旅のはじまり③
喫茶店から出てみるとそこには、四階の窓に両手でぶら下がっている小さな子供の姿があったのだ。何をしたのかわからないが、窓から乗り出したときに足を滑らせてしまったらしい。窓縁に掴まってなんとか転落を防いだが、それも時間の問題だった。
「大変……! どうしよう……」
「本当に不味そうな雰囲気になったら、俺が竜化して助ければ致命傷は防げるが……」
ここで竜の姿をさらすのは、危険が伴う。住民たちを混乱に陥れるのはシオンの身も危険にさらしてしまうというものと同じこと。
「駄目です! 二階までしか届きません!」
「兵士を呼んでこい! それから、下に毛布か柔らかい布ものを敷け!」
男が数人兵士を呼びに、近隣の住宅からは、毛布などの厚い布をそれぞれ手配した。
窓縁に掴まる子供は辛そうに顔をゆがめている。
手汗が窓縁を滑って、それぞれの手配が済む前に子供が耐えきれず手を離してしまった。
シオンと周りの住民たちは驚きと絶望でいっぱいになったところに、住民たちの間を押しのけた人影があった。人間には到底できないような高い飛躍力で子供を抱き抱え、近くの街灯などに足を乗せたあとに地面にそっと降りた。
「あれは……」
「あの耳を見て……化け物の類じゃないの……?」
ひそひそと、子供を助けた少女の姿を見て小声で話し出す住民たちをよそに、少女は子供の身長に合わせるようにかがんで、
「怪我はない?」
「うん、助けてくれてありがとう!」
「気を付けてね、じゃあ……」
少女は周りの視線が怖かった。助けたのだからもう長居は必要ないと、足早にその場を去ろうとしたが、くるりと向きを変えた瞬間に、古い新聞や小石がぶつけられた。
「……っ」
「街から出て行け、狼女め!」
「坊や、早くその狼女から離れな! 喰われちまうぞ!」
口々に言いながら少女に物をぶつけていく様子がとても残酷で、すぐそばで見ていたシオンは、なにも言わずに少女の前に駆け寄って少女を投げつけられる石から庇った。
「嬢ちゃんどきな! 危ねえぞ!」
「どうして……? やめて……」
周りと背後から、全く同じ言葉が聞こえてきても、シオンはなにも言わずに少女を庇い続けていた。
「だめ__!!」
その時、子供の大きな声が辺りに響きわたった。住民達は驚いて物を投げつけるのを止めた。シオン達の前に大きく手を広げて立っていたからだ。
「僕を助けてくれた人なのに、いじめたらだめだよ!」
「それは……」
周りの人たちは、子供の訴えになにも文句を言うことなく、ばつが悪そうに去っていった。
後から駆けつけた兵士たちに、その場の様子をなんと報告してやれば良いか、分からなかった。
関門前。気がつけば街を照らすのは空を赤く染める夕日だった。そよ風に当てられながらシオンが待っていたのは、半獣人の少女だった。
ドアが開き、中から出てきたのは、その少女だった。
「あっ……」
「あ、貴方!」
少女はシオンの姿を見ると、すぐに彼女の元に駆け寄った。
「今日は一日ありがとう。なんだかずっとお世話になっちゃって……」
「あ、その……全然お役にたてなくてごめんなさい……」
「そんなことないわ。……貴方が体を張って守ってくれたおかげでね、街の人たちの誤解も解けて、明日から街の警備員に配属されることになったの」
「そりゃ、すげえ出世だな」
「そうなの。……だから、貴方とぬいぐるみさんにはとてもお世話になったわ。ありがとう」
夕日を背に話す少女の姿は、とても輝いて見えた。昼間のあの怯えた表情はすっかり消え去って、清々しい笑顔をシオンに向けていた。
少女は最後に「さよなら」といって、くるりと向きを変えてその場を去ろうとした。
「あ……あのっ」
「……?」
「……シオン、って言うの。その……」
「あ、そっか。うふふ。シャロン、私の名前。また、会えるのなら……!」
大きく手を振って、明るい笑顔で。走り去っていく姿は勇ましく、凛々しい。
自分もそうなれたら、どんなに良かったのだろう。
「……別れが寂しいか?」
フロスティアは気づいていた。シオンはずっと、目から涙をこぼしていたことを。
「……そうじゃ、なくてね」
「……」
「……私が、私の口から、あのときみんなに、伝えられなかった……。私よりずっと小さい子供にできる勇気が、私にはできなかった……それがすごく、悔しくて……」
「あの子の、シャロンの前に立って、守ってやるっていう勇気は持てただろ?」
「……あともう一歩、頑張れたら、なあ……!」
「いきなり自分の思い通りにできるとは思うな。この旅が一日二日で終わるようなもんじゃないように、勇気を持つことが一朝一夕でできるはずない。できることからやっていけよ」
「……うん」
存在意義を探す旅。一筋縄では行かない旅。
それはきっと、自分が勇気をもって、誰の力も借りずに歩いていけるようになるための、訓練なのかもしれない。悲しいこと、辛いこと、これからまだまだ降りかかるだろう。そのたびに、こうして涙を流すのだろう。
だから、それを積み重ねて、障壁ですら乗り越えられるほどの強さを持つ。それが、シオンとフロスティアが目指す『自身の存在意義を探す旅』の終着点なのだろう。
__その日の夜は、近くの森で野宿だった。
元々二人は野宿に慣れていた。自然の中で暮らしているから、これと言って違和感はない。
フロスティアは元の竜の姿に戻って、シオンはそこにもたれかかるようにして眠っていた。
「……」
ふいに目が覚めた。
近くで、少し水を飲もう。そう思い立ち上がった時、足音のような物音が聞こえることに気づいた。
「……?」
こんな時間に、こんなところに人間がいるのだろうか?
草木の間から、動く物影が見えた。
「……ぁ、ああっ、人だ、良かった!」
十代の若い青年だった。
シオンがいたことで救われたというような表情でシオンに駆け寄った。
「森で遭難しちまったんだ。麓の街はどこにあるか分からないか?」
彼が手にしているランタンは火が消えていた。
「街……なら、こっちに行けば……」
「そ、そうか! 助かるよ! ありがとう!」
「あっ……待って」
急いで下ろうとする青年を引き留め、彼が手にするランタンを手に取った。
「暗くて、危ないから、せめて……」
シオンは、手のひらをかざした。
昔から出来るのは、これくらいだ。
きらきらと光るそれは、月と星々の光の結晶。手で触れればあっという間に砕けて消えてしまう儚いもの。
シオンが使える、唯一の『魔法』。
その光の結晶をランタンの中に入れて、青年に渡した。
「君は一体……」
「街に着くまではきっと、この光が照らしてくれるから……その、早く街に」
「あ、ああ、そうだ。ありがとう」
軽く礼を言うと、青年は体走って去っていった。
「……いいのか、あんなことして」
「起きてたの?」
「お前が立ち上がった時からな。お前が、魔法使いだとあの男に知られることになったが」
「……いいの。私にはこれしか出来ないから。こんな私でも、役に立てることがあるなら……なんだっていいの」
シオンは、外見こそ普通の人間と変わりない。しかしその正体は、もうすでに五百年近い年月を生きようとしている『魔法使い』だった。
魔法使い__森の奥などにひっそりと暮らしていた賢者であり、また人々に災いをもたらす者とも呼ばれた。人間とは比べものにならないほどの寿命の長さ、永遠に老いることのない体。
数百年の時を、シオンは孤独に生きてきた。そうしているうちに、彼女は自分の存在について疑問を持つようになった。だから、それを探すために彼女は相棒のフロスティアと共に旅にでることを決めたのだ。
「……あまり、無茶はするなよ」
そう言ってくれる、フロスティアの首元には、きらりと光る小瓶の首飾りがあった。
旅に出る時、シオンがフロスティアに渡した首飾り。
シオンが唯一使える魔法で作った、光の結晶が入った小瓶。シオンの、信頼の証。
二人は再び、眠りについた。また明日、新しい世界を見に行こう。
__一人の少女と一匹の精霊竜。存在価値を探して、求める旅。
それが、この物語の一頁目を飾る言葉なのだろう。
『Halcyon─ハルシオン─』
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