状況説明


 意外なことだと思われるだろうが、この病院には本棚が存在している。必要に応じて読書することが出来るのだ。とはいえ、患者たちの性質からして、彼らが手に取った本が無事であるなんて思ってはいないだろう。実際のところ、本の生存率はそう高くない。所在不明になるのは勿論、ビリビリに破かれている、落書きがされている、ご丁寧なことに各ページを三つ折りにされているといった具合だ。だが、彼らにとっては読めるか読めないかはあまり関係がなく、例えば各所が黒く塗りつぶされて文章になっていなかったとしても、次の人はそれを見てうんうんと頷くのだ。何を理解したのかはまるで把握できないが、本を眺めること自体に満足しているのか、本の出来に文句をつけることはない。

 本の内容は多岐に渡る。純文学、古文をはじめとして、大衆小説、辞書、料理本、医学書、自己啓発書もあるし、センター試験の過去問題(赤本)、就職活動用の履歴書や、面接対策の本まで取り揃えてある。人気なのは囲碁や将棋、またはスポーツの入門書である。まあ、娯楽として提供されている分、履歴書の書き方よりかは役に立つと思っているのだろうし、それはきっと正しい認識なのだ。彼らが癇癪を起こすことなく、勝負を終えることができたらの話だが。

 書き置きを残した男も本を良く読む人物で、その内容をそのまま書き置きに残すこともある。ご丁寧なことに落書きの部分もすべて再現するので、写文というよりかは模写に近いのかもしれない。彼にとっては金切り声から意識をそらすための方法であるから、文章が何であれ、極端な話、そこに意味が全く含まれてなくとも、黙々と書き写す。楽しいかと言われると、彼は首を横に振るだろう。金切り声にうなされるよりかはマシなくらいであって、ご丁寧なことにその感情をわざわざ書き置きに残しているくらいだ。「こんな書き置きを残すだけの生活からさっさと解放されたい」と。

 医学書にその答えが載っているだろうと思われるだろうが、残念なことに叶わない願いだ。本の内容が理解できないからではない。早々に痴れたヤギの餌食になったからである。

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