空の下のドラゴン


「……ぁ」

 あお、青、蒼。色に含まれるのは哀しみか、怒りか、そのどちらもか。目覚めた先で待っていたのは、あお一色の世界だった。



 空が見えた。曇りのない、真っ青な空。清々しいほどの晴天によって、惨めな死に様がいっそう惨めに飾り立てられている気分になる。

 ゲオルグさんの姿は見えない。おれはあの人に、見捨てられたのだろう。


 視覚のつぎに、刺激されたのは嗅覚だった。

 鉄くさい、血のにおいがする。いつも朱狼がまとっていたものに近い、屍肉から垂れていく、血のにおいがする。

 ひどく身体が重たい。

「……ぁ、あ」

 起き上がろうとして、血のぬかるみに足を取られた。

 痛みに思わず呻いた声は、奇妙な音響《エコー》をともなって、まるでモンスターの濁った鳴き声のように聞こえた。

 おそらく咬まれたときに声帯がつぶれたせい、なのだろうが……。

 おかしな点は、いくつもある。


 おれの手は、こんなにも凹凸が激しかっただろうか。おれの足のツメは、こんなにも鋭く尖っていたのだろうか。おれの耳は、いままで自在に動かすことができていただろうか。足に絡みつく、スネーキーのような生きものは、なんだろう。

 呻く声は、人の声にはほど遠く。

 そして、ああ。おれの血は、こんなにも蒼かったのだろうか。


 

 なんとか半身を起こし、血液らしき青い液体の張った土に、顔を映した。


 ああ、やっぱりそうだ。モンスターそのものの声を、おれはのどから絞り出した。ぐるる、と唸りが森に渦巻いていく。

 おれは、いったい何に巻き込まれたんだ。

 おれは、いったい何をしたと言うんだ!!


 ……その言葉が、脳内でこだました。


 地面に、映ったおれの姿は。

 もう、予想はできていた。おれは人ではないものになっていた。おれは地面に、醜いモンスターのシルエットを認めた。

 スネーキーのように思えたものは、おれの臀部でんぶから生えるしっぽだろう。

 トマスに聞かされていた竜の特徴。ウロコ、ツメやキバ。それらを持ちあわせるいまのおれは、ただのモンスターだ。


 俺は座り込んだまま、天を仰いだ。そのとき。


「紫陽! どこだ、紫陽!!」


 鋭く厳めしい声が、森に響きわたった。木々の合間に、人影がぼんやりと映る。青い視界の中では、朱狼らしき人物はシルエットしかわからない。


『シュロウ!』


 朱狼、と呼びかけたはずの声は、咆哮となって放たれた。とたんに、俺の瞳を切り裂くように鋭いナイフが飛んできた。

 朱狼愛用のジャックナイフだ。

 すんでの所で、おれは首をひねって避けた。行き場をうしなったナイフは、後方の木の幹に突き刺さった。つぎのナイフは片翼を掠めた。その程度でも出血するほどの傷を付けられてしまったので、切れ味は抜群らしい。


「やはり……『龍』だな」


 朱狼は訝しげに、こちらを観察している。もちろん、距離はしっかり取って、ナイフを構えたままだ。麻袋を背負っているから、狩りの帰りにおれが居なくなっていたことに気付いたのかもしれない。

 朱狼におれだと気付いてもらうため、唯一の証明になりそうな純白の布を放り投げた。

 布はところどころ汚れているが、おれのサインが入っている。

 朱狼はとまどいつつも、それを受け取ったように見えた。


「これは……紫陽の!」


 ああ、狙い通りだ。ひと安心した。こうしている間にも、先ほど朱狼に狙われた右翼から、少しずつ血が滲みはじめている。おれの体は見た目よりも弱いつくりらしい。


「間に合わなかった……お前が」

『おい、シュロウ!』

「お前が、紫陽を!」


 言うなり、朱狼は素早くこちらに接近し、ナイフを投擲した。再びぎりぎりのところで避け、おれは後ずさった。だが、続けての投擲を避けることはできず、片翼がナイフで釘付けにされた。

 翼あたりの神経が引きつる感覚が、ひしひしと伝わる。


『痛ってぇ……』

「妙だな、反応が鈍い」

  

 おれのもたついた様子に、朱狼は不信感をもったらしい。彼は少し警戒を緩めたのか、おれとの距離を縮めた。ジャックナイフがキラリと光った。


「紫陽……遅れちまったんだな、俺は」

 

 朱狼の、悔やみを含んだつぶやき。

 ああ、遅すぎたんだよ、朱狼。なあ、どうすればいいのかな。なんて聞いたら、いまのおれにはジャックナイフが飛んでくるんだろう。  

 その間も、おれの血はとめどなく流れていた。……ゆっくりとおれの中から血とともになにかが抜けていく。

 赤い花が散った。 


「ぐぁっ!?」


 かつん、とジャックナイフが地面に衝突する音がした。同時に、朱狼の服が裂ける音がする。

 体のなかから抜けていったもの。それが理性だと気付いたのは、目の前の惨状を理解してからだった。


「あ、ああっ」 

 

 朱狼は片腕になっていた。悲痛な叫びは、おれの良心ではなく食欲を煽った。 

 朱狼の右腕が、おれの口の中でゆっくりと咀嚼されていく。骨を奥歯でかみ砕き、筋肉の筋を力強く絶ち、肉を食んだ。血の弾けほとばしる食感が、生々しさをより高めた。

 おれは心の中に生まれた罪悪感を、朱狼の腕とともに呑み込んだ。


 

『もっと、もっと欲しい』

「ああ……はあ、はあ、くそっ!」


 先ほどおれが投げつけた布を利用し、朱狼は器用に片手で止血した。見る間に布が血で染まっていく。


「俺としたことが……」

『食わせろ……』

 

 もうおれは、何もかもがどうでも良かった。ただ、逃げ出していくエネルギーの補填をしたかった。ただただ、目の前のに食らいつきたかった。

は息を荒らげている。


「はあ、はあ、化け物め……」


 は、おれからゆっくりと遠ざかっていく。だが、こちらが追いつけぬほどの速さでもなければ、距離もそこまで空いてはいない。と思った瞬間、は視界から消えた。周囲には木々のみが広がっている。おそらく木陰に隠れたのだろう。

瞳を動かして視界に捕捉しようとするが、なかなか見つからない。


 おれははじめて、モンスターとして咆哮した。音の通り具合で、敵の居場所を見つけるためだ。おれは本能で、何をすべきか考えていた。

 血のにおいが、ひどく鼻を突く。そのなかに、のにおいが微かに混ざっている。

 少し音が引っかかったような地点の方向で、のにおいが強くなった。おれがそちらへ火を噴いた瞬間、別方向からナイフが飛んだ。おれはそれを片翼で防御したが、新たな切り傷ができてしまった。


「所詮、力ばかりがお前らの取り柄だ」


 声のした方を見上げると、木の枝にの姿を発見した。


「……じゃあな」


 一瞬の顔が、ひどく歪んだように見えた。

 咆哮でを木から振り落とそうそうとするが、は、おれを嘲るかのように木の枝を飛び移り、おれから遠く離れていく。



 おれの咆哮……いいや、叫び声が、むなしく森にこだました。

首を回し、ナイフを口で抜いた。勢いよく、青い血が溢れていく。


 力を振り絞り、空を目指した。大きく、力強く、つばさを上下させて。そうすれば、新たな獲物に出会えると、本能が囁いている。 

 ひゅう、と冷気が通り過ぎていく。

 風がおれの傷口に滲みる。

空に広がるのは、やはり青い空だった。血が雨のように滴り落ちていく。『龍』になってしまったおれは、少し前のおれと同じ景色を見ることはできない。


上へ、上へ。そして雲のなかを突き進んだ。

翼がもやを切り、雲散させていく。

 再びひらけた視界で感じた空気は、少しひんやりとするが、ウロコのおうとつによく馴染んだ。


 濁りなき空模様とは対照的に、おれの頭の中は淀んでいた。龍になる前にみていた景色を、思い出せない。わからない。青以外の色を、俺は見分けることができない。

燃えるような夕陽も、やわらかな朝日も。俺のなかに流れていたはずの、赤い血も。


「グオオオオオ」


 おれははじめて、心の底から叫んだ。威嚇や索敵のためではなく、自然を味わう開放感からの咆哮だった。

空は広い。この広さを得たがために、何か大切なものを喪ってしまうくらいには。

 おれは、何を喪ってしまったのだろう。

 ふと、先ほど対峙したがさいごに見せた、あの歪んだ顔を思い出した。

 

 ごおお、とおれの咆哮に勝るほどの唸りを上げて、風が強く吹き付けてきた。

おれは、それをなんとかこらえ、翼を前後に動かした。

 だが。

 徐々に風を押し返す力が、弱くなり始めた。だんだんと流されるままとなり、進路をうしなった船のように不安定になっていく。

 広がる景色は、空から木々、その木々よりも少し低い山々となり。


 そして、永いようで短いような一瞬、俺は堅い地面を味わった。弾けるような痛みが走った。俺は涎を垂らしながら、みっともなく地面に這いつくばっていた。

 

『ああ……』


 だんだん、体が軽くなってきた。ふわふわと、まるで水の中を漂っているかのような感覚が、俺のなかに浸透していく。

 龍に襲われたときとは違う、穏やかな終わりが来る。俺は直感から、それを知った。そして、暖かな光とともに、すべては白に染まった。

 



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