第5話 生命
「玉水。」
紗沙は力なく小さな声で呟いた。
小さな身体は震え、全身に力が入る。玉水の手をしっかり握り、信じる者の名を呼ぶ。
「これは…。」
玉水もあまりのことに息を呑む。
離すことのないように小さな手を握る。
2人は目の前の光景に言葉を失った。声を出せないほど驚いたのは、どれくらいぶりだろうか。2人は思わず立ち止まり、その場に立ち尽くした。
目の前にある状況が信じられないし理解できない。
2人は海岸から密林を抜けて内陸を目指し、まっすぐに今の場所まで来た。密林を抜けたところから1㎞程の場所だろうか。
目の前には小さな村とも呼べないような集落のようなモノがあった。こんな場所は初めて見る。
6つの粗末なテント。テントとも呼べないような簡単な作りで、雨風を防ぐためだけの作りだ。今にも壊れそうなテントだった。
この場所は普通ではないと全身に鳥肌が立つ。
馬たちが何故あれほど怯えていたのか、この場に立って分かった。その理由が目の前にあった。
不気味な静けさがあった。風の音だけが静かに響き、異様な空気が漂う。
誰にも逢うことなくここまで来た。1人の人間もいないし何の気配もない。普通ならあり得ないことだ。
テントの間を通り6つのテントの中心に来た位置で2人は立ち止まった。
「なんで…。」
紗沙は独り言のように呟いた。
振り絞ってやっと出た言葉だった。何も言葉が浮かばない。ただ、怖いと思った。馬たちの恐怖が理解できた。
今、自分の目に映る光景が夢であってほしい。現実であってほしくないと心から願う。
頭では現実だと理解しているが、心が追い付かない。七宝色の美しい瞳から大粒の涙が頬を伝ってポロポロと零れる。涙は止まることなく溢れてくる。
自分の意志に反して溢れる涙を止めろと言うのはあまりに酷なことだ。
この現実を受け入れるには、まだ幼すぎる。この状況が分かるはずもない。理解できるはずもない。
2人の前。6つのテントの中心には1本の大きな木がある。
高さ3メートル。幹の直径1メートルほど。葉なく枝だけの枯れているようにも見える木だ。
その木に人がいる。木の下ではない。木の枝に縄が4本かかっている。
4本の縄に1人1人。もう二度と話すことも目を開けることもない。彼らの瞳に生気が戻ることはない。
どういう状況なのか誰の目にも明らかだ。
彼らは自らの手で生命を絶った。その人生を終わらせた。
目の前で4人が生命を落としていた。
男性1人。女性1人。そして幼い男の子が2人。
おそらく家族だろうと分かる。
「紗沙。」
玉水は優しい声で呼んだ。
ゆっくりとしゃがんで幼い少女を抱きしめた。今できる唯一のことは抱きしめることだった。
「玉水…。」
紗沙は静かに呟いた。
そして幼い少女は玉水の腕の中で小さな子供のように声をあげて泣いた。紗沙自身も驚くほど涙が溢れた。本人の意志とは関係なく涙が溢れた。
しばらくしてから玉水は紗沙の顔が見えるように身体を離して、まっすぐに幼い少女の瞳を見つめた。零れる涙を大きな手で優しく拭いた。
幼い少女の彼らへの想いが痛いほど分かる。
生きることを選べない。願うことものボムことも許されない彼らの人生がどれほどの苦しみか計り知れない。その想いが涙となって溢れた。
「紗沙。これは現実です。あなたは、このことを現実として受け入れていかなければなりません。そして前に進まなくてはいけません。」
玉水はしっかりとして口調で言った。
この子の師として伝えなくてはいけない重要なことだ。
七宝色の瞳からは涙が零れる。4人のために涙を流した。この子の涙に心が痛む。
伝えるべきなのか迷うことも多い。伝える必要があるのか分からない。何が正しい事なのか。どうすべきか悩むことも多いが伝えなくてはいけないと分かっている。
まだ幼い子供だ。心も成長途中で心構えもない。すべてを知るには幼すぎる。現実を知り受け入れていくことが、この子にとって、どれほどの重荷となるのか計り知れない。
それでも自分は真実を伝えなくてはいけない。自分の責任であり役目だ。
伝えるべき時が来た。これから何度、こんなことがあるのだろうか。
数え切れないほどあるだろう。だが伝えることが正しいと分かっている。
何よりこの子なら、どんなことも乗り越えていけると信じている。
「うん。」
玉水の言葉に紗沙は涙をこらえて歯を食いしばる。そしてゆっくりと呼吸する。
涙はまだ零れる。自分ではこの涙は止められない。その想いは止められない。4人を想う。
なぜ自らの手で生命を絶ったのか分からない。理由も考え付かないが、彼らの身に起こったことを知りたい。すべての根本にあることを知る必要がある。
目を開けて真実を知ることが今の自分に必要なことだ。後戻りはできないし逃げることもできない。だから現実を受け入れ自分の足で歩いていく。
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