第4話 恐怖
2人は密林の中をまっすぐ内陸を目指して歩いていた。
海岸沿いは岩だらけで馬を連れて歩くことは危険だったので密林を抜けるしか道がなかった。
密林の中は光がほとんど入らず、とても暗かった。
木の間から少しだけ陽の光が入る。朝の時間だが夜のように暗く、目が慣れるのにしばらく時間がかかった。
ちゃんと歩けるように法術で足元を照らす。光の玉が足元を飛び道標を作ってくれる。
密林の中は湿度が高く蒸し暑いので汗が止まらない。
そして密林の中では色んな感覚を失う。どれくらい歩いてきたのか時間の感覚もなく、方角も距離感も分からなくなっていたが、足が痛くなるくらいには歩いて来た。
道という道はないので、道を作りながら歩いていた。
先を歩く玉水が後ろに続く紗沙のために歩きやすい道を作っている。生い茂っている木や植物を掻き分け、時には木を折っていく。
しばらく歩いた頃、もうすぐ密林を抜けると分かった。木の量が減り、光が多くなった。
2人の足は自然と速くなった。これだけ暑いと体力の消耗も激しい。とにかく抜けたいと思っていた。その時だった。
「キジャ。」
「ナギ。」
紗沙と玉水は驚いたように愛馬の名を呼んだ。
密林を抜けるまであと少し、数十メートルに来た時、馬たちが何の前触れもなく突然、怯え始めた。その大きな体が震えていた。
何があったのか。何が起きているのか原因が分からない。
ただ何かを感じ取った。そんな感じだった。二頭の怯え方は尋常ではなかった。
「キジャ…。」
紗沙は小さな声で愛馬の名を呼ぶ。
幼い少女の声はパートナーに届いていなかった。紗沙はキジャがどこにも行かないように両手でしっかり手綱を握る。馬の力は強く手が千切れそうなくらい痛かったが、手を離すことはできない。離せばどこかへ行ってしまうと分かった。
「紗沙。キジャを私に渡しなさい。」
玉水はいつになく強い口調で言った。
左手を紗沙に伸ばす。2人の間には2メートルほどの距離があった。
「でも…。」
「大丈夫ですよ。」
不安そうな紗沙に玉水はにっこり微笑んだ。有無を言わせないような口調でもあった。
「うん。」
紗沙は静かに頷いた。
この状況では自分には何もできないと分かる。自分には対処することもできないので玉水に従うほかなかった。
そして紗沙はゆっくりキジャを動かしていく。怯えている愛馬を何とか玉水に渡す。
「紗沙。大丈夫ですよ。」
玉水はにっこり微笑んだ。
玉水はキジャを受け取り、右手に2頭の手綱を握った。
相手は馬だ。身体は人間よりはるかに大きく体重は何十倍もあり、体重に比例するように力も強い。その2頭をやっとで抑えている。
2党は正気を失い恐怖に怯えている。
そんな状態の馬を抑えるのは今の紗沙では無理だと分かる。
この子は法術における特別な力を生まれ持っているが、今必要な力ではなかった。
まだ幼い11才の少女だ。身体も小さく腕も細い。馬を抑える力を持つはずがない。
何より紗沙は今の2頭の状況に動揺し、馬たちの様子に不安になっていた。とても冷静に対処できるわけがなかった。
馬たちに幼い少女の不安が伝わってしまう。動物の本能で人間の恐怖や感情が伝わる。今はこれ以上の不安を馬たちに与えることはできない。
「キジャ。ナギ。大丈夫ですよ。2人とも落ち着いてくださいね。怖いことは何もないのですよ。」
玉水はにっこり微笑んだ。
落ち着いた声で2頭の瞳を見つめながら名を呼ぶ。2頭の鼻筋を左手で交互にゆっくり優しく撫ぜていく。大丈夫だと。心配ないと伝える。
「良い子ですね。」
玉水の声で少しずつ2頭は落ち着いてきた。
「玉水…。」
紗沙は小さな不安そうな声で呟いた。
静かに不安そうな表情で玉水の隣に立っていた。何もできずに立っていた。
2頭の身に何が起こったのか分からなかった。彼らが怯えるなど初めてのことだった。
普通の馬より強い精神力を持っている。大抵のことでは動じないように訓練もされていた。
その2頭がこれ以上ないくらいに怯えている。動物の本能だろうか。恐怖が目に見える。
2頭の様子に幼い少女は不安になっていた。この先に何かあることが分かった。
「紗沙。大丈夫ですよ。あなたには私がついています。」
玉水はにっこり微笑んだ。
いつものように優しく微笑む。この子の不安は手に取るように分かるが大丈夫だと伝える。だが自分が傍にいると伝える。
「うん。」
紗沙は頷いた。
自分はいつでもこの手に護られている。それは疑うことなく信じる。それでも不安は残る。
「傍にいるのが私では不安が残りますか?」
玉水は静かに問いかける。
「玉水がいればいい。」
紗沙は首を横に振った。
まっすぐに玉水を見る。玉水が傍にいればいい。望むのはそれだけだ。
「それは良かった。それでは、この子たちにはここに居てもらいましょう。これ以上、先へはすすめないでしょう。」
玉水は静かに微笑んだ。
2頭は先程よりは落ち着いていたが、これ以上は行けない。この場所に遺していく。
「分かった。」
紗沙はしっかりと頷いた。
その意味をちゃんと理解した。この子たちはここに居る方が安全だと分かった。
「おとなしくしていてくださいね。」
玉水は優しく微笑んだ。
2頭の頭を撫ぜながら安心させる。そして2頭の手綱を近くの木にきつく結ぶ。通常の精神状態なら手綱を結ぶ必要もないくらい賢い馬たちだ。
だが、この状況では何があるかもわからない。玉水は2頭を護るために周辺に結界を張った。
三重の結界だ。外からは2頭の姿を目視できない結界。外からの攻撃を防ぐ結界。そして、異変があればすぐに駆け付けることができるモノだ。そういう特殊な玉水の力あっての結界だ。
「すぐに戻るよ。」
紗沙は静かにキジャに言った。
「紗沙。」
「うん。」
玉水は静かに呼んだ。
そして静かにしゃがんで紗沙と同じ目線になった。2人は向かい合った。
「これから先、あなたの進む道に何があろうと何が起ころうとも、あなたのことは私が護ります。だから私を信じていてください。」
玉水はしっかりとした口調で言った。
この子の進む道に何があっても、手を尽くして絶対にこの子だけは護る。だから自分のことを信じていてほしい。
他でもないこの子だけに信じていてほしい。それが唯一の願いであり希望だ。この子が自分の光だ。生きる糧であり、原動力となる。
「うん。信じる。」
紗沙は即答する。
玉水を見つめる七宝色の瞳には玉水への無条件の信頼があった。疑う理由がない。
「ありがとう。」
玉水はにっこり微笑んだ。
幼い少女の自分への無条件の信頼が嬉しかった。この子が自分の救いだ。この子が自分を生かしている。
この子のためにしか自分は生きられない。だから自分の人生を捧げる。
「なんで?わたしがありがとうだろう?いつも護ってもらっているのはわたしだろう。」
紗沙は不思議そうに言った。
いつも護られているのは自分だから感謝するのは自分のはずだ。
「あなたが信じてくれて嬉しいのですよ。」
玉水はにっこり微笑んだ。
幼い少女の小さな手を握る。自分の手の中に収まる小さな手だ。この小さな手がいつも温かく自分を包んでくれる。
「玉水だから信じてついていける。玉水は、いつだって正しいから信じてついていくんだ。玉水。大好き。」
紗沙は明るく笑った。
まるで太陽のように笑顔がキラキラ輝く。玉水だから信じてついていく。
そして自分の想いを伝える。なぜか伝えたいと思った。玉水の腕に飛び込む。この腕の中はどこより安全だと知っている。
「私も大好きですよ。」
玉水はにっこり微笑んだ。
愛しい子をしっかりと抱きしめる。この子のためなら恐れることなく何でもできる。自分の命さえこの子のためなら迷わずに差し出すだろう。
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