書き置き


 そういえば、どのようにここに来たのだったか。ここに来て以来、何度も何度も思い出そうとしていたが、どうしても思い出せない。市ヶ谷にあるオフィスから、私を悩ませるあの甲高い金切り声によって、この何もない片田舎の病院にまで来たという事実はわかる。しかし、どういったきっかけでこの病院の場所を知り、会社の仕事はどうしたのだとか、家族には伝えているかとか、そういった過程の部分が丸々欠如してしまっている。医院長に聞いたこともあるが、すべて滞りなく進んでいて問題がないというばかりで、私の知りたかったことではなかった。何かを書いている間だけは治まるあの金切り声、あれが私の全てをかすませる。私は執筆機械なのではない。書き置きを残す以外にもやりたいことがある。早いうちに仕事に戻り、再び自分の人生を自分の手に戻さなきゃいけない。

 とはいえ、耐え難いあの金切り声。耳に入った途端、身体が震えて、意志の芽をためらいなく摘み取っていく。私は耐えるためにうずくまるだけになる。きのうも、運動の途中に突然聞こえてきて、意志の芽をためらなく摘み取っていく。となりにいた患者がもごもごとうめきながら、うずくまる私に手を差し伸べてくれた。私は感謝の言葉をのべて、けれどもそれ以上はどうしようもなかった。内なる声がコマクを破る勢いでがなり立ててきた。立ち止まって、倒れないようにするのが精一杯だ。

 原因を医院長に聞いたこともあったけれど、先生は、この病院はステキでキレイなので、クスリを飲めば直に収まりますよと言ってくれたが、その間もキーキーという声が収まることはない。クスリの量を増やしてくれと言ったこともある。そうすると、真面目そうな顔になって、クスリを増やして無理矢理押さえ込むことはカンタンなことだが、それは治ったとは言わない。あなたはバッグに容量以上の荷物を無理にぎゅうぎゅうに詰め込んで、ジッパーが閉まったから、バッグに収納できたとは言わないでしょう。それと同じことだと言っていました。それはきっと正しいのだと思います。けれどもそれを正しいと判断出来るほどの理性が果たして時間までもつのだろうかと疑いを抱かずにはいられない。

 コンクリで出来た病院は、熱も湿気もため込んで(そのくせ冬場は熱を思い切り吐き出すのだ)、入るだけで気が重くなる。そんな状態で、消毒と称してそこらじゅうにばらまかれた塩素が、誰かが出した吐しゃ物と混じって本能的に嫌悪を呼ぶ臭いを引き起こしている。

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