人里離れた湖畔にて②
「きゃああああっ」
真下には、底の見えない暗い谷間があった。
このまま落ちれば確実に死ぬだろう。
この谷に精霊の気配はない。フロスティアは当然いない。
(そうだ……ハルは空が飛べるみたいだし……私も飛べないかな……っ)
シオンは背中に意識を集中し、自分が今使える魔法の力を背中に集めるよう意識する。
このままでは死んでしまう。まだ自分の存在意義を見つけてもいないのに死ぬのはごめんだ。
地面が見えてきた。未だ落下速度は変わらない。
「このままじゃ……!」
その時、何かの力がシオンを持ち上げるように突然落下がとまった。
ほんの一瞬だったが、地面を目の前にして突然落下速度が下がったシオンは木から落ちる程度の怪我で済んだ。
地面にぶつけた頭や体をさすりながら、体を起こす。
「いたた……。無事……?」
「大丈夫かね?」
「え?」
突然、聞き慣れない老人の声が聞こえ、振り返ると一風変わった民族衣装に身を包んだ、白髭を蓄えた老人がいた。
「貴方は……?」
「儂か? 儂は余生を気ままに生きるただの爺じゃよ、ほっほっほ」
目の前の老人は愉快そうに笑った。
しかし、シオンにはその老人から伝わるただならぬ魔力を感じ取っていた。
「……貴方は、人あらざる者なんですか?」
シオンは勇気を振り絞って聞いてみた。
老人は笑うのを止め、渋い表情をしてシオンを見て言った。
「そうじゃな、儂は人より生きすぎた仙人にすぎぬ」
「仙人……?」
「己を磨き、鍛え、この世を新しい視点から観る。世界を観るということは、己を知るということ」
「己を知る……」
「ああ。それよりもお前さん、怪我しておるな。手当するから、ついてきなさい」
老人が暮らしている場所は、谷の中の小さな洞窟だった。洞窟、といえども、それは谷が行き止まりになって、岩や木々によって覆われた広い空間で、その中に人が住むのに必要な道具や食料が大量に置かれていた。
老人が、先程の落下で額を軽く切ってしまったシオンの手当をした。
「ありがとうございます」
「礼に及ぶほどでもあるまい。さっきはびっくりしたぞ。空から突然女の子が降ってきたもんだからな」
「もしかして、先程私を助けたのも貴方……?」
「左様。まあ、風を少し起こす程度のことしか出来ぬのでな、その結果できた怪我も儂の責任じゃ」
「いえ、とんでもないです……!」
老人から湯呑を手渡され、熱いお茶をゆっくり口に運ぶと、飲んだことのない味だった。
しかし、お茶の持つ風味豊かな味が、シオンの心を落ち着かせた。
「お前さん、旅人か何かかい」
「は、はい」
「偉いものじゃ。世界を旅すれば色んなものに出会える。未知の世界を恐れず進むのは、お前さんが計り知れぬ勇気を持っているからに他ならぬからな、ほっほ」
「……でも、私は人より弱い。私は……自分が生きている理由を知りたくて、旅をしています」
「そして、答えは見つかりそうかね」
「……分からない。まだ、旅をして間もないから」
この短い期間の中でも、シオンは沢山の人々と出会い、別れてきた。それだけ、世界には人が溢れている。
その世界でどう生きればいいのか。自分が誰かの役に立つには、どのようにすればいいのか。
また、あの過ちを犯さないようにするには、どうすればいいのか。
老人は神妙な面持ちで腕を組む。
「……世界というものはな、お前さんが思っているよりも、自由なものじゃよ」
「え?」
「儂も昔はそうじゃった。自分とはなんなのか、この世界はどういうものなのか。それを知りたくて、仙人になるべく己を磨く修行をした」
「……」
「しかし、結果見えてきた答えとは単純なものじゃった。……生きる意味に、大層立派な理由をつける必要はないのじゃ」
「でも……私は、誰かの役に立てれば……」
「見つめるべきは『誰か』よりも、『自分』を見つめることが大事じゃ。誰かの為に尽くすことも、悪くはなかろう。だが、それによって、自分に何も残らなくなってしまったら、そうなってしまった時点で存在自体が消え失せてしまう」
「私は、誰かに頼ってばかりで……自分では何も出来なくて……」
「お前さんがそういうのなら、答えはもう見えているじゃろう? 自分の中での生きる定義というものが」
「今の私は……昔の私よりも弱くて、何も出来ないから……誰かの役に立ちたい……沢山の、人に……それが出来ない内は、旅をやめるつもりはありません」
かつて出来ていたものを取り戻すために。
かつての勇気を取り戻すために。
そのための旅だ。本当は、自分の中での『生きる定義』は定まっていた。
だが、それでも自分が成長できていないと、自分の弱さを垣間見てしまうのはなぜなのだろう。
「それは、お前さんにとっての自分らしい生き方か?」
「え?」
「言ったじゃろう。生きる意味に、大層立派な理由をつける必要はないのじゃ。自分らしく生きればそれでいいんじゃ。自分にとって無理な目的地はかえって疲れるだけだ。世界というものは、思っている以上に自由で、良い意味でも悪い意味でも、何でもありなのじゃ」
その時、ふわっと風が吹いた。谷間を通る風とは違う別の何か。
シオンはシルフィードを置いてきたままでいたことを思いだし、ばっと立ち上がった。
「そうだ……あの子を」
「誰か連れがおったかね?」
「ええっと……女の子が……」
「そうか。ではその子を待たせる訳にはいかぬな。引き留めてすまんかった」
「いえ! ……こちらこそ、ありがとうございました」
シオンは老人に向かい、小さく礼をする。
それを見届けると、老人は煙に巻かれてその場から姿を消した。煙が晴れる頃には老人がいた形跡は何もなく、まさに人間には出来ないもの__人あらざる者の証明だった。
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