序章(終)「君の声が聞こえる」

 それから、二人は一言も言葉を交わすことなく、気まずい空気のまま喫茶店へと一時的に帰ってきた。

「……水でも、貰っていい?」

「あぁ、分かった……」

 長い静寂を破って、灰奈が先に口を開いた。本当に水を飲みたかったわけではないが、何かしらの動きを見せなければ、延々と椅子に座ったままになってしまうと思ったからである。それは、湊も薄々感じ取っているようで、グラスに水を注ぐのに時間をかけ、心を落ち着かせているようであった。


「ふぅ……それで、間違ってたら答えなくていいけど――アンタとあの、人? まったくの無関係ってわけじゃないのよね?」

「……あぁ」

 戻ってきた湊に対して、一呼吸を置いてから、灰奈が気になっていることを問い質す。

「じゃあ、何者なの?」

「あいつ……椿は――鬼なんだ」


「……!」

 灰奈は自分の耳を疑った。というのも、現代の世において、先の大蜘蛛のような妖の類は一まとめに怪禍とされている。だが、あのように理性を保ち、ましてや人の姿を持った者が鬼だと、そんな話は聞いたこともなかった。

「それじゃあ、あの術……! アンタは――」

「それは違う。オレは、紛れも無く人間だよ」

「だったら……どういう? それに、松田龍二も?」

「直接関係があるのは、オレだけで……龍二さんは、あまり関わってない」

「そう……なら――」

 これ以上踏み入った質問をするべきか、灰奈は一瞬躊躇ったが、ここまで来たからには最後まで聞くべきだと決意し、言葉を紡ぐ。

「アンタと、その椿って鬼に、どんな関係があるっていうの?」

「椿は――家族、だったんだ」

「家族……だった?」


「あぁ。前に父さんが式神を使う御霊使だって話をしただろ? だから、怪禍とか式神だとかに抵抗感は無くって……それで、オレが小学生くらいの頃。どういうわけか、鬼と分かっていて一緒に暮らすことになったんだ。まぁ、鬼らしくは無かったし、オレを湊ちゃんなんて勝手な愛称で呼ぶくらいだから、普通の人間と同じだと思ってたよ。今にしてみれば、おかしな話だけどね――」

 この世界でただ一人が口にする呼び名。それらの昔を懐かしむように語る湊の言葉を、灰奈は嫌な顔をせず黙って聞いていた。それが、決して綺麗な終わりを迎えることのない話だと分かっていても。


「でも、楽しかったんだ……父さんは仕事であちこち回ってて、帰ってきたらオレに武術を教えてくれた。母さんは不思議な人で、御霊使じゃないのに、何にでも分け隔てなく優しくて。まぁ、家事は下手だったけど――だから、代わりに椿と一緒にオレが手伝ったりして、いつも一緒にいたんだ……いや、本当はそれにもう一人。特別な式神が居て、ずっと見守っててくれてた。多分二人とも、姉さんってあんな感じだったんだろうな――」

 幸せな家族の話。ここまでは、不自由も理不尽も知らない少年の、夢に満ちた思い出。


「三年前だったかな? 仕事があるからって、珍しく一人で留守番をすることになってたんだ。その日は雨が降ってて……玄関で皆を見送った――それから、事件が起きたらしい。オレが知ってるのは、龍二さんに教えてもらった結末と……雨の中に見えた椿が残した最後の言葉だけ。だから、その言葉――約束だけは、必ず果たさなきゃいけないんだ」

「そう……何となく察しはついたわ。アンタは……椿さん? その鬼のせいで、家族をみんな亡くしてしまった。それで、椿さんはまだ生きてるけど、もはや怪禍に成ろうとしている。だから、それを救おうと――」

 曖昧な言葉を使う湊の意図を汲み取り、灰奈は気を利かせて言葉をまとめる。


「え? いや、全然違うぞ……確かに、事件の中心は椿だけど。そもそも、亡くなったのは母さんだけだし、父さんは多分まだ御霊使を続けてるはず。もう、それからは会ってないけどね。それに救うだなんて、綺麗な話にしちゃいけないんだ……。椿は――私を、殺してね――そう言ったんだ。だから……うん、これはきっと、復讐って呼ばれるのが相応しい」

 湊は、記憶の中の景色でノイズのように走る雨と、そこに居る椿の姿を思い浮かべていた。一方で、ものの見事に外れた勘に加えて、悲観的かつ自虐気味に語るその言葉に、灰奈の苛立ちはピークに達した。


「あぁ、もう! 分かりにくいのよ、アンタの話は! それに、まだ不明瞭なところが多いわ! そんな約束があるなら――御霊使になろうとしないのは、何故? さっきあれだけ取り乱してたのは、何? 父は生きてるって言うけど、もう一人の姉は、何処?」

 机を叩きながら立ち上がった灰奈は、もはや気遣いも気後れもせずに、次々と質問を浴びせた。それは、取り調べをする刑事さながらの姿であった。

「悪かったって! オレだって、どうしてこんなに大事なことを、今になって思い出したのか――いや、思い出したんじゃない。そもそも、何で忘れてもいいと思い込んでたのか、まったくもって恨めしいよ!」

「アンタ……自分の事でしょ! 質問追加! 何で、そんなに他人事みたいに曖昧なのよ!」

「――それにつきましては、私の口からお話させていただきます」

 二人の間に、先ほどとは別の意味で気まずい空気が流れようとしていたところに、突如として小さな救世主が現れた。



「あなた……!」

「……やっぱり、お前だったんだな」

「はい……。今まで、黙っていて申し訳ありません。湊様」

 そう言いながら頭を下げるのは、先の戦いで灰奈を助け、聡子と浩介を送り届ける為に別れたはずの少女であった。

「二人は、無事か?」

「えぇ。家までお送り致しました。ただ――親御さんに大層怒られていましたので、無事かと言われますと……」

 やっぱりという言葉。そして、あどけない調子ではないのを見ても、一切驚かず普通に接しているところから、灰奈は一つの答えを出す。

「まさか、もう一人の姉って……」

「どうやら、御自身の事を思い出してしまったようですね……では改めまして。私は、湊様にお仕えする者。その真名を――凪、と申します」

 二人を真っすぐに見つめながら、その少女――なぎは自ら名乗った。

 


「さて、まずは何からお話ししましょうか」

「オレの記憶が曖昧なのは、どうしてなんだ?」

 湊は、一番気になっていた、あらゆる疑問の根源について尋ねる。

「それは……お察しの通り、私のせいです。大切なモノであるとは分かっていました。ですが、それに囚われてはならない。と、湊様の父――虎太郎こたろう様は言いました」

「父さんが……? そうか、だから凪が側にいたってことなのか」

 この時、湊は凪という式神が、その主である父の令で動いているのだと解釈した。そうだとすれば、納得のいく事もある。しかし、その前提は大きく間違っていた。


「いいえ、そこから違った認識が始まっています。えっと、ですね……今は湊様にお仕えしていると言いましたが、これは言葉の綾などではなく、主そのものが変わっているからなのです」

「……? 何が違うんだ?」

「つまり、元々の主の願いによって引き継がれたということです。そして、その主というのが、他ならぬ湊様の母――琴音ことね様になります」

「え……?」

 それは、湊にとって驚くべき事実であった。また、その事がより一層謎を深めていた。


「不可解かと思うかもしれませんが、琴音様が私に下した唯一の命令――それは、家族が幸せであり続けること。それを遂行する為に、湊様を一方的にこの世界から遠ざけるという虎太郎様の提案を、私は受け入れられませんでした」

「でも……じゃあ、何で……!」

「……受け入れられないとは言いましたが、囚われるだけではいけないのも、また事実でした。ですので、一度だけすべてから遠ざけるという決断をしました。そしていつかの日か、自分の本当の思いに改めて気が付いて下さると――例え、そうはならずに、すべてを忘れてしまうことになろうとも……」

「だから、龍二さんにオレを?」

「はい。悩んだ末の決断でした。自らの身を引く代わりに、私を側で見守らせるという事です……なので、どうか虎太郎様を悪く思わないでください」

 のうのうと暮らしている裏で、そのような出来事があった。あの事件の時から変わらない、自分だけが何も知らないということに、湊は情けなさすら感じていた。



「それだったら、湊に近しいあなたが側にいるのは、問題なかったの?」

 口を閉ざした湊に代わり、次は灰奈が疑問をぶつけた。

「はい、むしろ私が側にいることが遠ざけることに繋がりますので」

「どうして?」

「記憶を消す方法などありませんし、過去に起きてしまった出来事を変えることも出来ません。なので、過去への認識にズレを生じさせました。例えば――私は湊様の妹である。と、いったように」

「そんな、バレバレの嘘を……?」

「えぇ。これは、気付かれてもいい嘘でした。妹ではないなら何者か? 今までの経験から、虎太郎様の式神だろうと。そう考えたはずです。しかし、服装や振る舞いを私が変えたことで、真相に気が付かず、間違った認識をしていました――こういった小さな嘘や誤解の積み重ねは、やがて大きなズレを生み、真実を隠す。それが目的でした」

「なるほどね……」

 眉唾物ではあったが、そう考えると疑問に決着がつく灰奈は、納得するしかなかった。だが、一つだけ答えの出ていない問が残っている。

「それで――アンタは、これからどうするつもり?」

 その問いを湊へと投げ掛けた。

「私は、欺き続けたことについて、何を言われても弁解はできません」

 凪も、湊の言葉を待つ。



(オレは……どうして?)

 答えは、最初から決まっている。

(いつから……?)

 しかし、それだけでは納得できない迷いがあった。

(そうだ、確か……)

 思い起こされたのは、在りし日の思い出。父に憧れる、無邪気な少年の姿。

「うん……オレは――」

 椿との約束だけではない、確固たる決意を口にしようとした時、

「いやー、参った参った。久しぶりに体を動かすと、やっぱ疲れるねー……。って、あれ? みんな、真剣な顔してどうしちゃったの?」

 タイミングの悪い男が帰ってきた。



「はぁっ……これですから、私は貴方という存在を信用できないのです……」

「まったく同感だわ……。松田龍二さん、今回の件については、先生に報告させていただきます――信じられない程の厄介事に巻き込まれましたと!」

「いや、あのね。俺、結構さ、頑張ってたんだよ……? ちょっと、冷たくない?」

 灰奈と凪から突然の叱責を受け、裏方の龍二は挫けそうになった。

「まぁまぁ、二人とも……そこまで責めなくても――」

「あぁ! 湊だけだよ、お兄さんの味方は!」

「それよりも、聞いてほしいことがあるんです――オレの、これからについて」

 その言葉を聞いた瞬間、龍二のふざけた表情が真面目なものへと変わる。

「オレは、御霊使になりたいです」

「椿ちゃんに会って、約束ってのを思い出したからか?」

 湊の決意に、龍二は少し意地悪な調子で尋ねる。


「はい……。でも、それだけじゃないです――浩介と聡子。龍二さんや灰奈、それに凪と父さんも……みんな、何かを背負っていて。それでも、誰かの為に恐れず一歩を踏み込める。そんな人になりたいんです――だからオレは、もう逃げない! 忘れたりしない! 強い自分になって、今でも一人で待っている大切な家族との約束を果たします」

「目の前で困っている人には手を差し伸べ、一番大切な家族をその手で裁く、か……。うんうん。大いに結構!」

「自分でも、正しいかは分かりません……」

「そんなもんだよ、この世界は。気にすんな! とにかく自分の道を突き進め、湊」

「……はい!」

 龍二の言葉に背中を押され、湊はようやく前を向くことができた。

「まぁ、こうなる予感はしてたけど――とりあえず、これからもよろしく頼むわね。バカ湊」

「私も、これからは片時も離れずに、お供いたします。湊様!」

 二人も、言葉に違いこそあっても、激励を送ってくれているのが伝わった。さぁ、これからだ。というところで、湊には一つ疑問があった。


「ところで、その御霊使の学院って、どうやって入るんだ? というか、こんな微妙な時期に、今から入れるものなのか?」

「え……? あっ……そうね……。一応、半期制の体制だから四月と九月に……」

「あの……今は十月ですよ、灰奈様」

「……また、来年会いましょう。それじゃあ、私は帰るわね……!」

 衝撃の事実が発覚し、その場から即座に退散しようとする灰奈を、湊は全力で引き止める。その横で凪は慌てふためき、賑やかながらも深刻な空気が場を包んだ。


「はっはっはー! まぁまぁ、こういう時こそお兄さんを頼っていいんだぞ!」

 その空気に収集をつけたのは、にやけた顔の龍二であった。明らかな悪い顔にこの場の誰もが嫌な予感がしつつも、注目せざるを得なかった。

「実は、あの学校――夕日降学院ってね。経営母体は、我が松田家の傘下の家なのさ! つまり、実質的なトップはこのお兄さんと言っても差支えないわけ」

「えっと……それで、どうするつもりですか、龍二さん……まさか?」

「そりゃあ、モチのロン。親友と妹の大事な息子の為だ――権力を行使する」

「嫌ですよ!」

 全力で阻止しなければならないと、湊は直感した。他の二人も、こんな不正を許すはずがないと思い、応援を求める。


「……そういえば、灰奈ちゃん。さっき、先生に『信じられない、松田龍二は最低の奴だ』って報告するとか何とかって……。いいのかなー?」

「諦めなさい、湊……。大丈夫、周りには言わないでおくから――」

「灰奈ーッ!」

 まずは、灰奈が陥落。

「それに……。もう、後戻りはできないところまで来て、ようやく事が上手く運びそうなのに――虎太郎の奴になんて言い訳するんだい……?」

「……湊様。椿さんとの約束を果たす為――毒を食らわば皿まで……あるいは、毒を以て毒を制す。ですよ」

「凪ーッ!」

 続けて、凪も陥落。


「さてさて、全員の許可も取れたところで。今日は、ここまで!」

 結局、龍二の横暴を阻止することができなかった湊は、渋々承諾をし、手続き等を龍二に任せてしまった。しかし、最後に一つだけ提案をしていた。

「それで、ホントに良いんだな?」

「はい。オレはやっぱり――高津湊ですから」

 それは、龍二に引き取られ、松田を名乗る前の本当の名前――高津湊たかつみなととして今後は生きていくという話であった。

「そっかぁ……向こうに行ったら、俺の息子だって自慢してやろうと思ってたんだけどな。まぁ、そういうこだわり、お前さんはあの二人によく似てるよ」

「……すみません――いえ、ありがとうございます」

 松田家の分家である高津。そういった家の事情は知らないが、湊にとっていつか帰るべき場所は、一つしかなかった。

「父さんのことは、まだ、はっきりと割り切れたわけじゃないですが。いつか会った時に……それから考えてみます――それじゃあ、いってきます」

「おう。頑張れよ」

 そして三人は店の外に出て、少し明るくなり始めた空の下で帰路に就いた。



 斯くして少年――高津湊は、矛盾の決意を抱えたまま道を歩き始めた。その決意が枷となり、身を滅ぼすかもしれない。しかし、その側で同じように強い意志を持つ仲間たちがいる限り、すべてを貫き、すべてを守るモノとなるだろう。

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