一章 6

「ところで、その山吹先生……って、どんな人なんだ?」

「何よ、ここまで来てビビってるの?」

 本館のラウンジを出てしばらく歩き、研究棟と呼ばれる大きな建物を前にして、湊はふと灰奈に疑問を投げかけた。


「……? いや、勢いでここに来ちゃったけど、よく考えたらその先生の事、何も知らないなって。いろんな講義を受けてきたけど、一度も見たことないから」

「それはそうでしょうね。もし、先生が私たち必修科目を受ける人たちの教壇に立ってたら……えぇ、考えたくもないわね」

「へ、へぇー……」

 そのように語る灰奈の姿は、心なしか、少しだけ生気を失っているように見え、湊は苦笑いを浮かべるしかなかった。

「アンタのその様子から察するに、本当に何も知らないみたいね。それじゃあ、研究室に関しての噂も聞いたことが無いってわけ?」


「噂……?」

「その研究室から無事に卒業できる学生は、十年に一人。在籍を許されても、早くて三日、長くても一か月でそれを辞退。酷い時は、学院そのものを辞める人もいるとか。あとは――」

「湊様……今からでも遅くありません。引き返しましょう」

 つらつらと述べられる、不安しか感じさせない噂の数々に、静観していた凪が思わず口を挟んだ。


「だ、大丈夫だって。結局のところ、それはただの噂なんだろ……?」

「えぇ、そうね。少なくとも、私は三か月以上経ってるけど、とりあえず無事よ。けど……今まで研究室から卒業したのは一人しかいないのは、確かな事実」

 その言葉を最後に、口を閉ざした三人は、本館や教育棟とは異なる雰囲気の漂う廊下を歩く。横を通り過ぎる部屋からは、議論を交わす声や専門的な用語の飛び交う講義の声が耳に入り、湊の胸中では緊張感が増していた。



 そして、先導していた灰奈が立ち止まり、

「ここよ」

 と、言いながら部屋の扉を開いた。その後に続いて湊が足を踏み入れたのは、会議室のような空間が広がる小教室――綺麗に並べられた机と椅子、新品同然のホワイトボード。一つ一つは見慣れた物の筈なのに、ここに作られているのは、どこか違和感のある空間であった。

「…………」

「とりあえず、私は先に話してくる。ついでに、アンタの事も伝えておくから、その辺に座って待ってなさい」

 そう言って、灰奈が向かった室内の更に奥にある扉には『山吹』と書かれた札が付けられており、一呼吸置いてノックをした彼女は、この部屋の責任者である人物の元へと向かった。



「難しい顔をしてどうしたのですか、湊様?」

「え? あぁ、何でもないよ。ただ……やけに静かだなって」

「えぇ、そうですね……思い返せば、ここのところ、ずっと忙しかったですから」

 初めて自分の意志で怪禍と対面したあの日――灰奈と出会い、紆余曲折があって共に戦った。そして、唐突な別れだった椿との思わぬ再会。

 凪の言うように、湊を取り巻く環境は、その日を境に急速に移り変わっていった。時間が止まっていると錯覚しそうなこの空間が、それらの出来事を想起させる。


(そういえば、凪は……それに、母さんの事も――)


「凪、聞いておきたいことがあるんだけど」

「……はい。何でしょうか?」

 お互いに目は合わせず、湊はそう問いかけ、自分の記憶の中にある疑問を一つずつ解いていこうとする。自分が知らない物事の真相は、何から、何処から、何時からか――考えるほどに、不安が大きくなっていく。それを聞いてしまえば、自分の中にある何かが揺らいでしまう気がしてならなかった。


「ごめん。やっぱり、今度にするよ」

「そうですか……私は、側にいますから。いつでも」

 そして、沈黙が流れた。




「待たせたわね」

 しばらくして、奥の部屋から戻ってきた灰奈は、その手に山積みの書類を抱えていた。

「すごいな……何だ、これ?」

「先生が、研究とか講義で使う資料。その整理をするのが、私の仕事」

 手にしていた紙の束を一度机に置き、それらを紙袋に詰めながら灰奈が答える。


「…………」

「何よ? だから言ったでしょ、お勧めはしないって。アンタが、何を学びたくて先生に師事するのか、私の勝手な思い込みかもしれないけど、少しは分かってるつもり……。でも、この前みたいな実地での研修は、今の所あれだけよ。普段はこういうのとか、座学が中心になるの。……って、これ以上は私から話すことじゃないわね。それじゃあ、私はもう行くから」

 話しながらも書類の詰込みが終わった灰奈は、早々に小教室を去ろうとする。


「――少しは、期待してるんだから。頑張んなさいよ……」

「え? 何か言った?」

「……ッ! 何でもないわよ!」

 そして、聞こえてはいなかったが、湊への激励を最後に、扉は強めに閉められた。


「やっぱり、灰奈さんはいい人ですね」

「うん、そうだね」

(ただ、一つ聞きそびれたことがあるけど……そこまで、迷惑かけるわけにもいかないな)



「では、行きましょうか」

 凪の言葉に促され、湊は意を決して山吹瑠璃の待つ部屋の扉をノックする。


「……どうぞ、勝手に入ってください」

「失礼します」

 部屋に足を踏み入れて目に映ったのは、棚から溢れた書籍の山、床には乱雑に散らばった大量の書類、右手側の奥に置かれているソファが一つ。足の踏み場もないその空間は、本来の広ささえ分からない程であり、目的の人物は左手側の机に座ったまま、こちらには目も呉れずにパソコンで作業をしていた。


(これは……)

 湊が目の前の光景に対して、思うところありながら立ち尽くしていると、

「何をぼうっとしているのですか? わたくしに話があるのなら、どうぞ適当に座ってください」

 瑠璃の方から淡々と声が掛けられる。しかし、歩くことすらままならないこの場所の、何処に座ればよいのか、湊には分からなかった。


「えっと……」

「あぁ、そうでした。来客なら椅子でも用意しないといけませんね――ウル、エン」

 すると、彼女の呼ぶ声に、ワン。と、二つ鳴く音が応えれば、床に置かれた書類の山から二匹の小さな犬が顔を出し、白い犬が器用に道をかき分け、黒い犬はそれに続いて椅子を押す。

「ありがとう」

「ワン!」

 そして、丸椅子を二つ受け取った湊がお礼を述べると、白い犬はそれに応えるように吠え、二匹は再び山の中へと姿を消した。



「あの、お忙しいところ失礼いたしまして……時間を取って頂いてありがとうございます。オレ……じゃなくて、自分は――」

「高津湊――アナタの事は存じています。不要な紹介と、その不慣れな言葉遣いは結構ですので、さっさと用件を話してくださいますか?」

 作業する手を止めることなく淡々と話す瑠璃の言葉に、圧倒されそうになる湊は、分かりました。と、前置きをして呼吸を整え、話に入る。


「オレに、この研究室で先生の教えを受けさせてください……!」

「何故です?」

「何故……? それは……えっと、強くなって、使命を果たせる良い御霊使になりたいからで……」

「良い御霊使」

 そう呟いた瑠璃は、ここで初めて手を止め、湊の方へ鋭い視線を向けた。


「一つ尋ねますが、アナタの言う――良い御霊使――とは、一体何ですか?」

「……多分、誰かの為に自分を、たった一人の自分の命を賭けてでも、躊躇わずに投げ出せるような……強くて、憧れになれるような人、なんだと思います」

 湊は、その質問に対して精一杯の想像を働かせるも、自分自身で少し違和感を覚えながら答えた。


「それで、アナタもそうなりたい。その為に、戦うことを選ぶと?」

「……はい」

 すると、瑠璃は呆れた様子で視線を作業机へと戻し、

「そうですか……非常に立派で、良い志です。今時の子供にしては上出来ですね、えぇ。あなたなら、きっと模範的な御霊使になるでしょう。わたくしが教えるような事は何もありません。それでは、お元気で」

 再び視線を戻すことなく、そう告げた。


「あの……オレ、間違ってるんでしょうか?」

「いいえ、間違ってはいません」

「でも、先生の考えるものとは異なる、ってことですよね? じゃあ、それが何か……いえ、すみません」

「……何を謝ることがあるのです?」


 『良い御霊使』とは何なのか、湊は尋ねようとしたが、途中で口を噤んでしまった。そもそも、湊にとっての御霊使の姿というのは、記憶の中にある限り二人だけである。そして、それしか知らない自分が、立場の違う人間の生き方を唯一の正解だと思い込んでしまっているのではないか。だとしたら、それは自分の本心からの答えではない。

 先ほどの小さな違和感の正体に気付き、湊は言葉を改める。


「本当は……自分がそうなりたいかって考えたら、それはやっぱりまだ分かりません。だから、良い御霊使というのが何なのか、多分今のオレに答えは出せないです。それが分かるのはきっと、もっと先の話で……でも、その前にやらなきゃいけないことがあるんです。それに、今のままじゃ、もし目の前で助けを求める人がいても、力になれない……だから、ここで強くならなきゃいけない。強くなって――」

「未知なる脅威の存在――鬼を殺す、ですか」

「……!」

 湊の言葉を遮った虚を衝くその一言は、これまでのように淡々とした口調ではなく、向けられた強い瞳の色と同じように、重さが感じられた。


「あぁ、誤解しないでいただきたいですが、良い御霊使とは何か、それは別にどうだってよろしいです。元々、答えなどありませんから。……ですが、戦うこと、力を振るうこと、使命を背負うこと。その意味を履き違えて、アナタの言う――やらなければならない事を成してしまえば、その先の未来などありはしません。後悔をする前に、御霊使を目指すことなど、端から諦めなさい」

 そして、今度ははっきりと、その考えを否定されることになった。

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