人里離れた湖畔にて①


 フロスティアはまだ起きる様子がない。

 一人でいることに、特別不安を抱くことはなかったが、ただぼうっと森を眺めるのも、心が飽きを感じ始めていた。


「……」


 ずっと被っていたフードをとって、コートを脱いだ。コートの下に着ているものは膝上丈の白いワンピースだ。

 コートにフードという、体全体を覆い被さる服がなくなって、体が楽になったような、開放的な気分になった。

 風になびく髪。いつもよりも風を、空気をよく感じられる。湖畔の湿気た空気も気にならない。


「だ、大丈夫かな……底なし、だったら……」


 湖につま先をちょんとつつき、自分の顔ばかり映る湖をじっと見つめていると、後ろから何者かに押されたように、とんと背中を叩かれそのまま湖に向かって、


 ジャボンッ! という音とともに湖の中に落とされた。

 状況を把握できないまま、生存本能であわてて水面から顔を出すと、目の前に手のひら程度の大きさしかない小人が、背中の薄い羽をぱたぱたと羽ばたかせながら宙を漂っていた。

 それこそ、この世界に生きる『妖精』という種族である。


「妖精……?」

「君さ、じれったいんだよね! 湖に飛び込むのは構わないんだけど、飛び込むなら飛び込むでもっと勢いよくやって欲しいよ! ずっと岸辺でもじもじと、見ていてイライラするね!」


 妖精は饒舌にひどく自己中心的な悪態をついた。

 妖精は基本的に悪戯が好き。ちょっかい程度のものから、命に関わるような危ないものまで、多種多様。そして悪戯を仕掛ける相手も人間に限らず、シオンのような魔法使いであってもこの扱いである。

 幸い、落ちた湖の水深はシオンの胸辺り程度で、溺れる心配はなさそうだ。

 しかし、服は見ての通り、びしょ濡れである。


「どうだ、最っ高に気持ちいいだろ! あっはははっ! 良い光景だな!」


 妖精はずぶ濡れになったシオンを嘲笑うように見つめると、シオンもようやく自分の置かれた状況を理解したように、自分も、妖精と同じように笑い出した。

 吹っ切れたように、今にも腹を抱えて倒れんばかりの楽しそうな表情で。

 妖精はそれが自分の予想していた結末とは大きく違っていて、愉快そうに笑うシオンを睨む。


「な……何笑ってんだ! お前!」

「何 を や っ て る ?」


 直後、背後から自分より遙かに大きい者の殺気満ちた視線を感じ、妖精は「やべっ気づかれた!」と一声あげて湖畔の上空を飛び森の中へ消えていった。

 フロスティアが、いつの間にか起きていた。

 確かに、水の中に飛び込んだり、妖精が大声を出して笑っていたり五月蠅くしていたのだから、目が覚めてしまうのも仕方がない。


「ずぶ濡れだが大丈夫なのか?」

「あ、大丈夫。……多分」

「着替え……お前持ってないだろ……」

「乾かさないと……」

「ワーッ、そのままあがるな!! せ、せめて俺が見てないところで着替えろ!」

「わ、わかった……」


 木陰にて脱衣したあと、コートを着た。コートごと湖に飛び込まなかったことは賢明だった。

 普段は前を開けて羽織っているコートを閉めると、見た目は膝丈ほどの袖ありワンピースだ。ひとまず、濡れた服を乾かすまではこのようにして過ごすことにした。

 シオンは枝と紐を慣れた手つきで絡み合わせ、ハンガーを作っていた。

 濡れた服をハンガーにかけ、紐を木にかける。


「いや、あっちの方が風通しが良い。乾かすのならそっちだ」

「わかった」

「俺ぁもう少し寝る。面倒だから、今日はここで寝泊まりしよう」


 そう言って、フロスティアは再び体を丸め、すーすー寝息を立てて眠りについてしまった。

 旅の疲れだろうか。

 シオンも、たまにはフロスティアを休ませてあげないといけない、と思い静かにその場を離れた。


 湖畔であるが故に、どこに行っても多少の湿気と共に過ごさねばならない。しかしフロスティアの言った場所は、谷から吹いているのか、木々の間からわずかに風を感じた。

 木にハンガーをくくりつけ、湖を見た。

 流石に、もう水遊びをするわけにもいかない。

 その時、木々の間を、するりするりと通り抜ける一筋の風が、シオンの前を横切った。それは自分の意志を持っているように、シオンの周りを駆けめぐり、乾かしている服の中を潜って大きく揺らす。何者かが透明な姿で目にもとまらぬ速さで空中を泳いでいるかのようだった。

 やがてその風は、一つの塊として、シオンの目の前に現れた。


「……シルフィード?」


 足下は小さな台風のように渦巻く風、萌黄色のゆるやかなウェーブがかかった髪、純白の美しいベアワンピース。美しい少女の姿をした風の精霊シルフィードがそこにいた。


「ねえ、この服を私の力ですぐに乾かしてあげるかわりに、私と一緒に遊ぼうよ!」

「遊び?」

「そう! こうしてねー」


 シオンが何かを言う前に、背中と足下をすくわれてふわっと宙に浮く。

 目の前のシルフィードが作り出した風が、シオンを空中に浮かばせていた。


「きゃっ」

「よーっし、じゃあ行くよー!」

「えっ? ちょっと待っ、きゃー!」


 シオンの否応を聞くこともなくシルフィードの少女は自らが作り出した風の力でシオンを空へと運んでいった。

 急上昇し、やがて木よりも高い位置にあがると、今度は風を横に作って森の上空を駆けめぐる。

 フロスティアに乗って空を見上げるのとは違う、まるで自分の力で空を飛んでいるようにも思えてくる飛翔感覚。


「ね、ね、あの山の頂上に行ってみようよ! きっといい景色がみられるよ」

「へっ? わ、わぁーっ!」


 後ろから自分の体を押し上げるように吹き付ける風で、シオンとシルフィードは瞬く間に山の近くへと飛んでいった。

 一瞬の間に目まぐるしく変わる風景に、シオンの目はとても追いつくことがなく、その時初めて酔いというものを体験した。


「ちょ、ちょっと待って……」

「どうかしたの?」


 フロスティアの背中に乗って耐性がついていたことが幸いして、酷いものではなかった。ただ、体の内から湧き出る冷や汗と多少の吐き気は、耐え難いものだった。


「急に、飛ばされると……ちょっと……」

「あっ……ごめんなさい……お姉さん顔青ざめてるのに、私無理して……」


 シオンの顔を見ると、先程までの勢いをなくして、シルフィードは顔を俯かせて嘆いた。

 根はとても優しいシルフィードだったようだ。


「大丈夫。酷くはないから。……一緒に遊びたかったんでしょう? 泣かないで」

「……でも……私お姉さんに迷惑かけちゃって……」

「気にしてないよ。それに、貴方の風が気持ちいいから、少し楽になったの。ありがとうね」


 精霊は昔からずっと接してきた、自分の仲間だ。

 シオンはシルフィードを慰めて、シルフィードの頭をそっと撫でてあげた。


「……ありがとう、お姉さん!」


 元気を取り戻して、シルフィードは先程のような笑顔で答えた。


「……それじゃあ、一旦湖に戻ろう。そこでお喋りしよう」

「うん! さっきは速すぎたから、ゆっくり移動するね! ……きゃっ」


 その時、谷間から吹き抜ける強風が、二人に向かって吹き付けた。

 シルフィードは風の精霊、体が非常に軽かった。はじめは飛ばされまいと抵抗していた彼女も、ついには風に飛ばされていってしまった。

 そのとき、シオンの体を支えていた風も、ふっと消えてなくなってしまったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る