序章9-2
一方、森へと逃げ込み蜘蛛たちを誘い出した湊は、木々の間を駆け抜けて追撃を躱しながら、より奥へと入り込んでいた。
(さて、そろそろ頃合いかな)
そして、霊符を左手に取り、体を翻して反撃の体制に移る。目の前にいる三匹、まだこちらに追い付いていない二匹。状況を確認しながら、相手の出方を伺う。
『…………』
蜘蛛たちは、こちらの変化を察したのか、威嚇するようにしながらも、取り囲める位置を探る様子で慎重に間合いを詰めてくる。やがて、攻撃の体制に入る為に足を止めたその瞬間、先に動いたのは湊であった。
「水身符『癸亥』」
手に持った霊符を正面の蜘蛛に投げつけると同時に勢いよく踏み込み、即座に距離を詰める。そして、霊符が水の塊へと変化し始めた所に、その勢いのまま掌底で打突を繰り出した。すると、水は掌底から拡散するように強烈な力で押し出され、目の前の敵に叩きつけられた。
(まずは、一匹……!)
湊の急な反撃に焦ったのか、残った横の二匹は咄嗟に飛び掛かる。だが、それさえも読んでいたかのような軽い身のこなしで躱しながら再び霊符を手に取り、その内の一枚だけを地面に置き、相手との距離を置きながら次の準備に入った。
「水身符・三重『癸酉』」
そして、三枚の符を先ほどと同じように上空に投げる。しかし、今度はそれぞれが形を成すことはなく、三つが重なって一羽の大きな鳥を生み出した。
「行け!!」
湊が腕を振り下ろすと鳥は急降下し、地面擦れ擦れに敵を目掛けて飛んでいく。蜘蛛が回避しようとした時にはもう遅く、二匹を同時に貫いた鳥は空中に飛び上がり霧散したのであった。
「ふぅ……」
目の前にいた蜘蛛たちを掃討した湊は、目を閉じて一つ息を吐いた。そんな束の間の休息を破るように、木々がガサガサとなる音に合わせて、
『…………!』
こちらを追っていた残りの二匹の蜘蛛が現れる。だが、向かってくる蜘蛛を前にしても、湊は慌てる様子はなく、ただその場に立ったままであった。
「……もう遅い、仕込みは終わってるよ――水身符『壬寅』」
と、言い放ちながら湊は先ほど地面に置いた霊符に手をかざした。すると、その符は蜘蛛たちが近くに来た瞬間に大きな円陣を形成し、円周から四本の水の柱が隆起する。そして、二匹が陣の中へ吸い込まれるようにして入ると、柱は瞬く間に鋭い牙へと変わり、そのまま嚙み砕いた。
(今ので、最後かな?)
湊は付近の気配を探り、敵の気配がしないことを確認してから歩き出す。
(あっちは……大丈夫だよな? まぁ、灰奈が上手くやってくれるだろ。なら、あとはこのまま帰るだけだ)
ようやく終わったという事を再認識し、胸を撫で下ろす。
(あのデカいヤツも、やっぱり直接は襲ってこなかった。多分、オレたちを脅威とすら思わなかったんだろうな……派手に暴れる様子も無かったから、残りは本職の御霊使に任せて、と)
来た道を引き返している途中の少し開けた場所。二つに分かれた道の前で足を止める。
(……明日、学校で二人に何て言えばいい? いつも通りでいればいいのか? そうしたら、また何でもない楽しい日が続いてくれるのか? 怪禍も現れない、そんないつもの日々……オレは、それを望んで――)
「違うな……」
片側は、山を下る道。
(本当は、分かってる。御霊使の真似事は、何も起きないこの町だからこそ続けていた……怪禍に会わないなら、そんな夢をいつかは捨てられるって。そう、思いたかったから。全部投げ捨てて、楽になってしまいたかったんだ……)
「でも……」
もう一方は、
(いつの日の事だったか、何があったかは思い出せないけれど……それでもオレは、御霊使になりたい。ならなきゃいけない理由が確かにあったんだ――)
「だから……!」
巨大な怪禍の待つ道。
(行くしかないんだ!)
湊は元の道に足を進めた。そこで、何かを見つけられると信じて――。
「さぁ、戻ってきてやったぞ」
『…………』
大蜘蛛の居た所へ戻ってきた湊が語りかけても、言葉など通じていないのか、相変わらず反応は無いようであった。
「はぁ……ホントに戻ってきたのね、バカ湊」
そんな時、大蜘蛛に気を取られてこちらに気付いていなかった湊に対して、灰奈は溜息交じりで声を掛けた。
「灰奈!? なんで、ここに……? いや、それよりも二人はどうしたんだ!」
「大丈夫よ。あんたも信用できるはずの子が送り届けてくれる。それで、その子と……あの二人にも頼まれたの――アンタを頼むってね」
「そうか……」
湊の脳裏に、ある少女の顔が思い浮かぶ。妹と偽ってまで、自分の側にいてくれている頼もしい味方である。
「それで、一応聞いといてあげるけど……アレを清祓するのは、御霊使の仕事。アンタは関係ないから、帰りなさい」
一安心しているところに、灰奈が問う。だが、湊の心は既に決まっている。
「まさか。むしろ、こっちが手伝ってやるってくらいのつもりだよ」
「偉そうに」
口では厳しいことを言っているが、灰奈の表情は穏やかであった。
「……それで、覚悟はできてるの?」
「あぁ。死なないようにはするさ」
「そうじゃなくて……まぁ、いいわ。それにしても――」
改めて相手を見ると、四メートルはある巨大な体に人間に似た胴体。と、その異様さが伝わってくる。さらに、一切こちらを見向きもしないところが余計に不気味である。
「多分、アイツはこっちを敵だとも認識してない。いや、餌だとすら思ってないのかもしれない。でも、知能はあるはずなのに、どうして……?」
「考えても無駄よ。この怪禍は発生から間もない。つまり、自我を持つ程には進化してない不安定な状態のはず。だったら、今すぐに全力で叩くだけよ!」
「速戦即決ってことか……よし、その案乗った!」
そして、勢いに任せた二人は、大蜘蛛に向けて全力で攻撃を仕掛ける。
「水身符・三重『癸酉』」
「壱式『焔』」
湊は人型の胴体部分を目掛けて鳥を降下させ、灰奈は火を纏った刀を、腹部に向けて水平に思い切り振り抜く。
「嘘、でしょ……!」
だが、振り抜いたはずの刀はその体に食い込むことすらできずに弾かれた。湊の方も同じく、僅かに胴体を震わせただけで、有効打になるようなものでは無かった。
「くそっ……! もう一度――」
『アァ、アァ……イトシキ、モノ……』
臆する事なく攻撃を続けようとした二人は、今までの長い沈黙を唐突に破って発せられた、その怪しげな声によって遮られた。
「ヤバい……! 灰奈! 一旦、下がって体制を!」
「これ以上放っておいたら、もっと大変なことになる! なら、私が仕留める!」
急転した状況で連携の取れなくなった二人の行動は、更なる悪循環に陥ろうとしていた。
「ハァーーッ!!」
一人で前に出た灰奈は、大きくジャンプして飛び、刀を振り上げて人型の胴体部分のその頭部を目掛け、真向から振り下ろした。しかし、ガチン。という大きな音で、大蜘蛛はそれを器用にも上顎で挟み取ると、灰奈もろともそのまま地面へと叩き付けた。
「ぐっ……!」
投げ出された灰奈は、地面を跳ね、膝をつきながらも何とか体勢を立て直した時に、十メートル程も飛ばされたのだという事を理解した。それを、ただ見ていることしか出来なかった湊は、次に何をしなければならないのかを考えようとするも、規格外の相手に対して、思考は遅れるばかりであった。
『アァァァァァァ!!』
そこに追い打ちを掛けるかのように、突如奇声を上げて自らの髪を搔きむしる大蜘蛛。声の大きさよりも、その不気味な威圧感に、二人は思わず竦んでしまう。
『…………』
かと思えば、急に静止し、再び沈黙をする。それらの奇行は、生物的では無い、もはや化け物としか形容のしようがなかった。
「大丈夫か……?」
どうすることも出来ない湊は、一先ず灰奈の下へ駆け寄り、その安否を気遣う。だが、依然として策は一つとして浮かんでいない。
「……負けない、私は!!」
「駄目だ! 止まれ!」
方や、それでもなお灰奈の闘争心は燃え続け、湊の声すら振り切って立ち上がり、大蜘蛛に立ち向かおうとする。その瞬間、大蜘蛛の上半身が僅かに揺れた。
(…………来る!)
それからは、意識できない間の出来事であった。湊は、灰奈を庇う為に抱えたまま、気が付けば激しい痛みと共に森の中で転がっていた。遠くに目をやると、恐らく自分たちが居たであろう場所には、大蜘蛛が立っている。
「痛ッ……大分、吹き飛ばされたみたいだな。無事か、灰奈」
「えぇ……」
気を失いそうになる程の痛みをこらえながら立ち上がった湊は、目では追いつかない速度での体当たりだったのだろう。と、この状況から結論を出した。
「……ごめんなさい。私が……頼まれてたのに」
灰奈の方は、ダメージこそそれほど無いようであったが、自分を庇った湊に対しての自責と及ばぬ力への悔しさから、そう言ってから思い切り奥歯を噛みしめた。
「いや、最初に躊躇して足並み崩したのはオレの方で……まぁ、ちょっとヤバそうな状況だけど、今の一撃のおかげで良い案が思いついたからさ。とりあえず、前向きに行こう! そっちの方が、お前らしいよ」
「この期に及んで、何を言い出すかと思えば……そんな適当な励ましこそ、アンタらしくないわよ!それで、どうするつもり?」
「言っただろ、切り札があるって。それを使う……ただ――」
「ただ、何よ?」
少しずつではあるが戦意を取り戻してきた灰奈に、これ以上無理をさせていいのかを湊は迷ったが、意を決して言葉を続ける。
「無茶を言ってるかもしれないけど……一瞬でいいから、敵を崩して無防備にする隙を作って欲しい。そしたら、今持てる最大の攻撃を叩き込む」
「それなら、出来ないこともないわ。でも、無茶を返すようだけれど、あの速度で動けると分かった以上、それをどうにかする手段がないことには……」
「それは……大丈夫。何とかしてみせる」
「何とかって、どうするつもり……? もし、勝算がないなら――」
「別に、切り札は一つとは言ってないからな」
自棄になった作戦であるならば、今すぐに撤退を指示するつもりであった灰奈は、その言葉に耳を疑った。
「使わずに済むなら、とか思ってたけど――」
「そんなリスクがあるなら、許可は出来ないわ」
「違う、リスクの問題じゃないんだ……オレに、覚悟があるかの話だよ」
一体何をするつもりなのか、灰奈には見当も付かなかった。湊は、困惑する灰奈に問い掛ける。
「灰奈に――背中は任せていいんだろ?」
(…………!)
それは、灰奈が湊に対して送った言葉。彼女にしてみれば、景気づけのつもりであったが、受け取った側の彼は、全幅の信頼を置いてくれている。だとするならば、
「えぇ……! 湊は――前だけ向いてなさい!」
灰奈は、全力でそれに応えるしかなかった。
「よし、行こう! 今度こそ、終わらせるぞ!」
そして、並び立った両者は再び大蜘蛛と相見える。
「準備は?」
「いつでもいいわ」
大蜘蛛と距離を置き、前方に湊、その少し後方に灰奈という布陣で臨む。
(勝負は一瞬……相手の気配に集中して、僅かな変化を逃さないように――ただ、前だけを!)
(落ち着いて、師匠に教わった事を思い出して――あの強さで!)
暗闇の中、完全な静寂の世界でそれぞれの思いを巡らせる。
『アァ……!』
二人の確固たる気配を感じ取ったのか、大蜘蛛が呻き声を上げる。
(来る! でも、まだだ……!)
その声に反応した湊は、いつものように霊符を手に持つことは無く、目を閉じたまま左手だけを正面にかざす。そして、大蜘蛛の体が僅かに振れたその瞬間、
「冥隠式・護法『鬼哭』」
湊の声に応じて、甲冑の大袖を模した霊体の盾が現れた。既に動き始めていた大蜘蛛は正面からその盾に激突し、鈍い音を響かせ、反動の衝撃で後ろによろめいた。
「クッ……! 今だ、灰奈!」
「任せて!」
灰奈は右脇に取った刀の先を後ろに構えたまま、引いた右足だけで地を蹴り、その一歩だけで大蜘蛛の左脚の前に飛び出た。着地の瞬間に左足は足先だけを下ろすと同時に、勢いを殺さないよう、着地した足を軽く曲げて軸にし、体重を乗せて左側に回転する。
「……ッ!!」
そして、一周し終えるその刹那に、重心の軸は変えずに上半身をひねって体重を右側に乗せ変え、右足で地を捉えると共に、真下から真上に掬い上げるようにして渾身の一撃を放った。
「赫淵流・一ノ太刀『旋』」
初めの一歩から最後の一撃まで、息も出来ないほどに力を込めたその剛き剣技は、大蜘蛛の脚を切り飛ばすのに十分過ぎるものであった。
「行って! 湊!」
脚を失って大きくバランスを崩した大蜘蛛が倒れると同時に、湊は特殊な霊符を一枚だけ持ち、人型の胴体を目掛けてその符を投げる。
「くらえ! 『浄爆符』」
投げられた札は触れた瞬間に散り散りとなり、その一つ一つが光を帯び始める。
「危ないから、耳塞いで伏せてろよ!」
「……え? 何が――」
何が起ころうとしているのか。灰奈が聞こうとしたその時、破片の一つが弾けるようにして爆発を起こす。それに合わせ、連鎖的に次々と爆発が始まった。
『アァァァァァァ!!!』
激しい破裂音と、耳をつんざくような大蜘蛛の断末魔の叫びがしばらくの間響き続けた。
「……地獄絵図ね、これは」
「だから言っただろ、切り札だって。それに申し訳ないんだけど、力使いすぎてもう動けないから、お説教はまた今度にしてくれよ」
「……はぁ……先に聞かなかった私が悪いわ。やっぱり、アンタはバカね!」
未だに少し耳が痛む灰奈は、地面に倒れたままの湊に怒っていた。だが、そのおかげで大蜘蛛を倒せたことは事実であり、複雑な胸中であった。
「ところで、あの術は何だったの? 符術以外も使うなんて……それに、結界のように見えたけど、そうじゃない。あんなのは初めて見たわ」
「まぁまぁ、とりあえずこれで解決って事なんだから――」
「……? どうしたの?」
言い争いながらも、脅威が去ったことに安堵していた二人であったが、不意に湊が体を起こして、上半身を失い腹部と脚だけになった大蜘蛛の姿に目を向ける。
「おい、嘘だろ……」
「何が? ……!」
それに釣られて灰奈も目を向けると、残された大蜘蛛の腹部を裂いて、数えきれない程の数の子蜘蛛が湧いて出てこようとしていた。先に対峙した蜘蛛ほどの大きさは無いが、その数は圧倒的であった。
「……くそっ! まだ、終わりじゃないのか」
湊は、力を振り絞って立ち上がるも、戦うだけの気力は残されていなかった。
「全部は無理かもしれないけど……私がまとめて焼き払うから、アンタは逃げて!」
「無理だって言ってる奴を置いて逃げられるか!」
続々とこちらに向かってくる子蜘蛛に対して、まだ少し余力があるとはいえ、さすがに疲れが出ている灰奈が一人で立ち向かおうとするのを、湊は良しとしなかった。
「……どうなっても、知らないわよ」
「望むところだ」
決意を固め、たった二人で絶望的な大群を前にしたその時、
「……!? な、何だよ……コレは――」
体温を奪うどころでは無い、魂さえも奪われてしまいそうになる程に冷たく、不穏な空気が辺りを包み込み、目前にまで迫っていたはずの子蜘蛛のすべてが動きを止めた。
「わ、分からないけど……怖い……」
灰奈は、怪禍に纏わる並大抵の事には慣れているつもりであったが、無意識の内に自分の口から怖いという言葉が出てくるとは思っていなかった。それほどまでに、理解が及ばぬ状況なのであった。
(この感覚を……知っている……?)
何かを掴みかけた湊の思考は、灰奈の声によって現実へと引き戻される。
「……ここは、現実なの?」
「――どうかしたのか? ……え?」
それもまた、地獄と呼ぶに相応しい光景だった。無数にいた子蜘蛛たちは、その頭部から真っ赤な華を咲かせ、辺りは花畑――というよりは、血の海と形容すべき景色が広がっていた。
「咲きし華はやがて散り、唯々地に還るのみ……哀れなモノね……」
そして、鬼が現れた。
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