状況説明
犬。そうだ、犬の話をしよう。
私の知人の男性は犬が好きだった。彼には何度か会ったことがあるが、その際にも犬を連れてきていた。犬も彼に懐いていた様子だった。私には最初は怯えていたのだが、彼が「あの人は私の友人で悪い人じゃない」という旨の情報を伝えたようで、去り際に私の右手をぺろぺろと舐めた。
どうもその犬は、彼が子供時代の時からの付き合いのようだ。彼は「初代の息子」だと言っていた。「じゃあ、家族ぐるみの付き合いだ」という私の言葉に、彼はにっこりと笑った。愛犬と一緒に生きていることが心底嬉しかったらしい。リードを使わずとも律儀に待っている犬はそんな飼い主の様子をどんな風に捉えていたのだろうか。
そしてそれから何度かした後、泣きじゃくりながら街をうろつく彼の姿を見かけた。隣にいるはずの愛犬の姿がない。嫌な予感がしたのだが、構わず声をかけてみると、彼は私にもたれかかって、そこでまた大きな声をあげて泣いた。寒気がした。事情を訊くのにも時間がかかった。自分の思いの丈を打ち明けたくて仕方がないらしい。そのたびに涙、汗、鼻水、涎が服や手にべたつきを残す。犬は飼っていないが、あの溺愛ぶりから気持ちは分からないでもないと思い、為すがままになっていた。
気が遠くなるような時間が経って、ようやく彼が口を開いた。あの犬は利口だったようで、毎日ある時間になると自分で散歩に出ていたようだった。そしてある日、道の途中で赤黒い血をまき散らし、足の何本かが不自然な方向に曲がった状態となった姿となっていたらしい。早い話がひき逃げに遭って殺されたということだった。それを言い終わると、また周りのことは一切視野に入れることなく思い切り泣き叫んだ。死体を見つけたのは平日の朝で、会社に向かう道だったらしいのだが、その日は勿論、仕事になるはずもなく休みを取り、それ以降も心にぽっかりと穴が開いてしまい、ただ犯人募集の張り紙を張りながら、外をふらつくだけになってしまったようだ。犬は自宅に持ち帰って庭に埋めたらしい。
かけてやれる言葉も見つからず、私は立ち尽くしていた。この時に浮かんでいたのは、不思議なことに妙に冷え切った言葉たちだった。「妙なことはしないでくれよ」とか「過ぎたことは仕方がない」とか「新しい犬を飼ってみれば」とか。つまり、当たり障りがなく「俺を巻き込まないでくれ」と相手に伝えられないかと思っていた。何を言っても「分かった風」になってしまうだろうが、何かを言わなければ間が持たない。酷く利己的な考えが私の胸中に渦巻いた。「きっと、ミスト君(彼の犬の名前)も一緒に居られてよかったと思ってるよ」と、害意がないように努めて伝えた。彼はその言葉を聞いて安心したようだった。
とりあえずひと段落ついたな。そう結論づけた私は、彼が一杯に詰まったリュックサックを背負っていることに気付いた。妙だった。明らかに濡れている。彼が濡れているのはまだわかる。涙、汗、鼻水、涙が全身から出ているだろうから。だが、荷物まで濡れているのはなぜか。今日はこんなに晴れているのに。
ケラケラと笑い声がした。声のする方を向くと、ガラの悪そうな三人の学生が便所座りをしながらこちらを指差している。両手に爆薬でも握らされた気分だった。変なことはさせられない。もう少しで終わるのだから、上手い一言をしてその場を離れるのが良いだろう。「じゃあ、また今度落ち着いたら話をしよう」と言って離れようとしたが、彼の目線は既に私を捉えてはいなかった。ゆっくりと前進していく。彼らの方へ。
その理由はすぐにわかった。彼らの一人が手に持っていたのだ。びりびりに破られた張り紙を。私は彼を止めようとした。それはまずい、今なら間に合う、頼むから止めてくれ。学生達が立ち上がる。顔はにやにや顔のままだ。リュックサックから水滴が垂れてゆく。
「謝ってくれないか」と彼は言った。「知らない人にあやまって、だって。おじさん、ナニジンなの? ここ日本だからさあ、コトバ分からないなら国に帰れよ」ケラケラと笑う。「コンビニの前で問題起こさないでくださーい、コンビニの人も困っちゃうじゃんさあ」ケラケラと笑う。「つか、犬なんてどうでもよくね?」ケラケラと笑う。犬の写真が貼られた張り紙をくしゃくしゃにして、それを彼に投げつける。
「ミスト、やっと見つけたよ」
リュックサックから水滴がぽたぽたと垂れていく。
「おもらししてんじゃね?」「くさいから近寄んないで」「つか、いい加減消えろや」という言葉がして、ゴツッという鈍い音がした。「あ」「どういう」ゴツッゴツッという鈍い音二回。気付くと、向かい側のコンビニがわーわーと騒いでいて、間近に、四方の片隅が赤黒くなった小型のコンクリートブロックを持った知人らしき男が、びしょ濡れのリュックサックを開けていた。そして、「あー」「うー」「えー」としか言わなくなった学生達の目前に、リュックサックの中身を置いた。
「謝ってくれないか」と彼は言った。アスファルトの道路は熱を良く帯びているためか、それはみるみる内に溶けていく。うつ伏せに倒れた一人の学生の首根っこをつかんで引きずって、それに押し付ける。「ひゅめたい」「謝れ」「ひゅむい」「謝れ」やりとりが何度かあった後、謝る気なしと判断した知人は学生の頭を横向きにして寝かせ、こめかみに向けてコンクリートブロックの角を思い切り振り下ろした。「あぐっ」じりじりとした暑さ、溶けていくそれ。
ほふく前進でにげようとした別の学生に、馬乗りになって「さっさと謝るんだよ」とくしゃくしゃになった張り紙を広げて、それを学生の口の中に突っ込む。むせて咳き込むと「笑うな」と思い切り後頭部を踏みつける。既に人だかりがいる。私は既に知人とは距離があった。不気味にゆっくりと過ぎていく時間の中、それは赤黒いものを混ぜつつ溶けていった。
そして「ミスト……」と愛犬の名を呟くと、最後の学生のもとにきて「ミスト……」と愛犬の名を呟き、彼の目前に溶けた後の……本来のものを見せた。「よく味わうんだよ……」と呟き、無理やり開かせた口にそれの変形した頭を押し込んでいった。
それに舐められたことのある右手が、ぶるりと震えた。
なぜ、こんな話をしているか。私の知人は現在、ステキでキレイになる為に病院にいるのだ。彼は戻ってくるだろうか。いや、敢えてこう伝えてみよう。あなたは彼にシャバに戻ってきてほしいだろうか。
愛犬の死が重大なことだったのは間違いがない。しかし、それにしたってやり過ぎだったことも間違いがないし、そもそも彼らは惨めったらしい知人の姿を馬鹿にしただけで、あの犬とは
前に「彼らには彼らなりの人生があったのだろうし、こうなってしまったのを、先天的な何かのせいであったのだとはなかなか信じたくはない。つまり彼らの人生で何かしらのドラマがあって、壊れてしまったのだと信じたがる」と書いたが、付け加えよう。「何かしらのドラマがあって、壊れてしまった」としても、それが真っ当であるかとは別の問題であるし、そして、それが受け入れられるかとも全く関係しない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます