序章9-3

 一体、何が起こっているのか。これは、現実なのか。理解の及ばぬ事態に、二人はただ茫然としたままであった。

 死力を尽くして大蜘蛛を討ち、その腹から這い出た子蜘蛛に囲まれ、これ以上ないと思う程の最悪な状況に立ち向かう覚悟を決めていた。しかし、幸か不幸かも分からず、その状況も覚悟もあっさりと失われた。突如として目の前に現れた何かによって。

「――あるべき場所へと還りなさい……」

 そしてソレは、無造作に手を払い、抑揚のない声で言う。



「…………!」

 すると、辺り一面を覆っていた華は散り落ち、まるで最初からそこには何もなかったかのように、すべてを消し去った。

(はっ……!)

 その光景に一瞬だけ見蕩れてしまった灰奈は、すぐに思考を現実へと戻し、その元凶を見据える。

(人、なの……?)

切袴に単、そして袿を一枚だけ羽織った、袿袴と呼ぶには少し不思議な装い。雲の隙間から差し込む月明かりに照らされ、思わず目を引かれてしまうのは、濃い緋色の長い髪と藤紫の瞳。外見的な特徴は、大人の女性と変わらない。だが、拭い切れない違和感が警鐘を鳴らす。

「ちょっと――湊……?」

 今すぐに、何かしらの行動を起こすべきだと判断した灰奈は、湊に声を掛けようと振り向いた。しかし、一方の彼は恐怖なのか、それとも驚愕なのか分からない表情をしたまま、ただ目の前を見つめていた。

「……何で、どうして……? あ、雨……?」

「しっかりしなさい!」

 こちらの声が聞こえていないのか、頭を押さえ譫言を呟く湊は応答をしない。

(くっ……私が、やるしかない!)

 どうにもならない湊を守る。今はそれしかないと覚悟を決め、先の激戦の疲労を忘れ、灰奈は力を込めて刀を構える。その時、ようやく違和感の正体に気が付いた。

「何も、感じられない……?」

 灰奈が対峙する姿勢を見せても、向こうからは悪意も敵意すらも感じられなかった。それこそが、味方ではないにしろ、敵とも断定できない要因となっていたのだった。



「……ッ! 言葉は分かるんでしょう? なら、一度だけ聞くわ。今すぐここから去って! さもなくば――」

 灰奈は、刀の切っ先を向け、一か八かの賭けに出た。応戦されたらまず勝ち目はない。それでも、会話が成立する相手ならばやりようはある。この緊迫した状況をやり過ごす為に、怖れと迷いを振り切って問い掛けた。すると、女性はその言葉に反応を示し、目を合わせて口を開く。

「――夜半の月かな」

「……は?」

 それが、問いかけに対する返答なのか。それとも、ただそう呟いただけなのか。その意図は理解できない。だが、少なくともこの場を去る様子は見られなかった。

「そう……だったら――悪く思わないで!」

 このままの状況を維持するリスクを考え、灰奈はついに敵対する意思を持ち、地を蹴り相手の元に踏み込んだ。

(さぁ、どう動く?)

 ただし、本気で斬るつもりは無かった。刀を振るその直前まで相手の動きを見てから、場合によっては寸前で止める心積もりであった。

 しかし、灰奈が刀を振っても相手は微動だにしなかった。だというのに、その刃は寸前どころか、手が届かないギリギリの位置で阻まれる。

「――なっ!?」

 その瞬間、見えない壁に刀がぶつかる音と共に、反動の衝撃が灰奈の手に伝わった。そして、空間が揺らめき、それは形を現す――甲冑の大袖のような霊体の形を。

(これは……!)

 灰奈の脳裏に、先の戦いで見せられた湊の姿が過ぎる。しかし、その意味を考える間も無く、重い衝撃が体を突き抜けた。

「ガハッ……!」

 またしても無造作に振るわれた手。正体の掴めない攻撃に、灰奈の体は軽く吹き飛ばされた。体制を立て直そうとするも、言う事を聞かない体では、刀を支えに膝をつくので精一杯であった。



「――灰奈」

「ハァ……ハァ……何よ?」

 息も絶え絶えの灰奈に、ようやく正気を取り戻した様子の湊が、後ろから声を掛けた。

「もう、いい……」

「え?」

 その声音は、先ほどまでのように取り乱したものではなく、落ち着いているかに思われた。だが、ゆっくりと相手に近づく湊が横を通り過ぎる時、灰奈は気が付く。

「アンタ……! ま、待ちなさ――」

「止めるな。手を、出すな……! オレが――」

 怒り、憎悪、そして悲しみ。負の感情を混ぜ合わせた湊は、灰奈に目を呉れることもせず、血が滲むほどに拳を握り閉めながら、ただ真っすぐに歩み寄る。そして、手の届く距離にまで近づいた瞬間、無感情だった女性の表情に変化が表れた。

「――椿ッ!」

「――そうちゃん……」

 笑った。どこか憂いを帯びてはいるが、それは確かに柔らかい表情であった。灰奈は、対照的な二人の表情に困惑するも、自分が決して立ち入ることのできない、何かが始まると感じていた。――が、その時である。



「はいはい。そこまでねぇー」

 間の抜けた声と共に、飄々とした人物が湊の背後に現れた。

「……龍二さん」

「いやー、感動の再会って場面だねコレは。でもさぁ、それにしてはちょっと穏やかじゃないよね――いっそ、彼女が槌でも持ってきてくれれば、ドッキリみたいで面白い冗談になると思うのに……なんてね! はっはっは!」

 龍二は、こちらを振り向かない湊の肩を叩きながら、いつもと変わらぬ態度で語る。

「邪魔をしないで、ください……!」

「はぁっ……これが反抗期か。お兄さん悲しいよ……。でも――」

「えっ……!?」

 依然として固い表情を崩さない湊に対して、ため息交じりに冗談を言ったかと思えば、次の瞬間に龍二は片手で湊の服の襟首辺りを掴み、そのまま後方にいる灰奈の所へ投げ飛ばした。

「その続きには、まだ早すぎるんだ。許せ、湊」

「何で!? 龍二さん!」

 湊は、普段は見ることのない真剣な龍二に問い掛ける。答えを返さない人だと分かっているが、それでもこのまま引き下がるつもりもなかった。

「悪いな……こういう言い方は好きじゃないんだが――御霊使としての俺からの命令だ。灰奈ちゃんを連れて、今すぐにここを離れろ」

「……ッ! はい……分かりました」

 その後ろ姿から、これが本気の言葉だと悟った湊は、奥歯を噛みしめながらも指示に従う。灰奈に肩を貸し、自分にとってかけがえのない大切な思い出を持つ二人を残して、背を向ける。

「湊ちゃん……約束――」

「うん……必ず――」

 そして、一連の出来事の元凶である女性――椿つばきという名の者からの言葉を受け取り、山を下った。




「――さて、と。今日という日なのは、不幸中の幸いだったな。って、俺の言葉なんか聞こえちゃいないだろうけど……」

「…………」

「逃げるが勝ち、とは思うけどさ――ケジメは付けさせてもらおうか」

 再び感情を閉ざした椿。厚い雲が月明りを覆い隠し、完全な暗闇の中で、二人は対峙した。

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