令和浪漫・序章

三次空地

令和浪漫・序章

「なああんた、ここは一体――」

 ばさり、と黒羽織の裾が閃いた。白檀の香りが舞い上がる。私はその人物の顔を間近にみる。肌が白い。男とも女ともつかぬ。半分伏せた瞼の奥では怪しげな光がぬらぬらとしていた。紅を引いたような唇が、すう、と釣り上がる。

「此処は虚実のあわいに御座います」

 ぎいこ、と音がした。船だった。その人の漕ぐ櫓によって、船は暗い水面を音もなく滑っていく。足元の洋燈が茫と照らすほかは一切の闇である。

「私は死んだのか」

「さあ、どうだか」

「どこへ連れていく」

 くつくつ、と笑い声が返ってきた。

「行き先など。時がゆけば消えてなくなりますゆえ」

「ならば夢か」

「現というものを定義すればそうでしょう」

 私は暗がりの中で顔を撫でた。いよいよ以て意味が判らない。まあいい、夢だとすればいずれ醒めるのだ。

「名前は」

「人は私を語り部と呼びます」

 突如激しい風が轟々と吹き付ける。私は咄嗟に耳を塞ぎ、身体を丸くした。

 ほんの僅かの間であった。風が止み、恐る恐る起き上がる。

 私は息を呑んだ。船の通り道を真っ直ぐに残し、辺りは橙色の灯りに満たされていた。夥しい数の蝋燭のようにも見えたが、目を凝らすとふわふわと自立している。

「その灯りひとつひとつが人の想像、感情、思考、あるいは世界の記憶」

 語り部は掌を差し出す。ふらり、ふらり、と光がその指先に集った。

「此処にはこの世の全てがある。未だ来ぬ過去と、過ぎ去った未来すら」

「真偽はともかく、この世の全てというには、辛気臭い所だ」

「此処ではあらゆる意思の干渉が御座います。この場所も私もこれが正真ではない。――貴方ですら」

 人形のように生気のない手が、私の目の前に差し出された。大小の光の玉が、それぞれの呼吸で明滅を繰り返す。

「触れてごらんなさい」

 私は恐る恐る手を伸ばす。熱くはなかった。手応えもない。

 なによ、何も起こらないじゃないの。あたしは唇を尖らせて彼の顔を見る。すると彼は微笑んで――

「そういう顔すると思った」

 騒がしい教室を背景に、学生服の少年はケタケタと笑った。語り部はどこへいった。語り部? 何それ?

「キミは面白いなあ」

「おもしろくない!」

 あたしはプイっと顔をそらす。適当でいい加減で、そんなにカッコよくもないのに。何で好きなのかなあ。私の知ったことか。

 可怪しいだろう。何だこれは。

 少年の薄い唇が、意地の悪い形に歪んだ。瞬間、艶かしい紅色に転じる。

「これはある乙女の妄想にございます」

 そこにあるのは性別不詳の端正な顔であった。安堵したような、そうでもないような。

「妄想」

 私は呆然と繰り返す。

「他方、一つの出来事とも申せましょう」

「その妄想の世界ではということか」

「然様。理解が早い」

 最早理解も何もあったものではない。そうあるのだからそうなのだ――そう納得するしかないではないか。

「あんたはそれに触れて平気なのか。語り部だから」

「それがそう呼ばれる所以では御座いますが、そもそも私は何者でもない」

 語り部が掌の光を吹き飛ばす。またもや視界は一瞬にして塗り替わり、私は楽器を手にしていた。尻に木製の椅子の硬い感触。

 どこかのテーブルで、グラスの氷がカランと鳴く。

 薄暗い照明、まばらな観客を前に、眉間に痺れのような感覚を集める。息を細く吸い、ギターの弦を爪弾く。

 僕は歌になる。

 私はこの歌を知っていた。なぜだ。自分の作った歌だ。当たり前じゃないか。いや、作ったのは私ではなく、この物語の主人公だ。主人公? 違う。そうじゃない。登場人物なんかじゃない、彼は、

 ――俺の友達だ。

 確かに聴いたんだ。いつもライブで歌ってるんだ。どうして俺があいつになってるんだ?

 不協和音が鳴り響いた。気が散ってコードを間違えた。

 ギターなんか弾けないのに。

 僕は、いや、俺は、ギターを降ろし、椅子を立ち上がる。ステージを降りてふらふらと歩きだす。会場の戸惑ったひそひそ声、音響席から駆けつけてくるスタッフ。

 足元からぐにゃりと崩れ落ち、うずくまる。

「貴方は強情に過ぎる」

 私の唇が不随意に動いた。見上げると、男装の女が立っている。茶縞の直着と紫のネクタイ。

「何処まで自我に執着するというのですか。そんな物に大した意味はない」

「意味があるかどうかは俺が決めることや」

 女の口から私の言葉が聴こえる。

「委ねてしまえば楽なのに」

 それがどちらの声だったのか、もうわからない。俺は電車の座席にいた。

 窓に荒廃した世界が映し出されている。災害か、戦火か。飢えや怪我に苦しむ人々の中、自らもボロボロになって祈る女性の姿。

「次は向日町ーー」

 俺は弾かれたように立ち上がる。降りなあかん。知らん間にぼおっとしてたらしい。

 大学とバイトと家を三角形に巡る生活が続いていた。さすがに疲れてるんかもしれん。

 初めて降りる駅だ。

 ホームからの景色は何の変哲もない住宅街で、とくに目立つものもない。階段を下り、細長い通路を抜けると、すぐに改札。

 構内のコンビニでエナジードリンクを買った。効くんかわからんけど。

 友達のライブ見に行って、途中で居眠りはまずい。しかもそれが初対面とあればさらに。

 同じスマホゲーが好きでTwitterを通じて仲良くなった。音楽をやってるのを知ったのはその後だ。同い年で男、進学で関東から京都にきたらしい。歌声は動画で聴いたけど、顔は映ってなかった。どんな奴なんだろう。

 まあええ、行けば会える。

 駅の左手、薬局や美容室のある通りを歩きだす。これを道なりに行くらしい。

近代的な住宅や駐車場の中に、ボロい判子屋やタバコ屋が立ち並んでいる。竹材店なんて初めて見た。墓石が並ぶ石材屋。かと思うと居酒屋にオシャレなパン屋。

 あった。煉瓦色の建物。

 階段を三階までのぼり、ガラス扉を押し開けた。

 明るい照明のなかに木目のテーブルが並んでいる。壁には絵が飾ってあった。清潔感があっていい。

 奥から「いらっしゃいませ」と声がする。長髪をひとつに縛った男性スタッフ。カウンターを挟んだ手前に黒いTシャツの青年がいて、俺をちらりと見た。

 ライブを見に来た、とスタッフに友達の名前を伝える。すると、青年がニッと笑った。

「ありがとう」

「お前か!」

「そうです。僕です」

 細面に少し幼さを残した目鼻立ち。とっつきやすい感じ。飄々とした物腰も、ネットでやり取りしている雰囲気そのまま。

 よかった、こいつとは仲良くやれそうや。

「滋賀から来てくれたんだっけ。電車で一時間半くらい?」

「よう知ってるやん」

 スタッフから何枚かのチラシとドリンクチケットを受け取る。

「今日の出演者にも滋賀の人がいて――」

「あっ。いた!」

 背後からの声に俺たちが振り向くと、キャップを被った眼鏡の男性がいた。

「顔合わせします!」

「ちょっと行ってくるね」

「いってら」

 彼らは奥の扉の向こうへ消えた。その向こうの部屋がライブ会場のようだ。

 俺は持っていたチラシに目を通す。手書きのコピーから、印刷所で作ったらしきツヤツヤのものまで色々ある。

ふと、洋装に黒い羽織姿の写真が目に留まる。

 なんか見覚えがあるような。

 うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと――江戸川乱歩の有名な言葉を引用したキャッチコピーのようなものが書かれてある。そういう世界観の人か。メンヘラ臭がする。

 プロフィール見たら演劇っぽい感じでやってるみたいやけど、歌手なんやったら歌だけで表現したらええんちゃうか。邪道な感じがすんなあ。

 そうこうしているうちに開場となり、俺はビールを片手に移動する。

 重い防音扉を開けると、薄暗い空間が広がっている。並んだテーブルと椅子の向こう、隅っこにステージがある。ドラムセット。木の椅子。スピーカー。譜面台。それから、アップライトピアノ。

 一番手の友達が、ギターを持って現れた。

 軽いサウンドチェックが行われたあと、会場のBGMの音量が一瞬煽られる。エイミー・マンの"Freeway"。

 そして、しん、と静まり返った空間に、一本の弦が震える。

 椅子に腰掛けた彼は半分目を伏せて、弦を爪弾く。ロックでも、ポップスでも、クラシックでもない、懐かしいような、寂しいようなメロディ。

 明るくなったり暗くなったり、速くなったり遅くなったり、広い草原になったり都会の雑踏になったり。現れるイメージは夢の中を歩くように覚束ない。

 時折のせられる沈んだ声は、歌というより、もはやどこか遠い国の呪文のようにも思える。

 彼は言葉少なに自己紹介した以外は、一心に奏で続けた。

 演奏を終えてやってきた彼は、はにかんで笑った。

「どう?」

「お前、天才やな」

「ありがとう! 知ってる!」

 彼は自分の発言にウケて吹き出した。ステージとはまるで別人やなあ。

「ここは良く出演してるん?」

「オープンマイクには出てたけど、イベントは初めて。一緒に出て欲しい人がいるって」

 俺は何となしにステージの方へ視線をやった。

 ちょうどアップライトピアノの前に立った人物を見て、俺は、あっと声をあげていた。

「どうしたの?」

 白いシャツとベストに黒い和装の羽織。まるで漫画から出てきたような格好。さっき見たチラシの人やんけ。驚くようなことでもあらへん。

「いや……」

 仄暗いステージに、ピアノがぼうっと浮かび上がる。

 女はささやくように語りだした。

「うつし世は夢、夜の夢こそまこと。しからば唄は白昼夢」

 ふいに脳裏を駆け巡る、夥しい光の粒。不敵に微笑む赤い唇。風に翻る黒い羽織。

 背中に冷たい汗が伝う。

「虚と実の間に揺らぐものに御座います」

(完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

令和浪漫・序章 三次空地 @geniuswaltz

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る