I dislike killing the worm

とんかち式

第1話…ではない

____こちら側が夜ならばあちらは昼である。こちらに日が昇ったならばあちらは夜である。結局あたりまえのこと_____


  天井から粘液が垂れてくる。透明で粘性のあるゲル状の液体。無臭ではあるのだが強めの酸性を示していていろいろな所を腐食させている。

「ところで人間よ」

そいつは人間の言葉を話やがる。

「どうやら私の祖先は人間であるらしいのだが」

「今じゃ見る影もないな」

私は皮肉の感情を込めて言ってやる。

「この形になったのも人間によるものだが」

皮肉で返されてしまった。こいつを飼い馴らせようとして失敗したのが昔の人間だ。強すぎる兵器を開発して絶滅しかけたのが俺たちの祖先になるわけだが、こいつらの祖先が昔は俺たちと同じ人間で古代人だとすると、先祖の生まれ変わりにあったような気がして不思議な気持ちになる。「それよりも、早く上から降りてきてくれよ。俺まで溶けちまう」

「ください、だろ」

そう言って天井から降りてきた。俺はそいつの言っていることは無視して、相変わらず不躾な態度をとっていた。降りてくる時に鋭い剣のついた尻尾がしなって、俺の頬を掠めた。

  こいつとの出会いは話すと長くなるが、簡単に説明すると偶然だ。いささか簡単すぎるし神秘的めいているような気がするがそうであるから仕方がない。こいつの所為で人類の半分が絶滅した。残りの半分は生き残った。地球の裏側にいたから。地球は今では真っ二つに別れていて、生き残った側の世界と廃墟化した滅びた側の世界に分断されている。放射能汚染が酷いとかなんとかで滅びた方の世界には普通の人間は来れないんだと。でも俺はなんとなく平気だからこちら側にいる。やっぱり作物はほとんど育ってなくて、生きている土壌を見つけるのに一苦労した。なんとか作物が実ったりはするけど、時たま奇形に出くわすのは仕方がないのだろう。ガイガーカウンターを使えばこの辺りの放射線量なんてのは直ぐにわかりそうな筈だけどめんどくさいからやらない。ガイガーさんすみません。

「ついて来い、小僧」

そう言って踵を返した。

「ついて来いつったって、そんなに遠くには行けないよ」

「ちょっとそこらへんを歩くだけだ」

  こいつが人間の、しかも、俺が喋る特定の言語を理解することが出来るのは意外だった。聞くところによれば、人間だったころの名残で、個体差はあるものの地球上の複数の言語を理解することが出来るようだった。聞くだけでなく、話すことも出来る。こいつの喉を見て人間にそっくりな期間を持っているのを発見した俺は、戦慄した。だがこいつには別の期間も付いていて、人間には聞こえない周波数帯の音で自分たちの種族の間だけでの秘密の通信も行うことが出来るらしい。人間よりよっぽど高性能だ。

  地球が滅んだ原因はこいつが乗ってきたロケットが墜落した時に起きた核燃料エンジンの爆発による。万が一の時のためにコックピットは防護壁に包まれていたのでこいつは無事だったらしい。

「しかしまぁ、悪かったな」

「もういいって」

出会ってからこのかた何回か謝ってくる。威嚇するような言葉使いのくせにこう言うところは律儀らしい。

「俺は別に、この景色が嫌いというわけじゃないんだよ」

歩いてきた俺の目の前に、滅びた世界が広がった。屋内から出て開けた高台に出るとこのけしきを見ることが出来る。コンクリート造の建物が黒焦げのままで聳え、木々は跡形も無く焼き尽くされ、爆心地に近いところでは瓦礫の山が積み重なり、それよりもっと中心地に近いところでは地面が抉られクレーターが出来ていた。

「見るたびに思うが、酷いもんだ」

「悪かったな」

「いや、いいんだ」

さっきと似たようなやり取りを繰り返した。それから俺は、肝心なことを聞いていなかったことに気がついた。

「ところでお前は、どこの星から来たんだ?」

「PSR B1620-26 b 通称メトシェラ」

  相変わらず口からよだれを垂らしながら言う。全くこいつは、と思うがあれは酸性の液体だから自己防御の可能性もあるんだなと考え直した。

「どこだそれ?」

「地球から見るとさそり座の方に向かって12400光年だ」

「分かりにくいな…」

  天文学の知識の無さを痛感して俺は頭を掻いた。

「星が死んでしまってな…、俺たちの種族はもう散り散りバラバラだ」

「それは、お気の毒に…」

  こいつがこの星に来た理由がなんとなくわかったような気がした。自分たちの住んでいた星が寿命近くなって、別の星を探し始めたんだ。典型的なディアスポラで、よくある話だ。たまたまこの星に来てしまったなら、死んだ人たちにとってはとんでもない不運になるが……。

「他の奴らは、どこにいるんだ?」

こいつは首を振った。顔が無いくせに、神妙な雰囲気を出しやがる。器用なヤツだ。

「わからない。どこかで生きているかもしれないし、死んでしまったヤツもいる。星を離れる時に俺とは正反対の方向に飛んでったヤツもいるからな……」

  なんだか辛気臭くなってしまったので俺は歩くことにした。高台から下ると、そこは直ぐに瓦礫の山だ。

「こんだけ焼けてれば伝染の心配もなさそうだな」

  俺はそう言って炭になった何かを手にとって眺めてから、また放り投げた。まぁほとんどは既に焼け焦げてしまってガラクタなのだが、偶に使えるものも見つかったりする。その確率が意外にも高いので、時たまこうしてゴミ漁りをするのだ。だがこっち側に住んでいる人間はほとんどいないので、このゴミ漁りも、もしかすると俺にだけ染み付いた習性なのかもしれないが。

  レプリカントの義体が転がっている。ぱっと見人間と区別がつかないので俺は一瞬だけ驚いた。レプリカントはまぁ…、人型ロボットで、よくいるやつ。人間が作り出した、上から下まで人間のお手伝いをするロボット。つまり計算からセックスまで。セックス用に作り出されたヤツは外見も美男美女で使う人間の需要を満たすように出来ている。まぁ、それがなんだ、という感じだが。地球の反対側ではまだ現役で動いていたり生産されていたりもするが、こちら側ではこの通り爆風に飲まれてゴミと化している。分解すればまだ使える回路とかも出てくるので金にはなるのだが。

  人間が作ったテクノロジーがこうして、とか考えるとなんとも言えない感傷の感覚が何処かからやって来るのがわかるが、それが何処からやって来るのかは俺にはわからなかった。そう感じるようにプログラムされているとかは言えるんだが、なんで作り物が壊れただけでそのプログラムが起動するのか理由がよくわからなかった

  ……。

  かと思えばあいつは俺から少し離れたところで鉄くずを貪ってやがった。

「お前、鉄くずも食えるのか」

  俺が近づいていくとあいつはこちらを一瞥して、また何も言わずに鉄の塊を食べ始めた。まぁあいつの酸は強力だし、大丈夫なんだろうと俺は思った。近づくと、あいつの足元には燃えた後の自動車が転がっていた。

「食事中悪いな。だが一体どんな胃をしてやがるんだ」

「人間は鉄が食えなくて残念だな」

「食いたいとは思わないが」

「地球以外の惑星で暮らせないぞ」

  そんな話をしても理解できなかった。第一、どうやって鉄からカロリーを摂取するのか人間の俺には全く理解の出来ない範疇だった。まぁでも何も食べないよりはましだろうと思った。この広い宇宙空間では有機物よりも無機物の方が多いだろうし。

  あいつが自動車まるまる一台を平らげている間に俺はいくつかのパーツを見つけた。電子部品やケーブル。あとは金属類。放射線を放っているかもしれないから持って帰って一応検査をして、誰かに売り付けるのはそれからだ。まぁだいたいジャンクパーツ屋に行くんだけど……。

  俺はリュックの中にパーツ類を放り込んであいつの方に歩いて行った。ちょうど食事が終わったところらしく、周囲をきょろきょろと見回していた。

「こんなところ、誰もいないぞ」

  確かにあたり一面は爆発に飲み込まれた廃墟地帯で、人どころか生命の気配すらしない、完璧な瓦礫の山だった。

「いや、俺にはわかる。何処かに潜んでいて姿を現さないんだ」

  俺は眉をしかめた。

「そんなのがわかったところで何もしないぞ。戦いになっても困るしな。さぁ、何事もないうちに家へ帰るんだ」

  そう言って俺は歩き出した。拾ったケーブルを鞄に突っ込む。先端には5センチくらいのプラグ側付いていた。

  あいつの方はというと、もう少しで自動車を完食出来そうだったらしく、俺が「行くぞ」というと少ししょんぼりしていた。だが、鉄分を取り込んだことにご満悦らしく、「これでまた尻尾の刃の切れ味が上がる」と喜んでいた。

  食べたものを体に取り込むという発想は人間にもある。だがあいつらに関してはそれが顕著で、実際に食べた、つまり体内に取り込んだものの影響が肉体に顕著に出るということらしい。無機物ばかり食べていると体が無機物化していくらしい。宇宙では都合がいいようだが欠点もあって、体の柔軟性が失われるため、定期的に有機物を取り込んで体の柔らかさを維持しなければならないとあいつは言っていた。ついでに食べてものの機能も取り込めるらしく、腕を銃に変えたヤツもいたらしい。そういう意味では、人間文明の残した物体などあいつにとってはご馳走のようなものだろう。俺は決して真似したくないが。

  家について、ドアを開ける。あまり音はならない。誰もいなくなったコンクリートのビルの一室に俺は住んでいる。一人で何部屋も使えるので昔では考えられないような贅沢だ。まぁ、地球の半分に俺しか住んでいないとすれば、人口密度はとんでもなく小さくなるだろう。あいつは……、まぁこのビルのどっかにいるんだろう。

  人がいないのでとても静かだ。小さな物音でもかなり響く。偶に虫が這っているような音がするが、ゴキブリか何かがいるのだろう。こんな放射線が降り注ぐ地帯に生息しているなんてかなりの気まぐれものだ。まぁでも厚いコンクリートの壁に囲まれているからこのビルの中はかなり放射線量は低い方なのかもしれない。そういえばクレーターから離れたところでは植物が生え始めた。強い生命力だ。でも汚染土壌に生えているヤツは体の中に放射性物質を取り込んでしまっているんだろうと思う。

  と、考えていると、放射能をまき散らした犯人が部屋にやって来た。

「おい、何やってんだ」

「見ての通りだ。っておい、壊すなよ」

  部屋には拾ってきたジャンクパーツが転がっている。あいつが踏むとダメになってしまうので俺はいつも注意するように言っている。この前も使えそうな基板を一つダメにされたばかりだ。あいつの体から垂れる体液も気が気でならない。

「その体液も収めろよな」

「これは自己防御のためだ。仕方がない」

  あいつはそう言って肩を竦めるような仕草をする。元が人間らしいのでそう言った仕草が受け継がれていても、なんとなく納得できるような気がする。

  それから俺は拾ってきたパーツをどっかに取り付けられないか点検する。どうやら供給線には使えそうだった。継ぎ接ぎで、電力効率が悪くなってくると困るのでなるべく長いケーブルが欲しくなる。

  机の上にはコンピューターが置かれている。無事だったパーツを集めてなんとか作り上げたものだけど、やっぱりあちら側の世界に売っている新品のものには劣るような気がする。材料から自分で作り上げるのはどう考えても正気の沙汰ではなかったのでこうしているが、もう少し良いやり方をまた見つけなければならないかもしれない。爆心地から少し離れたところを探せば利用できそうな工場跡が見つかるかもしれない。むしろあちら側の世界に行って新品のパーツを手に入れてきた方が早いかもしれないが、お金があんまりないし、移動手段も無い。もしそうするのならば、車をどこかで見つけて来なければならない。

  発電機はこのビルの地下室にある。もともとは災害時の非常用発電機として設置されていたものだと考えられる。大規模集合住宅用に作られたものだけあって、なかなか快適な発電効率だと思う。まぁ一人で使っている場合に限るかもしれないが……。

  あいつは結局、ケーブルを一本粘液まみれにしてお釈迦にしてしまっていた。被覆ビニルが溶けてしまっている。

「これ、食っていいか?」

「もう、好きにしろよ」

  俺は全てを諦めてそう言った。あいつは銅製のケーブルを一本丸呑みにしやがった。ケーブル一本ならまだ見つかるからなんとかなるけれど。

  そろそろレプリカントを導入した方がいいかもしれない。いろいろ捗るかもしれないし、あいつの相手もレプリカントがなってくれるかもしれないから。だがそれをどうやって調達したものかと俺は考えて、そこまで考えてから眠りについた。



*import random


list = [脳]

str = random.shuffle(list)

print(str)


  窓から刺す太陽の光で目が覚めた。目覚まし時計は使っていない。そもそもこんな状況では時間など守る必要などないのだ。目覚まし時計はどこかに転がっていたはずだけど、分解して端子と基板を取り出した方がいいのかもしれない。いやむしろ動かなくなったレプリカントがあればそっちの方が高性能な部品を手に入れられるかもしれない。そうだそうしようと俺は考えてベッドから起き上がった。

  あいつは部屋の中には居なかった。どっかをほっつき歩いてるんだろうと思うけどどこかは分からない。発信機でも付けてやろうかと思う。そういえばあいつの宇宙船は半壊の状態で爆心地の中心に転がっているのだけれど、そいつの修理はしなくていいのかと思う。むしろさっさと帰ってもらうために俺が奮起するべきなのだろうか。いや、そんなのは面倒だ、と思う。それよりも本日の行動を始めるべきだ。秩序立って、整理されて。

  まぁ当然のことながらこの世界の娯楽は少ない。宇宙船が衝突する前までは地球上のほぼ全ての地域で文明的な娯楽がはびこっていたのだが、Xデーを境にそれらは全てがあちら側の世界にいってしまった。こんな双極的な世界になるなんて誰が予測出来ただろうかと思うけど、僕らには嘆くことしかできなかった。生き残った人々は再建を諦めて、故郷を離れ新しい世界に移住することを決めた。その人たちは今どうなっているかは俺は知らない。きっと生きたり死んだりしていることだと思う。俺はそのことについて感情的になろうとは思わない。

  それよりも俺は娯楽があった頃のことを懐かしく思う。無いなら無いで割り切れるまでにかなり時間がかかったのは本当のことで、それまで俺がどれだけ娯楽に依存していたかが浮き彫りになった。でもそんなのは珍しいことではなかったし、あちら側の世界に行った人間の中にはそんな動機を1ミリでも持った者もいたのかもしれない。

  それで、当面の目標はテレビを見ること。生きている回線を見つけて、コンピューターを作り出せればそれなりの娯楽は得られることになる。それはこちら側からあちら側の様子を伺うことにも繋がることは当然気づいているし、多分電波のタダ乗りに近いことをしなければならないと思う。つまりあちら側の世界にハッキングを仕掛けることになるんだと思う。

そんなに気になるのならあちら側に住んでしまえばいいのかもしれないけれど、実を言うと俺は身元不明の立場だからあちらでは市民権を得られないかもしれない。そう考えるとこっちで暮らそうがあっちで暮らそうがどちらでもいいような気がした。

  俺は建物の外に出た。相変わらず誰もいないが、この光景にも少しづつ慣れ始めた。俺以外の生き残りに会ったことはまだ無い。もし生き残ったのが俺だけならば、俺は何なのだと思う。また瓦礫の下から死体が見えていたが、俺はそっちの方は見ないようにして隣を通り過ぎた。爆心地から少し離れたところを捜索しようと思ったけれど、こちらの方は物が原形を留めている替わりに死体も原形を留めていて、焼け焦げてはいるものの、元は人だったと分かる物がいくつも転がっていた。死体を見るのは初めてだったが、焼け焦げているだけマシだった。

  もしかすると、遠くに行けばまだ生きている人間がいるかもしれないと俺は思った。だがこの状況では相当警戒しているだろうし、こちらも迂闊に接するようなことは出来ないような気がした。もし銃を持っていたとすればそれはなおさらのことだった。

  また死体だ、と思ったがそれは本物の人間だったものではなく壊れたレプリカントだった。俺はバッグの中から工具を取り出し、そいつを分解した。頭部からは半導体のついた基板やレンズ部品、体からは鉄材やサーボモーター等々を回収出来た。回路を構成するケーブル類も回収そしておいた。もぬけの殻になったレプリカントは髑髏のようでかなり不気味だった。何かを喋りたそうにしているが喋らない。まるで人間の死体のようだった。そのように作られているのだから当たり前だが。そして死んだものが喋ると言うのも幻覚か何かだと思うのだけれど。

  そこから少し離れたところでかなり完全体に近い義体を見つけたので持って帰ることにした。ロープで括ってから背負うとかなりの重量がある。身体の部品に鉄を使っているので同じ体型の人間より重いかもしれない。まぁそれでも背負えない重さではない。

  遠くで竜巻が起こるのが見えた。砂埃を巻き上げている。この世界に天気予報があったとしても俺にしか役に立たないだろうけれど、あれば便利だろう。だがまぁ、人間のいない世界での天気予報にどんな意味があるのだろうか。動物語に翻訳すればいいのか?

  竜巻がこっち近づいてくるのかは分からなかったが、余裕があるうちに避難した方がいいと思ったので、俺は寝ぐらに帰ることにした。


「うおおおお、なんだこりゃ!」

  テーブルの上に置かれたレプリカントの生首を見て、あいつがそう叫んだ。

「まるで人間の生首をじゃねぇか!」

「お前、そんなんで驚くような奴だったのかよ」

「そりゃお前、誰だってよう……」

  そう言ってあいつは口をつぐんだ。何となく仕草が人間に近づいてしまっているような気がする。誰だって驚く時は驚くと言うことを言いたいのだろうか。仕草から心理や思考を類推するのは俺には苦手な仕事だった。第一、あいつのことを人間と同じように考えていいのだろうか。俺には分からなかった。

あいつが部屋の中には入ってきた時に、そのことを知らせてくれるセンサー入って欲しかったけれど、まだ部品が足りなそうだった。基板とCPUの類は集まったが、肝心のセンサ部分がまだ見つからなかった。どっかに状態のいい自動車があればそこから拝借してくればいいのだが、そのほとんどは熱で焼けてしまっていて、今の所表面が焦げたものしか見つかっていなかった。

  この地球上に俺しかいないのなら、この地球上にあるものは全て俺のものだと言いたいところだが、俺は時々妙な殺気を感じることがある。こちらから姿は見えないのだが、確実にお前のことは見張っている、というような殺気。地球の半分は案外広くて、もしかするとこちらの世界にもまだ住人がいるのかもしれない。巡りあった時にどうなるかは分からない。もし戦争になったら俺一人しかいなければ圧倒的不利だと思う。当然だ。その時は慎重に行動しなければならないことを心に留めておこう。

  放射線は主にクレーターの中心から放たれている。あいつの乗ってきた宇宙船の核燃料が原因なのだが、人間が近づけないせいで未だに放ったらかしにされている。もしかするとあの辺には突然変異した生物がうようよしているのかもしれない。原子爆弾の熱量がおよそ100万度。TNT換算で約15kt(5.5×10^13ジュール)だとすれば、目に見える生物は存在していないとも考えられるだろうが……。クレーターが出来ているのが何よりもの証拠で、あいつが地球に降ってきた時のエネルギーは原子爆弾を凌いでいたのかもしれない。そのおかげで爆心地付近では何もかも粉々になって死体すら見ることがなかったのだけれど。

  宇宙船が墜落してから人類が反対側の世界に逃げ延びるまでの間は、それはそれは酷い時代だった。見えない放射線に人類はパニックになり、クレーターの周囲の捜索や生き残りの救出などほったらかして逃げる者達が一斉に移動を始めた。海を離れた大陸にいた人々が一斉に沿岸部に集まり、各国の軍関係者達は混乱が起きないように人々を移送するのに手を焼いていた。放射線障害が顕実化し始め、何人もの人が死んだ。その間、爆心地はずっと放ったらかしだった。それも考えれば当然のことで、一定数の人間を諦めることでもっと多くの人間を助けることを選んだ当時の政府の判断にはそれなりの正しさが存在していた。あくまでそれなりに、だけれど。

  ほったらかされたクレーターの周囲には無政府状態が訪れた。それから何でもありの無法状態の後で自然が訪れた。宇宙船の墜落時に舞い上がった粉塵が空を覆っていたが、それが落ち着くと青空がやってきた。中心地から離れたところでは、次第に動物の姿も見え始めてはいるが、まだ少し放射線量が多いようだ。

  セシウムの半減期が30年だから、およそそれくらいの時間が過ぎたのだろう。なにしろ時計も何もかも破壊されてしまった後で、もうそれを作り出す人はいなくなってしまったのだから昔のようには時間が分からなくなってしまった。時間を図る方法は時計の他にも存在するけれど、ここでそれを説明するのはやめておこう。どちらにせよ放射性物質は不活性化してきたように思える。何処かに飛んでいってしまったのだろうか。それが宇宙空間ならなおさら良い。うむ。まぁ放射性降下物質のことを考えるとちょっと現実的ではなかったかもしれないけど。

  単純計算で地球の人口密度は2倍になった。今まで地球全体に広がっていた人類がその半分に集まったのだから、そういうことなのだろう。住居の確保のために高層マンションが増加した。また農地の焼失によって深刻な食糧難が訪れた。訴訟件数が倍増し、街中でもいざこざが絶えなかった。以前の半分で人類の生活を支えるのというのはちょっと気が遠くなるような話だった。国の試算では明らかに何もかもが足りなかった。住居用の他に、農作物を栽培するための農地マンションが建設された。まぁそれだけでも、爆心地側に比べれば生きているだけましだという話だった。だが密集化によって事故死や殺人が増えるというのはいたたまれない話だった。

「あっちの世界はブレードランナー、こっちの世界は蠅の王」

  それが誰かの口癖だった。その人がこちら側に属しているということは文から察することが出来そうだった。だが実際のところ、こちら側の世界はある意味ではエイリアン的で、それはリドリー・スコット監督の映画ということだけで共通していた。放射線の影響で新種の生物が出現し始めていたのだ。だが新種を見極めるのは難しく、どちらかというと風の谷のナウシカの巨神兵のような未発達の部類に属するものもあった。見るからに痛々しいので放射線は生物に有害なんだな、ということを再確認せざるを得なかった。まぁ、 現実とはそういうものだ、なんて自分に言い聞かせながらこの世界を歩くと、それでも軽いショックを受けるだろう。双頭の犬とか三本足の猫とかはやっぱり見かけるとちょっとギョッとする。慣れもあるかもしれないが。そしてそういった個体は大体が短命に終わってしまう。癌で死んだり、エイズで死んだりする。さらにひどいことにそれは人間も同じだった。そうやって人口を調整するのが自然の法則だとしても、現代人の素朴な感覚にではなかなか受け入れがたいものがあるだろうと思われる。

  だとしても、それまでの現代人の認識が甘かったとか、平和ボケしていたとかそういうことにはまだ結論を出したくはない。だが環境が変われば人間の生態系も変わっていく。それは否応無く万人に襲いかかるものだ、ということは心に留めておいた方がいいのかもしれない。


「何書いてんだ?」

あいつが後ろから覗き込みながら言った。俺の前にはこの前組み立てたラップトップが置かれている。

「日記ってやつさ。お前たちは書かないのか? まぁ、誰も読まないがな」

「俺らの種族には、そういうものは、無いな……」

あいつは顎を掻きながらそう言った。どことなく仕草が人間に似てきてしまっているように思える。適応力が高いのか。そうでないとこの過酷な宇宙では生きていけないのか。


  まともな文章を書くためにはそれなりの文法を知っていなければならない。言葉をただ並べただけでは無意味な記号の羅列に過ぎない。だが逆に、適切に並べられた記号にはきちんとした意味があるのだろうか?レプリカントに抱くのはたぶんそういった問題意識だと思う。果たしてこいつは俺と同じように考え、感じているのだろうか、と思うに至った人間がいるのだろう。

  表面上はレプリカントは言葉を使いこなしている。だから一見しただけでは人間と見分けが付かなかったりする。壊してみて初めて正体が分かったりもする。まあ人間に対しては「壊す」という表現はあまり使わないけどね。体表もタンパク質化合物に覆われているから人間の肌と見分けがつかない。とんでもなく画期的な発明だけれど、面倒な問題も引き起こす。レプリカントは実際のところ機械なのだけれど、機械と人間の見分けが付かなくなるというのは認知的不協和を引き起こす。他の問題に比べたら些細なことなのかもしれないけどね。専門的な用語を使うと、レプリカントというのは人間をエミュレートした万能チューリングマシンということになる。これがよく出来ていて、本物の人間と遜色がない。外見まで含めて。そしてそれが人間に混じって街を歩いているということ。政府の統計には人間しか含まれていないから、街を歩いているレプリカントを含めると、実際に街を歩いた時の人口密度は統計上の数値よりも高く感じるはずだ。人間と違ってレプリカントは食事をすることがないが、それ以外の面では人間社会に溶け込み始めてしまっている。政府は登録されていないレプリカントを探すことに躍起になっているがそれはまだ功を奏してはいない。

  こちら側の世界ではそんなことは気にする必要は全くない。もはや政府はこちら側の管理を放棄してしまっているからだ。放射能汚染が収まればやがて戻ってくるのかもしれないけれど、それにはまだ100年近くかかるだろう。こっちの世界ではレプリカントは機能を停止していた。それもそのはずだ、人間に奉仕するために作られた機械なんだから、と俺は思った。まぁ崩壊した後の世界では人間もやることが無いというのは同じかもしれなかったけれど。それでもあいつらはまだ独自の目的を持つことが出来ていなかった。やっぱりレプリカントは人間にはなれなかったと俺は思って、ちょっと感傷的になった。人間の複製。複製は本物にはなれないのかと。それでもし俺がそのことで涙を流したとしたら、あいつらは気遣ってくれるかもしれない。でもそれもプログラムされた挙動だとしたら。まぁ、俺の存在まで怪しくなってくるんでこれ以上は考えるのをやめよう。

  人はどうしたって腹が減る。何か食料を求めて探し歩く。生存本能ゆえに行動するのが人間の性だと思われてる。そうやって食料をエネルギーに変換し、また行動することで人間は自分の世界を拡張させていく。その繰り返しが今までの世界を作っていたのだと思うと、どことなくぞっとした。だが墜落前のこの世界の状況はというと、もはや飽和状態で、あいつの墜落はある意味では人類にとってのいい薬だったのかもしれない。いくつかの予言の通りではなかったが、この事件によって世界中の破滅論者たちが湧き上がったのも事実だった。そして、そんな偉そうなことを言うことが出来るのも、哲学者と宗教家たちの特権だった。あいつらは頭がおかしい、と多方面から思われてもそれを止めることが出来ないのは、一体どういう生態なのかと思う。

  まあ、この世界の根本はアナーキーなのだ。それを認めなければならない。なるべくして世界はこうなったのだという論拠にもそれなりの説得力はある。むしろ、突然の出来事に世論が混乱する中で、ある意味ではまともな反応だったのかもしれない。

  一文が長くなるとコントロールが難しくなるな、と俺は思った。自分の未熟さを痛感させられた瞬間だった。どうせこの世界には俺しかいないんだから、誰も気にしないだろう、と思ったが、こうやって記録に残しておいたらやがて誰かが読むだろうと思うと、なんとなく申し訳ない気持ちになった。


(放射線がDNAに及ぼす影響について)

  放射線の力を借りて、育種家たちは遺伝的多様性を増加させて、選択の過程を促進する。自然に起こる突然変異率(遺伝子あたり、世代あたりに生じる突然変異の数)は、からの間にある。放射線は突然変異率をからに引き上げる。

  ガンマ線などの電離放射線は植物に突然変異を起こし、「ジャームプラズム」(そこから新たな植物が生育してくる組織)を増やし、変異性を増強して育種家が作物の品質を向上させるのを助ける。新たな特性、例えば収穫量の向上や病気への抵抗性の増強などを備えた新たな品種は、育種選択プログラムの中で普通に選択される。これにより作物の栄養学的な特徴はそのままに、味や大きさなどを改良することが出来る。このプロセスは自然に起こる突然変異と同様であり、賛否の意見が分かれている、外部から遺伝子を導入することによって作られる遺伝子組み替え作物とは一線を画すものである。


  「環境が変われば人も変わるし、人が変われば道徳も変わるのだと思う。」


「よし、と」

  俺は完成した計測器を机の上に置いた。こんなものを作ったのは、この辺りの放射線量を少し正確に知りたくなったからだ。まぁでも、電源をオンにして置いておくと常にピーピー鳴ってうるさいのでブザー機能は外しておいた。つまるところそれだけでも、人体に有害な量の放射線量が何処かから放たれていて、この場所に長くいると人体に重篤な障害を引き起こす可能性があることが分かった。

  あとはドローンにカメラを取り付けてモニタリングすることが出来るようにすれば周囲の調査もより一層捗るだろうと思った。コントローラーにも液晶をつけて、ドローンの状態を把握出来るようにしたい。具体的にはバッテリー残量とか、モーターの回転料とか、温度とかが分かるとかなりいい。

  そのためのパーツを集めて来なければならなかったけれど、それが見つからなければ一旦あちら側の世界に行かなければならないかもしれなかった。そしてその判断をいつつけるかも苦心しそうな問題だった。

  出かける途中にあいつがいた。同じ廃墟ビルの別の部屋で、丸くなって眠っていやがった。こういう時だけ猫のようになるが、見た目は全く猫らしくない。試しに計測器を当ててみると、とてつもなく高い数値を叩き出した。なんのことはない、この辺りの放射線の発生源はほとんどこいつはだったのである。全く、何もかも死神みたいな野郎だ。

  感染症らしい感染症は無くなった、のかもしれない。そのかわり、火傷で血まみれの肉塊になっている奴やがんで内臓を傷めている奴が多くなった。こっちの世界の生物はやっぱり短命だった。植物は野生化して、過去の姿よりも何処となく凶々しい姿となった。ぎりぎり食べられるけど、植物の方が食べられることを拒否しているような意思は感じられた。


「放射線を受ければ遺伝子が破壊され、被曝量が増えるにつれ、死に近づく。急性的な症状としては吐き気、嘔吐、水晶体混濁が挙げられ、晩発障害には出血、脱毛、骨髄障害、白内障、ガン、白血病などの症状が挙げられる。また、遺伝的な障害の伝播も危惧されており、被ばくした親から生まれた子に障害が発生することが懸念されている」


  病気が無くなっても、食べ物に困るような状態では、問題がすり替わっただけで、ほとんど何も変わっていないと思える。辺りは静かで、ほとんど物音がしない。少しずつ生き物の数が減っていっているのが感じられる。もしこの世界に生物がいなくなっても困る人はほとんどいないかもしれない。困るだろう人はもうあちら側の世界に行ってしまった。

「お前、寂しくないのか?」

  と、あいつは聞く。

「何が?」

「この世界には、お前しか人間がいないじゃないか、他の人間はもう逃げちまったんだろ?」

「別に、気にしたことないな」

  俺はそう答える。実際のところ、本当に気にしたことはなかった。気がついた時からこの状況だったし、俺はこのアナーキーでサバイバルな状況を楽しんでいる。他に生物がいないということは、敵になるような生物もいないということだ。だから、食料さえ手に入れば、案外平和な暮らしが待っている。平和的なタヌキもいたりする。寝床も以前にあったものを使えばいい。そんな風にしていれば、退屈は紛れるし時間もいつの間にか過ぎ去っている。


  結局、人間だけが住めればいいのだろうと思うようになった。もちろんあちらの世界では既にそうしているだろう。ひと昔のことだったら大勢の人間から反対を受けていただろうが、忍耐強い人間も、事の手に負えなさに気がついてだんだんと諦めて行った。なるようにしかならないし、いつかは破滅の時が来る。そんなムードが世間を支配して行った。過激派は破滅を望んでいたりするし、宇宙船の墜落はある意味ではいいお祭りだったのかもしれない。破滅を楽しんでいる人間はあの当時で相当数いた。だが放射線の危険性がアピールされていくにつれて、事態は収束して行ったけれど。

  当時、電話は意味を成さなかった。放射線で宇宙船から一定の半径にある電子機器は全て壊れてしまった。電話が無いからと言って人が死ぬわけではなかったけれど、政府の救助活動にはかなりの影響が出たようで、そのせいで逃げ遅れた人も出たようだ。悲惨な話だ。車が動かなくなってしまう事態も多々あったらしく、影響を受けた人々が難民状態になった。あちら側に逃げ延びた人々はヨウ素を投与され体内の放射性物質を中和していった。想定よりも死者は出なかったとの政府発表も存在した。

  だがこれが将来的に癌の発生をさせると危惧する意見もあった。


【人の死因リスト】

ガン(悪性新生物) 30.4%

脳疾患 11.5%

心疾患 15.8%

肺炎 9.9%

事故 3.4%

その他 29%






【致死率の高い病気リスト】

1.狂犬病

2.クロイツフェルト・ヤコブ病

3.成人T細胞白血病リンパ腫

4.エボラ出血熱

5.後天性免疫不全症候群(エイズ)


  こうしてみると老衰で死ぬ確率もかなり高いのだが、老衰によって疾患や感染症になると考えると末恐ろしい面もある。この二つのデータの相関関係はよくわからない。


【災害時現地調査の際の注意事項】

1.移動手段、通信手段の確保

2.食料、飲料水の確保

3.衣類の確保

4.休憩所の確保


※基本的な目的はロジスティクス。必要な物資の調達に専念すること。

※軍関係者が行う仮設・工作の邪魔をしないこと。


  素早く現地の状況を把握し、状況については物的状況と人的状況に大別される。主にインフラの被害状況、被災者人数を把握し本部へと連絡すること。通信手段は電話、インターネットとあるが、その時に応じて最適なものを選択すること。また、報告には現地の写真などを添付することが推奨される。また自分が事故に遭わないよう注意して行動すること。二次災害は良くない。また災害地域ではまず最初に道路の寸断が最大の問題になる。人力で撤去できる、回復できるような状態なら問題ないが、重機が出動しなければならないとなると、大きな時間のロスとなる。通信、道路、食料においてロジスティクスの確保が重要な問題となる。



【ニュークフロント・カンパニー】

  『放射線で肌が綺麗に?』

  ニュークフロント社の新ファウンデーションを使えば化粧の乗りはバツグン!!顔中の微生物も死滅して美肌になれること間違いなし。さぁ、あなたも今すぐニュークフロントのファウンデーションを購入して美肌に近づきましょう!!

  ※この製品を使用したAさんよりご好評との意見をもらっています。


  時計が無くなっても日が昇る頃には眼が覚める。空調設備が無いせいで、日が当たるとベッドの上はかなりの温度になる。明確な温度は分からないけれどずっとベッドの上にいれば脱水症状になるんじゃないかと思う。日なたと日陰ではひどい時では10℃くらいの温度差があるんじゃないかと思う。日陰にベッドを移動させたら、寝起きに汗をかいてうなされることは少なくなった。それでも夏場は移動するのが嫌になるような暑さだったけれど。

  また、レプリカントの部品を集めなければならない、と俺は思った。そんなことをしても意義は全く無いのだろうけれど。人がいなくなってしまったこの世界で、何か動く物を作りたいのか、それとも何かの罪滅ぼしのようなものなのかは知らないが、俺は謎の意識に突き動かされている。動く物、と言ったがそれは平和的に動く物だ。だとすれば俺は仲間が欲しいのだろう。仲間ができれば心に幾らかの安穏が生まれる筈だ。まぁそれも気休めなのかもしれないけれど。

  放射線の殺菌効果のせいなのか、死体が腐りにくくなっているような気がする。人類が避難してもう5年近く立っているが、ミイラのように保存されている死体がある。人類がこのことに気がつけばきっとここはいい観光地になるだろうけれど、残念ながら人が来れるような環境ではない。人が来れるようになる頃には、この死体はきっと塵になってしまっているだろう。

  目的もなく街を彷徨うことが多くなった。だが街には誰もいなかったので建物しか残っていなかったのだけれど。街の中心部は都市化が進んでいて、10階建以上の建物、つまり30メートルくらいから50メートルくらいの建物が林立していて、ゼロデイ以前には相当な都会だったのだろうなと思う。それをそのまま放棄するのだから、やはり人類にとって放射線は相当な驚異なのだろう。路上には乗り捨てられたポルシェが置かれていた。街灯の支柱にぶつかって、ボンネット部分が凹んでいる。その向こう側にはシトロエンが停まっていた。少し歩いたところにランドクルーザーが置かれていたので、俺はそれに乗ることにした。幸運なことに鍵はサンバイザーの中に残っていた。他の車から燃料を抜き出して、ランドクルーザーに補給した。ゾンビ映画みたいにSUVに乗ってゾンビたちをなぎ払いたかったが、残念なことにゾンビはいなかった。

  その代わりかは分からないが、犬がいた。全身に火傷を負っていて、体中から血を流していた。グレーの毛が僅かながら残っていたが、それも血に濡れて赤くなっていた。保護してやりたくもなったが、既に手遅れなような気もした。自然の掟だと自分に言い聞かせてその場を立ち去ることもできたが、俺はその死にかけの犬を拾うことにした。ランドクルーザーの後部座席でその犬は小刻み震えていた。出血量が多くて、タオルが何枚も必要になった。固形のドッグフードは食べることができそうになかったのでおかゆを作り、哺乳瓶と水と牛乳を用意した。

  皮膚に消毒液をつけたガーゼを当てると犬はとても嫌そうにした。だが化膿している箇所もあって生き延びるにはなるべく手当てをしなければならない状態だった。生き延びるなら。生き延びれるかも分からないのに、そんな努力をする必要があるのかという疑問もあったが、遺伝子になんとなく刻まれているその行為を行わない理由は無かった。

  しばらくして、その犬は立ち上がって歩くことができるまでに回復した。俺が看病している間、エイリアンとレプリカントは不思議そうに俺のことを眺めていた。エイリアンには犬を食べないように厳重に注意しておいた。レプリカントには物珍しさから生物実験をしないように言っておいた。どちらも人間の常識が通用しない生き物なので気が気ではなかった。そんな中で、俺が人間らしさのかけらを少しでも持っていたことが驚きだった。

  こいつに名前をつけなければいけないな、と俺は思った。傷だらけでボロボロの時に拾ったから、スクラッチ。そんな感じでいいかなと、思った。誰もいないところで犬の名前を呼ぶのは声が響くし、小っ恥ずかしかったけれどこれでまた、妙な運命共同体に一員が一人増えたことになる。それほど大きくはない、コーギー犬だ。

  だが食料も少ないし、こんな世界に生き残ってしまって、もしかしたら死んでしまった方が幸せなのかもしれないと俺は思った。だが生き延びてしまったのだから、なんというか、仕方のないことなのだ。この世界にもうコーギー犬は存在しないだろう。あいつ以外には。だからあいつはこの世で最後のコーギー犬だ。俺がこの世で最後の人間なのかもしれないのと同じように。それは偶然で、愉快な偶然だ。ここで出会ったのも偶然ではないと思い込みたくもなるが、きっとそれは偶然なのだろう。災害が起こっても奇妙にも生き残ってしまう個体がいるのだ。そして集団に忘れ去られ、取り残された地で孤独に暮らすことになる。そうやって死ぬ時を待っているのだ。今も昔も。





  幕間。

  鉄が、無い。ある日俺は気づいたのだった。身の回りの鉄が減っていっていると。その原因は分かっている。あいつが食べるからだ。そのうち地球上の金属全てを食べてしまうんじゃないかって俺は危惧している。だがいつだかあいつが言っていたが鉄鉱石よりも生成された鉄の方が美味いと言っていた。まぁ人間の俺にはわかるはずも無い。一体どんな体をしているのだと思ったが人間の何倍も胃酸が強力なのだ。それなら金属を消化することも出来るのだろう。消化された金属はどこに行くのだろうか。まさか消えてしまうのか?質量保存の法則に反しているではないか。何のことは無い。排泄物として再び土に帰って行くのだ。無機物だから糞のあの匂いはしない。鉄を循環させているのか?一体どうなっているのか。いやはや。


  幕間2。

  スナック菓子を食べながら映画を見ていた。何も考えずぼーっと見ていると印象に残らないような映画だった。だけど、一つだけ印象に残るシーンがあった。というよりもあるあるネタかもしれないが。悪役のボスがヒーローを陥れようとする。辛く険しい道だが、ヒーローは必ずそれを乗り越える。ヒーローはボスのところにたどり着く。ボスは言う「遅かったじゃないか」と。確かにヒーローは遅かった。世界はもう滅びる寸前だ。だがヒーローは負けない。一筋の光明を見出す。ヒーローはボスを殴り、一件落着。

  個人的な感想だが、俺はこれを第二次世界大戦パンチと呼ぶことにした。


  レプリカントとゴーレムの違いについて考える。どちらもほとんど同じものなのだが、微妙に差異があったりする。それは往々にして文化や宗教の違いによる認識の違いだったりするのだけれど。レプリカントは完全に創作だが、ゴーレムはユダヤ教のお話に出てきたりする。驚きなのは創世記にゴーレムが出現することで、この時代の人々が自動人形について思いを巡らせていたと言うのが興味深い。

  感想とすれば、言葉が通じてしまうと機械も人間も変わらないと言うことになってしまう。それでいいなら良いけど、何となく認知的不協和が生じてしまうような気がする。細かいことさえ気にしなければ、機械はそのうち人間と同化してしまうだろう。そのことに対する倫理的判断は、まったく分からない。人間と変わらないなら人間と同じように扱えばいいじゃないかとも思うし。その反対の考え方もありうるだろう。だが、時間が経てば経つほど機械は人間に近づいて行くだろうし、違和感も薄れて行くのだろうと思う。違和感がゼロになった時、何が起こるのかは、分からない。

  むしろ、そこには何も問題など無いのではないか、と思う。むしろ問題は誰が人類を統治するかと言うことで、それが機械になってしまうことを恐れているだけなのかもしれない。だが統治の場合には別の文脈が支配するので、機械による統治が幸せなのか、そうではないのかは、場合によりけりだと思われる。

  10月10日、FF9をプレイしながらそんな風に思いました。まる。ちなみにこの日はヴィーネちゃんの誕生日です。はい。


  獣の法則を人間に当てはめるのは人間だ。だが人間はそれを選択しないことができる。全てを決めているのは人間のような気がする。だからと言って何も変わりはしないけど、獣の法則と人間の法則は少し違うのかもしれない。もし俺が獣なら、道端に倒れていた犬を見捨てることも出来ただろう。だが俺はそうしなかった。そのことに意味がどれほどあるとも思わないが。だが俺が拾ったことによって犬は今も生きている。確率の問題なのかもしれない。俺が拾わなくても犬は生きていたかもしれないが、俺が拾ったことによってよりその可能性が上がったのかもしれない。だが俺は犬を拾った。その犬が生きているところを観測しようと思ったから。だがこの世界で、その選択が出来るのは、今では俺しかいなくなってしまったようだった。だが、その選択によって物事がいい方向に動いたと言うことが確認できたのならば、それで十分だったのかもしれない。


  恐竜に羽毛が生えていたという説がある。鳥の先祖だからだ。人間でいう体毛の濃さに相当するのかもしれないが、やがて全身が体毛に覆われるというと、どこか納得がいかない。いや、そうだ。鳥は恒温動物だった。恐竜は自分が爬虫類で変温動物だったことをよく思っていなかったのだ。冬の間に活動ができなくなるというのはどこか不便だと彼らも思っていたのだろうか。卵を温めるにしても、冬場に自分の体温が下がってしまったら、出来なくなってしまう。繁殖の時期が限られるのは生物として不利だと感じるのだろう。だが、恐竜と鳥に遺伝的な繋がりがあるとすれば、およそ幾億年前に起きたとされる恐竜絶滅説は厳密には間違っていたということになってしまう。恐竜の数が劇的に減少したとしても、気の遠くなるような時間をかけて鳥に変化したと考えればいいのだろうか。そうだとして、

  そうだとして、人がそれだけ変化するためにはどれだけの時間が必要だろう。


東から日が昇り、西に太陽が沈む。太陽が登る方向を東と呼び、沈む方向を西と呼ぶようになる。だが俺はそのことを誰にも伝えようとはしない。そもそもこちら側の世界には人間と呼べるものは俺しか残っていない。だが、放射線によるダメージを受けない体を持つ俺は、もはや人間と呼べるのだろうか。逃げ遅れて死んだ人間を何人も見た。そいつらの死体はかなりひどい状態で、ひと昔前ならテレビならモザイクがかかる状態、ウェブ上でならギリギリ観れるような状態で、かなり悲惨な物だった。そりゃ、全身の細胞が破壊されるのだから、残るものは肉と呼ばれるものなのかもしれない。機能不全細胞。分解されて土壌に吸収されるだろうが、そこの土は良いのか悪いのか、俺にはよく分からなかった。


「おまえ、人と話さなくて寂しくないのか?」

  あいつは言う。だが昔から人と話すことが苦手だった俺には、この状況は全く気にならなかった。人がいればそれでいいし、いなくてもそれでいい。単純に、細かいことは気にしない性格なのだと思う。そんなことを気にしても、放射線は消えないから。

  放射線を受けて、放射線が効かなくなった。なんだかよく分からないが、変化はその時に起きた。俺自身が放射線になったのかもしれない。その時から、こちら側で生きていくことが決まったのだろう。別に一人で生きていくことは気にはならない。むしろ、俺がどうやって死ぬのかと言うことが気になる。放射線で死なないのならば、どうなるのだ。寿命で死ぬのだろうか?それとも事故で?いずれにせよ、無難に行動していればそうそう死ぬことはないだろう。放射線のリスクさえなければ、この世で死ぬことは滅多に起きにくい。だが、凶暴化した動物がどこかに潜んでいるのかもしれない。それはまだ分からない。この世界はさながら無の楽園と言ったところなのかもしれない。ロビンソン・クルーソーとして生きることはどれだけ幸福なのだろう。果たして言葉は通じるのだろうか?


  放射線の濃い水は少し味が違うような気がする。金属臭が強いような。あまり美味い物ではない。場所によって濃度が違う。そういえば水道はもう死んでしまった。浄化槽を動かす人間がいなくなってしまったのだから、よく考えれば当たり前のことだった。これで明日の予定ができた。浄化槽の点検だ。とりあえず一晩眠って、また日が昇ったら行動しよう。


  第二次大戦が産んだ化け物はいろいろある。暗号解読や、原子力。不完全性定理もあの時代の物だし、ヒトラーを産んだのも第二次世界大戦だ。数学と物理の発展と、そして、人間という生物がどう言うものなのかを暴き出した戦争なのかもしれない。でもまぁ、人間は懲りずに同じことを繰り返しているのであまり教訓にはならないかもしれない。人が闇を抱えるのは必然なのだろうか。良いことをするのも人間で、悪いことをするのも人間だ。この世の半分を人間が作り出している。もう半分は自然で、ただあるがままに、あり続ける。人間が自然に干渉し続けた結果、その割合は今では変わってしまっているだろうけれど。要するに人間は何をしでかすか分からないってこと。とてつもなくおぞましいこともするし、聖人のような奴もいる。この世を作り出したのは人間で、それに対して敬意を払わなければいけない。だが俺はその事に関してはほどほどでいいと思う。その方が幸せになる人間が多いだろう。堕落せずに生きていける人間がどこにいる? つまりそういうことなんだろう。



  この世界では争いごとなどあり得ない。何故って、俺しかいないからだ。争うにも争いようがない。だが他の人と会った時に、俺のことを良くは思わないのは事実だろうな。それは仕方がない。あぁ、なんて幸せで、孤独で、悲しいんだ。自由とは。人間の生命とは。


  日が昇った頃に目が覚めた。東の地平線に輝く太陽が登るのが見える。俺は寝床から抜け出し、リュックの中身を確認した。パイプ点検用の工具、主なものはラチェットレンチと大小のハンマーだ。それから懐中電灯と、非常用のザイル。それから掃除用にデッキブラシと、小さめのブラシ。あと、タオルを何枚か。浄水用の薬剤も入れといた。ゴムの滑り止めがついたグローブと、ヘルメット。ヘルメットには鉱山用のライトが付いている。非常食と防寒具も放り込んでおいた。これで一応は準備ができたことになる。それほど遠くの場所ではないが、万が一のこともあるので、気は抜けない。俺は建物から出て、東の方へ歩いていった。…旧、市街地とでも呼べばいいのだろうか。この場所。浄水場は市街地の東側にある。まあそこに行ったところで自分の家の水道を直せるかは微妙なところだが。途中で車を失敬した。燃料もほぼ満タン近く残っていたのでかなり運が良かった。カーステレオのラジオのスイッチを入れたが、聞こえてくるのは雑音ばかりで、音楽や人の声はいつまでたっても聞こえてこなかった。俺は時間の無駄だと思ってラジオのスイッチを切った。どうせどこの放送局も無人なのだろう。動いているはずがない。30分くらい車を走らせて、目的地に到着した。門が閉まっていてチェーンが掛けられていたが、ボルトクリッパで切断した。南京錠ごと、チェーンは地面に落ちた。門を開け、車を浄水場の敷地の中へ入れる。門はまた閉めておいた。車を建物の近くまで移動させて、エンジンを切った。ここにも人はいないようだった。既に全ての人間が避難したことになっているので、当たり前のことだが。だがそれでも、事態が収束したと見込んで戻ってくる人間がいても良さそうだった。自分が元いた場所に戻ってきたいと思うのだろうか。それとも、向こう側の暮らしがそれほど快適なのだろうか。

  建物の周りを一周してみたが、ドアはどこも鍵がかかっていた。正面のガラスドアを割るのは少し忍びなかったので、裏口のドアを蹴破って中に入ることにした。何回かドアにタックルすると、ドアは蝶番ごと床に倒れた。蝶番を固定するビスが外れていて、壁の方にはビスと同じくらいの大きさの穴が空いていた。

  建物の中は埃っぽく、物音は何もしなかった。野生生物が住み着いている気配もなかった。俺はあとでドアを修理しておかないと大変なことになるなと思った。俺はすぐに制御室に向かって、浄水槽の様子を確かめた。案の定動いていなかった。どうやら電気が無いようで、ここを復活させるには、まず先に発電所を復活させなければならないようだった。それから俺は地下から地上へと通じている貯水プールの方へ向かった。

  第1貯水槽には以前の汚水が残っていて、ひどい悪臭を放っていた。50メートルプールくらいの場所に汚水が溜められていて、これを綺麗にするのは一苦労だろうなと俺は思った。先に行くに連れて水は綺麗になり、嫌な臭いも無くなっていって、透き通った水がそこにはあった。俺はとりあえず綺麗な水をいくらかポリタンクの中に入れ、車に乗せた。ポリタンクは都合よく浄水場に残っていた。だがここを再び循環させるには電力が必要で、発電所を一人で動かすなんて俺には無理な話だった。最初から無理な話だったのだ。俺は泣きたい気持ちになっていた。取り敢えず60リットルの綺麗な水を確保出来たので良しとする。俺は水の入ったポリタンク3つを慎重に住処へと運んで行った。

  帰る途中で、鹿の群れに会った。群れと言っても4、5匹くらいだったが。餌を求めて山から降りてきているのだろうか。人がいなくなってしまったものの、市街地で鹿を見るなんて不思議な光景だった。だがこの辺りに餌などあるのだろうか。芝生や街路樹の皮などを食べているのだろうか。鹿はこちらの方を一瞥して、向こうへと飛んでいってしまった。やはり野生の動物は人間には懐かないのだろう。そういえば、この前拾ったあいつはどうしているだろうか。お腹を空かしているだろうか。早く餌をあげないと。俺はそう思って乗っていた車のアクセルをさらに踏み込んだ。

  家に帰ると、家族とは思えないような俺の同居人たちがそこにいた。相変わらずいつもの調子で、好き勝手なことをやっている。それはあたかも人間の血を絵の具に使うような趣味の悪い、狂った光景だった。それはさておき、俺は持ってきたポリタンクを保管庫へと運んで言った。それを見て、レプリカントが「何をしているのですか?」と聞いてきた。俺は「飲料水を確保しているんだ」と言った。レプリカントは「そうですか、人は水を飲まなければならないのですね」と言って、素っ気なく向こうへと行ってしまった。倉庫には俺一人だけが取り残された。レプリカントには聞きたいことがあるのだが、話が長くなりそうなので聞くに聞けないでいた。暇だといえば暇だし、それでいて忙しいような気がしていた。そんな状況だった。それから、浄水場から持ってきた消毒用の塩素も保管庫に入れておくことにした。雨水を浄化できるかもしれないからだ。まぁ放射能に塩素は聞かないだろうけれど、放射線を無視することができる今、注意するべきなのは感染症なのかもしれなかった。目に見えないものに追われるのは放射線も感染症も同じことだった。人間はいつもミクロの世界との戦いを強いられている。

  それから俺は犬にドッグフードをあげた。陶器製の皿と固形のドッグフードがぶつかるカラカラという音がする。陶器も楽器に出来ないかと俺は思ったが、強く叩くと割れてしまうのであまり大きな音は出せないだろうなと思った。俺は、こいつもこの世界では古生物になってしまうのだろうかと思った。だがさっき鹿を見たことで、進行スピードは思ったより早くはないのだろうと思った。ゼロデイ以降、各地で新生物が発見されている。そいつらは放射線を浴びているので寿命は長くないが、いつタイラントが発見されるか分からない。もしそんな奴がいれば、他の生物の脅威になるだろう。俺たちは新たな戦いを強いられているのだろう、と思った。それも自然という強大な力によって。

  俺は、そいつらを記録すればいいのだろうか? 他に人間がいないこの世界において、俺の役割が分からなかった。全く役に立たないかもしれないし、誰かが見るかもしれない。ギャラリーの意味は。それでその日はもう寝ることにした。ちょうど日も落ちてきたところだし。また明日考えればいいだろう。


  レプリカントは俺がコーンフレークを食べている間、ずっと興味深そうにそれのことを眺めていた。なぜかは分からないが、あいつは人が食事をすることに興味があるそうである。レプリカントは食事をしない。まぁ元が機械なのだからそれもそのはずなのだが。ちなみにコアの部分である動力部では小規模だが核融合を起こしてエネルギーを作り出している。自分の中に無限にエネルギーを作り出せる装置があるのだから、食事などはしないのは当たり前のことなのだろう。だからいつも「人間の体は不便なのですね」と言って俺に憐れむような視線を向けてくる。「大きなお世話だ」俺はそう思う。だが食事をして排泄をするという一連のプロセスに喜びも悲しみも見出すのが俺である。浄水場施設を調査しに行ったのも、もしかするとそこに理由があるのかもしれない。人間の体はいろいろと面倒くさいので、そういった面倒くさい作業をしなければならないのだ。だがまぁ悪いことばかりではない。上手く利用すれば作物が育つ土壌になることもある。まぁ普通はしないだろうけれど。作物が育つ土壌の確保は課題だとしても、自己由来の作物というのもなかなか複雑な気分のするものである。

  ちなみにコーンフレークは牛乳無しだ。資源が乏しいのだから仕方がない。乳牛のなど見なくなってどれくらい経つのだろう、というのが正直な感想だ。飲める水を探して何とかしのいでいるが、それもいつまで続くことやら。水浄化システムをどうにかして作り出したいところだが、一人ではいつになるのか分からない。

  PS、放射線除去の方法は色々とあるらしい。後で追記する。


  コーンフレークみたいなものばかり食べているとドッグフードみたいだなと思うけれど、ほんもののドッグフードはかなり臭いがきついのでやっぱり気分だけの問題なのだろうなと思う。朝起きるとお皿が空になっていたので、俺はそこにドッグフードを注ぎ足しておいた。いつのまにか居間になってしまっていたその空間には、誰もいなかった。どうやら俺が一番最初に起床してこの場にやってきたようだった。 時計は朝の6時を回ったところを指し示していた。単純計算で地球の裏側は12時間の時差があるから、あちら側は午後の6時あたりなのだろう。180度違えば見事に表裏一体になるというのは、単純な自然の法則とはいえ感動する。あちら側のことを想像するのは楽しい。人口密度の急激な増加によって世の中がどういう事になっているかということだ。だが、そろそろこちら側に帰ってくる可能性もある。放射能をまき散らしたあの事件から時間が経ち、放射能除去技術が発展したとなると、人々は住処を求めてこちら側の世界に移動してくる可能性が高い。観測出来てはいないが、境界付近ではそういった事がかなりの確率で起きていることが予測される。ここまで来るのはまだ先になるだろうが、それもやはり時間の問題なのだろう。俺がここを植民地かしていることを知ったら人々は何を思うだろうか。だが、爆心地であるこの場所では、殆どの人間は死んでしまったはずだ。だからそのことで文句をいう人間は殆どいないはず、いや、親族がいた場合は問題か?でもまぁ、10年以上経てば問題はほとんど無いだろう。


・バベル的な言葉の乱れ。通じるはずはないと思うだろう。ならばどうすれば    

    良いのか

・アダムとイブとカインとアベル。人の恨み

・天を仰ぎ、星を数えられるなら数えてご覧

・なぜ地球に水が生まれたかというとそれは太陽からちょうど良い距離に地球

    が存在したからでその距離が適切な物質層を地球にもたらしたからでそれが  

    偶然なのか必然なのかは分からない。多分偶然だと思う。太陽からの距離と

    物質層がどれだけの誤差を許容しているのかは分からないが何しろ奇跡的な

    ことだ。水からどうやって生物が生まれたのかはわからない。微生物からど

    うして哺乳類に進化したのかも全く分からない。全て謎だ。

・アポローンは音楽的な争いをしたマルシューアスを殺した。

・私は塵から生まれ、塵に帰りゆくものです。

・天から塩を振り撒けば、塩は統計的に散らばるはずです。塩を撒く高さは結  

    果に有因でしょうか。

・数が平方に振りまかれ、それが無限であるのなら無限の大きさは平方を結ぶ

    対角線の長さです。

・塩をふれ。塩を撒け。ただし、撒きすぎるな。

・岩塩

・a点からスタートする無限浮動小数は自らが無限浮動小数である故に永遠にb

    点にはたどり着かないのだろうか。

・同じようにして、いくら極限を考えても、それは同一のものにはならないの

    でしょうか

・あぁ、僕は馬鹿だった。


  街を歩いていると色々な本や文章が見つかる。以前にいた人たちが残して行った物だろうけれど、なかなかに興味深い。それに、果たして何の為にこのような物を作り上げたのかを考える。意味がありそうな物から、あまり意味の無さそうなもの。厚いものと薄いもの、装丁の豪華な物とあまり豪華でないもの(それでも華やかだ)

  俺は本屋に行って、色々な本を探して来る。その中には生きる役に立つものや、まぁ立たないものもある(苦笑)最初は生きる為に色々な実用書を持ってきた。作物を育てる為のものや家を建てるためのもの。それから料理の本や病気のことが書いである本。服の作り方が家庭ある本なんかもあった。たったひとりの世界ではお金の計算や法律の話はあまり必要が無くなってしまった。少し余裕が出て来ると、絵本や写真集、それから物語などを拝借してきた。これはいい暇つぶしになった。


  方位を測る為にコンパスを持ってきた。地図を見て、この地域の状況を把握する。昔からいた土地ではあるから自分なりのランドマークはあるのだが、爆風で吹き飛んでしまっているものもある。この前行った浄水場に赤いマークをつける。発電所にもマークをつける。自分の寝床も分かるように記号をつけた。自分の家を囲むようにしてインフラ施設が存在している。それからクレーターの向こう側には行けなくなってしまった。直進出来ないのでクレーターの周囲を回っていかなければならない。その為か向こう側に行くことは無くなってしまった。地図の情報を増やす為に一度行かなければならないとは考えている。

  東西南北が分からなくても暮らせることは暮らせる。大体住んでいるとその辺りの土地勘が付いてくるものだけれど、その対応関係が東西南北ではなく別の言葉なだけだろうと思う。そこから東西南北という言葉を覚えるのは容易いことだった。ただ何となくあちらの方というのが明確になったというだけだ。だがこうして東西南北と分けることは事態の明確化に繋がるような気もする。

  フライデーはというと、匂いで物の場所を覚えているように思える。犬にどれだけ空間認知能力が備わっているか俺には分からないが、鼻が効くのは確かだ。そう言えば俺は犬にフライデーと名前をつけた。別に金曜日生まれとか、見つけたのが金曜日だとかという理由では無い。なんとなくだった。そういえば、俺がこの犬を見つけたのが何曜日だったのかを俺は覚えてはいない。

  日付や時間という概念はこんな暮らしをしているとどうでもよくなってくる。誰かと合うようなこともないし、日が昇ったら目覚め、日が沈めば眠ればいい。それが具体的にどのあたりとか、具体的に何時とかはどうでもいい。どんな暮らしをしていても誰かに何かを言われるようなことも無い。こう考えると暦は人間が作った概念なのだろうかとも考えられる。暦を作ったのが人間なら、何の為に暦を作ったのかという疑問がある。その目的はなんとなくわからなくは無いが、こうなってしまっては俺にとってはどうでもいい。というか、暦のことについて俺はそこまで詳しくは無い。どこかの偉い官僚が決めていたのだろうが、その官僚が居なくなったというだけのことかもしれない。

  だが、時間が物理方程式に顔を出すことについて少し違和感を感じる。違和感と言っても別に悪い意味では無いが。距離は速度×時間で導き出される。この場合の時間とは何なのかというのが気になる。そもそも速度を導き出す為に進んだ距離を時間で割らなければならない。どれだけの間それをしたのか。どれだけの道のりを進んだのか、人は振り向かなければそれを知ることができないのだ。どういうことだ。つまり、物理は人間の認識を孕んでいるということだろうか。ニュートンのリンゴは本当は何を発見したものなのか。それについでも俺はまだ明確な答えを持ってはいない。

  俺はまだまだ知らないことが多い。

  写真集のページをめくる。1日1ページをめくれば、俺は1日1枚の写真を見ることになる。それが日課になる。大体30ページをくらいあるから、1ヶ月で1冊を読む計算になる。眠る前にフライデーを抱きながら読んだりする。フライデーを抱いていない日もある。そういう時、フライデーは近くで丸まっていたりする。気分によるものなのだろうか。

  犬の気分というのはよくわからない。俺は犬を飼うのに向いていないのだと思う。しょっちゅう自分のせいで気分を悪くさせているし、餌はあげなければならないし、自分が犬に服従しているのではないかと思う。だが2日に1日は一緒に寝ているし、きっと対等なパートナーに近い関係なのだろうと思う。世界をこんなにしたあいつとは正反対だと思う。これ以上考えるときっとあいつがきてこの幸せな時間をぶち壊してしまうだろうからこれ以上は考えないことにする。フライデーがあいつに唸っているところを見たことがある。あいつはというと「何だ、犬っころか」と言って何処かへ行ってしまったが。まだ慣れていないのだろうか。俺は少し不安を感じた。この悪い予感が現実にならないよう祈るだけだった。そういえば、俺はたまたまフライデーと名付けたが別にチューズデーでもウェンズデーでもサタデーでも良かったわけだ。俺は悩んだ。悩んだ末にこれからはチューズデーと呼ぶことにした。それについても大した理由はない。多分見つけた日が金曜日だったと思ったからかもしれない。そう、金曜日だったのだ。多分、金曜日だったのだ。

  この「犬っころ」事件でもわかるように、あいつは手当たり次第に破壊活動をしているわけではないことがわかる。無駄な殺生はしない主義だった。もともとこの地球を破壊したのも事故であってわざとそうしたのではないのかもしれない。むしろあいつも自分の母星に早く帰りたがっているのかもしれない。そのことで頭がいっぱいで破壊活動などしている場合ではないのかもしれない。母星に戻る方法を考えつく為には犬っころ一匹を殺している時間などないのだ。いやまぁ、表現が残酷だったかもしれないが、あいつの考えを推測しているのだから仕方がない。だが、基本的に何もしなければ、どちらも何もしない。双すくみがずっと続く。それが平和なのかはわからないが、それなりに平和だ。それでいいのだ。あいつとチューズデーは永遠に共存し続ける。永遠にだ。

  改めて見るとしょうもない話だが、無差別の殺戮とそうでないことの区別がつくのはいいことなのかもしれない。生き物は理由があって殺すのであって、それは例えばこの地球から離れて宇宙でも同じことかもしれないということ。そんな殺す理由など知りたくもないが、宇宙レベルでの普遍的法則であるのあれば、宇宙にも社会があるということになる。社会があったところで弱肉強食の法則は変わらなくて、むしろその弱肉強食が普遍的法則なのかもしれないが、社会を維持するために何らかの選択が行われるということだった。その選択が強者によって行われるということも…。

  ちなみにドッグフードは肉と穀物のミックスで廉価なものほど穀物の含有量が多くなる

それは犬にとって不要なものらしく、アレルギーや成人病、虫歯の原因となったりする。うん。まぁ俺の知識が足りないからこんな話をしている。だから、果たしてこんな世界で知識が必要かどうかということ。だが大体のことはなんとかやっている。この手の世界で長生きする必要があるのか分からないし、ドッグフードについてどれだけ知っている必要があるのか分からない。ディストピアというのはそういうものなのだろう。そういうディストピア観が正しいのかどうかは分からないが、そういう世界に暮らしてもあまり気持ちのいいものでは無いことは確かかもしれない。

  それから、知識ではこの世界は変わらない。そこには明確な断絶があるだろう。自分がいくら賢くなったところで、世界の状況は何も変わっちゃいない。だから、行動しなきゃいけないって言うけどそれだって問題があるだろう。なんだか何もかも無駄なような気がして虚無感に襲われる。だが、知識がこの世界から切り離されていることで都合のいいことだってあるだろう。ある地点からは全ては無駄か、娯楽になるしかないのだ。こう考えると、こう考えている俺自身が無駄な事をしていて、今こうしてやっていることも全てが無意味になってくる。つまりこれ自体がディストピアであって、今こうしている俺自身がディストピアに存在し、俺自身がそれを再生産し続けている。こんなことはやめてもう寝るべきだ。そうだろう。

  おはようございます。また無駄な事をしていませんか。今こうしている間にも刻一刻と世界は変化しているだろうし。いや、そんなことはもう気にする必要は無かった。世界は滅んでしまっていた。世の中がこうなってしまっては、無駄なことなどこの世からは消え失せるのだ。いや、世界は刻一刻と変化しているのだろうが、それは俺に関係ないことか、感知できないことだ。知らなくてもいいなら、それに関わらなくてもよい。それに関わらなくても良いなら、今こうしていることも無駄ではない。いや、若干サイコパスじみた論証だろうか。やめておこう。こうしている間にも日は登って沈んでいく。時間は過ぎていく。俺は1日分歳をとる。人間には寿命があって、それは俺にもあるはずだ。歳をとれば寿命は縮む訳で、俺の残り時間が1日少なくなってゆく。それでこんな事をしていていいのか? いや、深く考えることはやめておこう。考えるだけ無駄なのだ。どうせ何をやっても無駄。丁度いいところで折り合いをつけるしかないのだ。だから何もかも大丈夫。何もかも。オールグリーン。オールオッケー。

  それよりも、折り合いという言葉は不思議だ。小説世界の中でしか出てこないような気がする。現実世界でそんな言葉使っている奴がいるだろうか。

  進化の中立説という話がある。分子レベルでの遺伝子の変化は大部分が自然淘汰に対して有利でも不利でもなく、突然変異と遺伝的浮動が進化の主因であると言う説の事を言うらしい。らしい、というのは俺が専門家ではないからであるが、それはさておき、それが正しいのならば、私たちの中から次に何が来るなんてことは予測できないような気もしてくる。なぜなら突然変異や遺伝子の微小な差異が問題にされるのならば、個の存立も危うくなる危険性があるからだ。おそらく誰も得しなくなるんじゃないかと考えられる。だが、微小な差異が将来的に大きな差異を生み出す可能性というのは考えられる。結局、現実的な差異とあらかじめ決められた概念の揺らぎの中で生きていくしかないのかもしれない。それが一体どういった揺らぎなのかはさておき。

  俺は寝っ転がって太陽を眺めながらそんな事を考えていた。一人でいると考え事をすることが増える。厳密には一人ではないのだが、そんな当たり前のセオリーを半信半疑で考えながら、サングラスを何処かから調達してきた方がいいと考えていた。そういった、いろんなノイズみたいな考えが頭の中をよぎっていく。あれを考えながらこれを考えたり、あれを考えているうちにこれを忘れたり。それは極めて日常的な些細なことなのだが、忘れると厄介である。表層的な膜があって、そこが一番ボリュームが大きいのだけれど、その下層に本音がよぎっているような。

いや、意味が分からないな…。

  ぼーっとしているとレプリカントがフライデーを連れて資材の入った段ボールを抱えて歩いているのを見た。レプリカントはこちらに気づくとペコリと一礼をした。

「あいつ、人間じゃないのにな…」

  俺はフライデーがレプリカントに懐いていることに感心した。ただ表面的には普通の人間と変わらないように作られているから、フライデーの方が勘違いしている可能性もあるが。それにしても、動物を手懐けるプログラムはよくできていると思う。さすが万能家事アンドロイドと言ったところだろうか。あの頭の中で構築されたネットワークがどれだけの計算を行なっているかと想像しただけでも、もう考えたくなくなってくる。もはやケイ素生命体と言ってもいいような気もする。莫大な計算ネットワークを駆使して、人間と同じ感情を表現することに成功したアンドロイド。これは結局ニューロフロンティア社という大企業の仕事によるものだが。見てくれは本当に人間と変わらない。頭の中に脳味噌が詰まっているかCPUが詰まっているかという違いくらいだろうか。でも、骨格の動きにいくらかぎこちなさがあるように思える。まだ人間の関節のしなやかな動きを再現できていないということだろうが、それも時間の問題だろう。まさしく鉄の骨とでも言うべきだろうか。ただそれが人に似ているからと言って死んだら悲しむかと言うのは別の話だとおもう。たとえ物だとしても愛着を持っていれば壊れれば悲しいだろう。もはや、どうでもいいのだ。悲しい時は悲しいし、そうでない時はそうでない。もはや…。俺がレプリカントが壊れたら悲しいとおもうだろうか。それとも修理しようとおもうだろうか。それは永遠に失われた物なのか、修理可能で、代替可能なのか。恐ろしくグロテスクだ。だったらフライデーならどうなのか。フライデーの身体も脳みそも入れ替わってしまったら、それはもうフライデーではないと思う。テセウスの船なんてナンセンスだ。それはともかく…動物が機械に懐くなんてな。面白いこともあるもんだ。

  だから、レプリカントはレプリカントで記憶のバックアップを取っておかなければならないんだろう。身体が壊れても、記憶が残っていれば人格の同一性、レプリカントで言えば個体の同一性を保てるのだ。レプリカントの場合は人間と違って、脳と身体の解離なんかは生じなくて、もしあるとすれば、それは物理的な不具合で、配線を交換して修理できるはずだ。今そのことを考えるのは、それほど意味はないのかもしれないが…。臓器移植のことを考えると、脳からの指令が身体に届くのだが、その指令がうまく届かないと言うことになる。物理的に考えれば身体の配線回路に問題があると言うことなのだが、身体の配線は機械と違って修理をしにくい。まぁ、当たり前のことだと思う。じゃあ身体を取っ替え引っ替えすれば永遠の命を得られるかと言うと、ゾッとする。どこかであったようなネタだが。

  次の日、俺はじゃがいもルームで植えた種芋は発芽しているのを発見した。これがうまく育ってくれれば、しばらく芋を食べて生活することができそうだ。他にも作物を作っているが、うまくいくといい。鉄筋コンクリート4階建てビルの隅から隅まで利用させてもらうつもりだ。隕石のフォールアウトもそろそろ収まる頃だろう。と言うか、こんな状況でも植物は育つのだから、大したものだ。

  植物といえば、住処の周りも、雑草が生い茂り、緑だらけだ。人間がいないと、都市もやがては自然に飲まれていく。すでにと言ってはなんだが携帯電話の基地局の鉄塔や、ビルの外壁には蔦が生い茂っている。人類がこの場所を放棄してはや30年。そろそろ暦という文明もなくなりそうだ。一人ではそう長くは持たないとはこのことだろう。

  ハリボテの部屋。人類が放棄した文明の残滓。そんなものを集めて俺は過ごしていた。そんなメルヘンの世界で暮らしていく。人間の営み。人生は蝶を追いかけるようなものだって?

こんな寄せ集めが自分だって。そもそも、果たして俺は人間だっただろうか。そろそろスクラップもなくなる頃だろう。遠くに塔が見える。あれが崩れ去るのはいつになるだろうか。その頃には俺も死にたいと思う。

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