第165話 聖女さまとダンスの練習

「……ああ。随分大きく描いたんだな。」

 朝、起きて下に降りると、お絵描きをしていたアエラキが、画用紙から大きくはみ出して、床にまでクレヨンで絵を描いていた。

 こういう時は、つくづく水で落ちるクレヨンにしておいてよかったな、と思う。


 昔のクレヨンだったら、水で濡らした雑巾でこすったくらいじゃ、落ちなかったしな。

「朝ご飯までにキレイにしちまおう。

 ほら、アエラキ、一緒に雑巾を濡らして、床をキレイにしような。」

「ピューイ?」


 雑巾を差し出すと、アエラキはちょっと不思議そうに首を傾げる。

 床にはみ出した絵を見て困ったように眉を下げていたカイアがこちらを見上げる。アレシスが代わりに雑巾を受け取りに来たのを見て、カイアも雑巾を取りにやって来た。


「手伝ってくれるのか?ありがとうな。」

 2人にそれぞれ雑巾を渡し、水で濡らして床掃除を始める。それを不思議そうに首をかしげて見ているアエラキ。

 アエラキは人間で言えば赤ちゃんの年齢だからか、まだよくわかっていないようだな。


「アエラキ、せっかく描いてくれたけど、画用紙からはみ出たら、こうして消さなくちゃならなくなっちまうんだ。これからは気をつけてくれよな。せっかくの絵が残しておけなかったら、アエラキも残念だろう?」

「ピューイ……。」


 床を拭くカイアの雑巾に手を添え、一緒に床を拭きだすアエラキ。ぜんぜんキレイには出来ていないんだが、こうして親と一緒にやるということが、俺は大切だと思っている。

 子どもだけに注意してやらせるのも、親だけがやるというのも違うと思う。


 自分が親を困らせることをしてしまった、というのを理解させる為にも、かと言って掃除が子どもの罰にならないように、親が一緒にやるんだ。まあ、時間はかかるけどな。

 自由に動ける仕事じゃなかったら、出勤前で焦ってしまうか、夜帰ってからやることになっただろうな。


 なにせこの後子どもたちにご飯を食べさせなくちゃならないし、これが人間なら、その後着替えも必要だからな。その点子育てに余裕のある時間を取れるというのは、親の精神衛生上にもいいと思う。


 うちの子は精霊だからか、そこまで手がかからないが、この子たちが人間だったら。

 それか俺が定時の仕事をしていたら。

 こうはいかないだろう。

 子育ては、1に体力、2に体力、3、4がなくて、5に忍耐だと、俺は思っている。


 可愛い時ばっかりじゃあ、当然ないだろうし、予定通りにことは進められないわ、赤ん坊ならまともに睡眠が取れないわで、きっとイライラしただろうな。俺は眠れないのが本当に無理なんだ。シングルマザーと暮らしていた時は、まだそれなりに会話の成立する4歳の子どもと、赤ちゃんとはいえ2歳だったから、なんとかなったが。


 思えば3食作るのも、風呂に入れるのも、寝かしつけも、洗濯も掃除も、全部俺だったんだよな。仕事しながら出来たのは、まだ若くて体力があったからだと思う。

 高齢出産は母体や子どもの出産時の危険度や、出産後の異常率が高まるものだが、俺は体力的な問題で、若いうちに産めるのなら産んだほうがいいと思っている。


 子育ては本当に体力がいるし、何より出産後の体は交通事故にあったのと同じ状態だというからな。すぐに普通に動くなんて不可能だし、そんな状態で授乳や夜泣きで眠れないとなったら、しんどくてたまらないだろう。

 体力がなければ絶対無理だ。


 最近の30代40代は、見た目こそ20年前と比べて若い人が多いが、内臓年齢は変わらないんだ。出産後の回復も、年齢を重ねるごとに当然遅くなる。思ったより体力がないことに愕然とする前に、ある程度の年齢まで育てられたほうが確実にいいと思う。


 よく実家の両親に子どもを預けると、子どもの体力についていかれないと言われる、と言っている人を見かけるが、仕事や家事に使う体力は残っていても、走り回る子どもについていかれる体力が残っていないのが、大人というものだからな。それが高齢出産した場合の自分の体力だと考えたほうがいい。


 今日は午前中は王宮に行って、円璃花のダンスパートナーをつとめる為の練習予定だ。

 俺はあくまでも料理の為に、国に入れるようパートナーになるだけなので、ダンスも形になっていればいいと言われたが、社交ダンスは男性がリードするものだからな。

 そういうわけにもいかないだろう。


 アレシスは自分でご飯を食べられるので、カイアとアエラキの為に魚をほぐしてやったり、ご飯を食べる手伝いをする。カイアも最近はかなり1人で食べられるようになってきたよな。アエラキはまだまだ時間がかかりそうだ。自分の分を食べ終えたアレシスが、食器を流しに置いて、アエラキが卵焼きを食べるのを手伝ってくれたのでお礼を言った。


 洗い物をとりあえず流しに置いて、洗濯機で回しておいた洗濯物を干したら、子どもたちと一緒に保育所までお散歩だ。

 同じ登所時間の子どもたちが、こちらに手を振ってくれている。

「ピョルルッ!」

「ピューイ。」

「オハ……ヨウ。」


 みんなめいめいに手を振りかえしている。

 俺も腰のところで小さく手を振った。

 俺に手を振ってくれているわけじゃないだろうから、大きく手を振りかえすのは、なんとなく気恥ずかしい。


「カイアちゃんのおとうさん、いつもニコニコだね。」

 なんて親御さんに言いながら、登所していく男の子。……。そうなのか?俺は。どちらかと言うと、いつも何を考えているのか、よくわからない顔だと言われるんだがな。


 子どもたちと保育所で別れると、いったん家に戻って、お城からの迎えを待ちながら、コーヒーを飲むことにする。転生してからは体が欲さないので吸わないが、転生前はタバコを吸う時か、たまにパンを食べる時にしかコーヒーは飲まなかった俺だが、コーヒー専門店で飲んだコーヒーだけは美味かった。


 そこまでコーヒーは好きなものじゃなかったのに、まずその店は香りからして違ったのだ。喫茶店だが、コーヒーの香りを邪魔するからか、匂いの出る食べ物を置かず、コーヒーも基本まずプレーンで飲んでもらう。


 ひと口目が口に入る前に、香りに驚いた。

 コーヒーって、こんなにいい匂いがするものだったのか、と。ブラックコーヒーがあまり好きじゃなくて、3分の2以上が牛乳のカフェオレを飲むことが基本だったが、ここで初めてブラックコーヒーに目覚めた。


 ここでどうしても口に合わなければ、砂糖やミルクをたすのだが、俺は初めてそのままでコーヒーを飲んだ。ちゃんと淹れたコーヒーって、砂糖やミルクは邪魔なんだな。

 ゆっくりと、香りや味わいを楽しむなんてのは初めてのことだった。


 それからはブラックコーヒーが飲めるようになった。それでもやっぱり、あの店程の美味しさのコーヒーはなかなかないから、基本コーヒーはあんまり飲まないんだけどな。

 缶コーヒーは特に、酸味じゃなくて、酸化した豆のような味がする気がするし……。


 それでも日本のインスタントコーヒーは優秀なので、それなりの味をたのしませてくれる。移動販売でも、インスタントコーヒーは人気の商品だ。コーヒーは贅沢品だから、自宅では飲まないと、冒険者のアスターさんは言っていたが、だいぶ平民にも馴染んだと思う。うちの従業員も、ハンバーグ工房のある敷地内の商店で買ってるしな。


 コーヒーを飲みながら、ボーッと窓の外の景色を眺めていると、コンコンコン、とドアがノックされた。

「はい。」

「朝早くより申し訳ありません。エイト卿、王宮よりお迎えに上がりました。」

「少々お待ちください。」


 俺はだいぶ冷めていた残りのコーヒーを一気に喉に流し込むと、マグカップを軽く水でゆすいで、自動乾燥機能付き食器洗浄機に放り込んだ。朝の食器と一緒に、ついでに洗う為に、自動乾燥機能付き食器洗浄機のボタンを押したら、マジックバッグを肩から斜めがけして、カーテンを閉めて家の鍵をかけた。

「お待たせしました。」


「いえ。それでは馬車にお乗り下さい。」

 もう円璃花もいないことだし、王宮からの使いであることを隠して欲しいとお願いしたことで、なんの紋章もない馬車が家の前にとまってる。御者兼護衛のこの男性も、辻馬車の御者のような、サロペットに長袖をまくり上げた半袖という、平民の出で立ちだ。


 馬車といえば、先日聖女さまのお披露目会というか、お披露目パレードがあったらしいんだよな。俺が地方にハンバーグ工房を作りに行っている時期に、王都周辺の町を、パトリシア王女さまと共に馬車で走ったらしい。


 ラグナス村長の村から来てくれている従業員は、行きも帰りも馬車に乗るんだが、先日アーリーちゃんが、お母さんに馬車の上で、

「ほら、馬車の中ではプリンセス座りよ。」

 と言われて背筋を伸ばしていて、それはなんですか?と尋ねたら、円璃花がパトリシア王女さまに馬車の上で言っていたのを、護衛か誰かが聞いて話したのが広まったらしい。


 パトリシア王女さまは、ちょっとヤンチャというか、だらしないところのある御方だからな。背筋を伸ばして手を揃えて座るよう、円璃花が言ったんだろう。それでピッと背筋を伸ばして座り直したパトリシア王女さまを見て、これは女の子の躾にいいと広まったみたいだ。実際前世でネットで広まってたのを円璃花が真似して言ったんだな。


 小さい女の子にお母さんが、電車の中ではプリンセス座りよ、と言ったら、女の子がシャンと座り直したらしくて、それを見ていた女性が微笑ましく思ったというエピソードなんだが、実際その場面を見たくなるくらい可愛らしいな、と思っていたら、アーリーちゃんで見られた、というわけだ。


 女の子は小さい時にみんなお姫さまに憧れるものだし、この世界には実際身近にお姫さまがいるわけだしな。お姫さまの真似をしたいと思っても不思議じゃないだろう。

 王宮について、ダンスの先生に動きを教わっていると、円璃花が覗きにやって来た。


「だいぶ様になってるじゃない。」

 円璃花がからかうように笑いながら言う。

「この体が覚えがいいんだ。」

 元の体じゃ無理だったろうな。

 円璃花と会うのはかなり久しぶりだが、つい最近まで会っていたかのように話し始めることが出来るのは、俺と円璃花の長年の関係性を物語っていると思う。


「一回合わせてみる?」

「頼めるか?」

「もちろんよ、そもそも私の為だしね。」

 俺が差し出した手に円璃花が手を添えた。

 この世界にはレコードもCDもサブスクなんてものも当然ないので、楽団が直接演奏してくれる当日以外は、ダンスの先生の手拍子に合わせて踊ることになる。これがまた素人にはリズムが取りづらいんだ。


 裏拍子って音楽の専門家か、ダンスを趣味か仕事にしている人でもなきゃ、日常的に取ることなんてないだろう?

 ダンスをしながら話を聞いたところによると、円璃花は聖女さまの為の聖獣を手に入れてからが、聖女さまとしての本格的な仕事の始まりになるらしく、今はダンスの練習に大半の時間を割いているのだそうだ。


「聖女の魔法って特別らしくて、誰も教えられる人がいないのよ。先代の聖女さまはお亡くなりになられているしね。

 祈ればいいって言われたけど、ほんとにそれで出来るのか不安だけど、先代勇者のランチェスター公が、聖獣を手に入れた後は、聖女さまは魔法が使えるようになっていた、とおっしゃるから、まずは聖獣を手に入れて、確実に聖女の魔法を使えるようにしましょうってことになったの。」


「なるほど、それで訪問先でのパートナーが必要になったというわけか。」

 聖獣はノインセシア王国の、ロットさんのミミパパあたりにいるという。カイアとアエラキが以前特定してくれた情報だ。


 嫌がる円璃花に、魔力を増す食べ物だということで、しつこく虫料理ばかりを出していた国だからな。食事が不安で俺を連れて行きたい円璃花としては、俺をパートナーとするしかなかった。だがパートナーには最低限のダンスが必要、というわけで、俺がダンス練習に駆り出されているというわけだ。


 ノインセシア王国では、今まで異文化交流をしてきたことがないのかな?

 この国でもバイルダーという、ノインセシア王国の虫の卵料理を忌避する人たちがたくさんいるくらい、虫料理を嫌がる人も、バイルダーを知っている人もたくさんいたのに。


 ノインセシア王国側でそれがわからなかったのは何故なんだろうな?自分たちには当たり前でも、異文化交流をしていれば、他の国は違うとわかりそうなものなんだが。

 ましてや異世界からわざわざ召喚した聖女さまが、自分たちと同じ食文化かどうかなんて、考えてもみないんだろうか?


 現代日本は多国籍料理の国になっていて、いろんな国の料理専門店が多数存在するが、それを知る前は牛を食べるのを忌避していたし、自分たちの感覚だけが正義の、鎖国しているような国なんだろうか。……もしそうだとしたら、かなりアウェイな気がするな。


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