しようとしているが、おそらくは無理だろう。
その大西洋の戦いでも異変が起きている。
米駆逐艦がUボートによって次々に食われているのだ。
原因は分かっている。
ウェーク島沖海戦での太平洋艦隊の壊滅だ。
あの海戦で米海軍は大勢の訓練された将兵を失った。
その穴を埋めるために大西洋艦隊から大勢の乗組員を太平洋艦隊に回した。
大西洋艦隊はその乗組員の抜けた穴に経験の少ない新兵を多数投入せざるをえなかったはずだ。
しかし、軍艦というのは乗組員の数さえそろっていれば戦力を発揮できるというものではない。
不慣れな新兵を多く乗せた米駆逐艦は本来の力を発揮できずに歴戦のUボート乗りに沈められていったのだ。
あるいは独海軍の戦略かもしれない。
狼どもに、先に不慣れな牧羊犬を食い殺させて、あとでゆっくり羊を料理するという。
だが、なにより痛いのはインド洋の制海権の喪失だ。
これで英国はインド航路と米航路の二大海上交通路のうちの一つを失った。
英国の継戦能力は危険なまでに落ち込むだろう。
これで英国民がただちに飢えるということはないが、対独戦における戦略の大幅な見直しは避けられない。
ソ連はさらに危険な状況になった。
米国の戦争資源の優先順位は西海岸とハワイ、次に英国、最後にソ連になるからだ。
大西洋の米駆逐艦を食い荒らしたUボートは勢いづいて英米連絡線を徹底的に破壊しようとしてくるだろう。
英海軍は全力で英米連絡線を守ろうとするが、商船の規模に対して護衛艦艇の数があまりにも少なすぎる。
そこへもってきての東洋艦隊の壊滅だ。
インド航路を失った英国にとって英米連絡線は最後の生命線だから英海軍はUボートに対抗するために他の戦域にある艦艇も大西洋に集中せざるを得ない。
護衛艦艇を捻出できなくなった援ソ船団は今後先細りになるのは避けられないだろう。
物資不足に陥ったソ連はドイツに押し込まれ、米空母の協力を失った英海軍は積極的な行動がとれなくなるはずだ。
ドイツはますます強大になり、大勢の連合国兵士が死ぬだろう。
連合国にとって最悪の循環が始まろうとしている。
「だが、自分はもはや何も・・・・・・」
チャーチルは繰り返す。
いったい何が間違っていたのだろうかと。
一方、遠い東の国ではチャーチルが言うところの「ロクでなし」が日本の未来を決定づける大きな思惑の渦に放り込まれようとしていた。
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