序章9-1
大蜘蛛と対峙するその数刻前——湊と灰奈は、いよいよ山の麓まで来ていた。辺りは薄暗く灯りの消えかかった古い街灯が、頂上までの階段の入り口に一つだけ立っているだけである。また、その側には今はだれも住んでいない家屋が放置されたままで、より一層の不気味な雰囲気を醸し出していた。
「……よし、とりあえず山頂までのルートに敵はいないみたいだな」
そして、湊は偵察用に飛ばしていた水の鳥を回収し、一先ずの安全を確認する。
「それで、勢いでここまで来たけど、何か策はあるの?」
「あぁ、一応は……ただ、念のために確認しておきたいことがあるんだ」
「……?」
灰奈には、彼の言葉の意図が分からなかった。覚悟はとうに決めている。加えて、今更引き下がれないことも、お互いが承知している事だろう。
「灰奈には、御霊使としてあの怪禍を清祓する役目があるってことは分かってる。でも――」
「今は、二人の救出が最優先。その、認識であってるわ」
「……じゃあ、怪禍の相手はオレがする。その間に、灰奈は二人を連れて、安全な場所まで逃げ切ってくれ」
「はぁッ!? アンタ、何言ってんの? どんな相手かも分からないのに、御霊使でもない人間に何ができるっていうの?」
湊の提案に、灰奈は思わず大声で反論した。この数日で、少しは彼の事を理解していたつもりであり、それは向こうも同じだと灰奈は思っていた。しかし、そんな無謀なことを冗談で言うはずもない。それ故の怒りであった。
「違うんだ……さっき言った通り、今は聡子と浩介の救出が最優先になる。だったら、より優秀な方が二人の側にいた方が良い。それに……情けないけど、オレには誰かを守りながら戦うなんて出来やしない――怖いんだ、無力な自分が、何もできないことが。だから、頼む。灰奈……!」
「本当に……馬鹿ね、アンタは。ちゃんと物事を考えられるのに、考えすぎてダメになる。少しはあの子達の前向きさを見習ったら?」
「…………」
湊は、灰奈の言葉に対して肯定もできずに沈黙したままであった。
「大丈夫。何があっても、全員を無事に送り届ける。それが私の任務よ。だから、アンタは――前だけ見てなさい、背中は私が守る」
「分かった……! ありがとう、灰奈」
それから、二人は山頂への階段を上り始めた。一歩、また一歩と足を踏み出すにつれて緊張感が増してくると同時に、強烈な気配がそこで待ち構えていることに気が付く。そして、蜘蛛たちに気付かれないようにギリギリの距離まで近づき、ようやくその気配の主である不気味な大蜘蛛と囚われている二人を目視で確認した。
湊は、一向に動く気配を見せない大蜘蛛と統率の取れた子蜘蛛を観察しながら、考えを巡らせ、一呼吸置いて口を開く。
「……よし、ここから二手に別れよう。オレが、このまま真っ直ぐ行って相手の注意を引く。灰奈は、こっちの木々に隠れながら迂回して、二人を救出。その後に、すぐ離脱。うん、予定通りいこう」
「随分、落ち着いていられるのね。もっと、焦るのかと思っていたのだけれど?」
灰奈が冗談めいた調子で尋ねる。それが、自分に対する彼女なりの激励なのだと理解し、湊が応える。
「お互い様だろ?」
「……生意気。生憎だけど、こっちの心配はいらないから」
「同じだよ。オレの心配もしなくていい。逃げるのは得意だから……それにいざとなったら、文字通り、とっておきの切り札を使うさ」
二人は顔を合わせず、軽く目をくわせながら声を掛け合った。
「それが、強がりじゃないことを信じるわ――じゃあ、行くよ!」
「あぁ!」
そして、同時に飛び出した二人の戦いが始まるのであった。
「浩介、聡子! 助けに来たぞ!」
蜘蛛たちの正面に立った湊は、大きく声を上げた。そして、不意に現れた人間に対して周囲の子蜘蛛が、それを取り囲むようにして動き出す。
(まずは、相手の出方を伺う……!)
四匹、五匹と数を増やす子蜘蛛の動きに焦らず、腰を落として警戒をしたままじっと耐え忍ぶ湊。右手に握られた霊符に力を込め、その瞬間を待ち続ける。
「湊くん! 危ない!」
そして、二人の側にいた内の一匹が、左方向から飛びかかろうとした時、聡子が声を上げた。
(……ッ!)
その瞬間、湊は即座に膝を抜き、摺り足から蹴りを放つ。
「でやぁ!!」
思い切り振りぬかれた足は、蜘蛛を吹き飛ばし、また元の姿勢へと流れるような動きで戻る。他の蜘蛛たちは、一瞬の隙も見せないその獲物に対して、連続で襲い掛かる事も出来ず、再び膠着状態となった。
「す、スゲェ……あれが、湊なのか?」
一連の動作を目では追いきれなかった浩介は、思わずそんな声を漏らした。目の前にいるのは、いつも知っている友人の筈であったが、まるで別人のような気迫のこもった表情を見ると、固唾を呑んで見守るしかなかった。それは、聡子も同じようで、緊張感がその場を包み込んでいた。
その不安を感じ取ったのか、湊は二人の方に顔を向け、少しだけ微笑んで見せた。
「! ははっ……やっぱり、湊なんだな」
「うん……! ウチらの湊くんだよ!」
大丈夫だよ。と、言葉は無くても、その表情で言いたいことは伝わった。そして、再び集中した状態に戻る湊を、二人は心の中で応援し続ける。
(さて、ここからが大事な場面だ……オレの予感が正しければ――)
冷静に思考を巡らせ、次の動きを待つ。一方の蜘蛛たちは、先ほどとは打って変わり、取り囲んだまま微動だにせず、何かを待っているようであった。
(仕掛けるなら、今だ!)
次の瞬間、湊は握っていた三枚の霊符を上空に投げ――唱える。
「水身符『癸酉』」
水の鳥へと姿を変えた三枚の霊符は、それぞれが飛び回り、一羽は二人がいる方向の蜘蛛に、もう一羽はその反対側に急降下をして弾けた。しかし、まったく傷ついた様子の無い蜘蛛たちは、それに呼応して一斉に湊へと襲い掛かった。
その強襲を躱しながら、湊は二人から遠ざかる方へと少しずつ向かう。そして、動き始めた戦局に対して、ようやく大蜘蛛が反応を示した。人に似た顔つきは、まるで喜びの表情を浮かべているようであり、ゆっくりと湊を目で追っていた。
(そうだ……! それでいい、こっちを追ってこい!)
ある程度遠ざかった所で、湊は飛ばしていた最後の一羽を大蜘蛛へと向け、直撃を確認してから森の中へと隠れるように入っていく。それを追いかけるように、その場の蜘蛛たちも続いていった。
そして、大蜘蛛も湊の逃げた森の方向を見つめたまま沈黙し、気が付けば辺りは静かになっていた。
「……大丈夫かな、湊くん」
「あぁ……無茶、してなきゃいいけど」
その場に残された浩介と聡子は、小声で会話をしていた。
「あなた達は、自分の心配をした方がいいわ。向こうはきっと、大丈夫だから」
「「灰奈ちゃん……!?」」
「シッ! 静かに。とにかく、ここから逃げるわよ」
突然現れたその人物に、二人は驚いて声を上げたが、幸い注意が向かう様子は無かった。そして、灰奈は刀で拘束を解き、自由になった二人に事の次第を伝えた。
「――そういうわけだから、今のうちに行きましょう」
「了解! 湊……お前の尊い犠牲を無駄にはしないぞ」
「変なこと言ってる場合じゃないでしょ! バカ浩介!」
(意外とタフね、この二人は……後は、何事もなく帰れればいいのだけれど……)
しかし、山を下る階段へと向かう途中、何かを察した大蜘蛛が突如として灰奈たちの方へと向き直り、低い唸り声をあげると、どこからともなく進路を阻むようにして二匹の蜘蛛が現れた。
「ひやっ!!」
「……! 聡子!」
その威圧感と恐怖に、転びそうになってしまった聡子を浩介が支えた。とはいえ、浩介の方も疲労のせいか、足が思うように動いていなかった。
(クッ……! 違う、これ以上は! 大丈夫なわけがなかったんだ。二人は既に限界じゃない! そんな事にも気付いてあげられなかったなんて……一番の馬鹿者は、私だ!)
その状態を見た灰奈は、奥歯を噛みしめながら、自分を責めた。すると、
「……ごめんね、灰奈ちゃん。折角、来てくれたのに……」
苦悶の表情を浮かべている灰奈に、聡子が声を掛けた。
「いいえ、謝らなきゃいけないのは私の方……二人を巻き込んでしまって、ごめんなさい」
徐々に近づいてくる蜘蛛を尻目に、納刀した刀の鞘を強く握りしめながら、謝罪をする。
「いいんだって、そんなこと。別に、灰奈ちゃんのせいだなんて思ってないぜ、俺たちは! だって、友達だかんな!」
今にも襲い掛かりそうな体勢の蜘蛛を前にしてもなお、浩介の表情は崩れない。
(そうだ……! 私は、覚悟をしてここに来た! だったら、今するべきことは――)
そして、痺れを切らした蜘蛛の一匹が飛び上がった。と、同時に、
「そこを――どきなさい!」
灰奈は左手に握った刀を、納刀したまま片手で薙ぎ払った。その衝撃を受けた蜘蛛は、軽々と弾き飛ばされ、森の中へと消えていった。
「聡子ちゃん、浩介くんにしがみついて! そうしたら、絶対に離さないで!」
灰奈の指示を聞いた聡子は、これでもかと言わんばかりにしがみつき、浩介も離すまいとその体を支える。
次の瞬間、灰奈は浩介を片手で抱えて、蜘蛛を跳び越すように地を蹴った。そして、階段の前に着地すると同時に二人を下ろし、刀を鞘から引き抜いた。
「何があっても、あなた達二人を守るから! 一刻も早く、帰りましょう!」
「おうおう! 任せんしゃい!」
灰奈の鼓舞で少し元気の戻った浩介が、聡子を背に負いながら答える。
(二人とも、また無理をさせてごめんなさい。でも、きっとこんな不甲斐ない私なんかを許してしまうのよね……? なら、今だけはそれに甘えさせて!)
無理を強いているのは百も承知であったが、灰奈は友の素直な好意を信じる決意を固めた。
そして、ゆっくりと一歩また一歩と灯りすら無い階段を下りながらの守勢。時折、躓きそうになる体を支えてやりながらも、灰奈たちは確実に山頂から離れつつあった。
「ハァッ!!」
しかし、足場の悪い場所で思うように振るえない太刀筋では、致命的な一撃を入れることができず、やがて最初に弾き飛ばした蜘蛛にも追いつかれ、状況は悪化していく。
(それでも、私は!)
小賢しくも、少しずつ連携を取り始めて獲物を追う蜘蛛が、挟み撃ちを仕掛けに回り込もうとしても、守りに徹した灰奈は即座に間合いを詰めて牽制し、二匹が攻勢に転じる余裕すら与えなかった。決して、後ろの二人を譲らない。その強固な思いは打ち砕かれず、ついに階段の終わり――古い街灯の灯りが視界に入った。
「見えた! あそこまでだから、頑張って!」
「うぉりゃー! 畑中浩介、最後の侠気。見せてやりますぜ!」
安定した足場さえあれば、一気に勝負を決められる。ようやく二人を安心して送り届けられる。灰奈は勝機を悟り、先ほどまでよりも冷静になっていた。だが、ここまで来たというところで、最後に思わぬ事態が起こる。
「あれっ……?」
「……ッ! 危ない!」
下りきるまでの、あと十数段という既の所で、聡子を背負った浩介は、足を踏み外しかけてバランスの崩れた体を立て直そうと変に力が加わり、そのまま前方に投げ出されるようにして宙に浮いた。
(――間に合って!)
このままでは大きな怪我をし兼ねないと判断した灰奈は、何としてでも助ける為に、手に持った刀すら放って飛び出し、二人の体を引き寄せて階段下に着地した。
「は、灰奈ちゃ――」
「大……丈夫!!」
明らかに無茶な着地であることを聡子が心配する声を遮り、灰奈は笑ってみせた。そして、二人を抱えたまま、その絶好の隙を逃すまいとして飛び掛かろうとする蜘蛛に視線を移す。
実際のところ、着地自体で体には支障など無かったが、放り投げた刀を回収して応戦するには間に合わないと判断した灰奈は、二人を傷つけさせない為に取れる手段の覚悟を決めていた。
(武器が無くても、まだ腕はある……!)
蜘蛛の一匹が、牙を剥いて飛び上がった。
それを腕に嚙みつかせて動きを封じ、そのまま後方のもう一匹にぶつけて少しでも時間を稼ぐ。という、もはや策とも呼べない、窮地の中での灰奈の捨て身である。
「――水陣『牢固』」
しかし、灰奈の捨て身に届く前に、どこからともなく現れた水の塊が、飛び上がった蜘蛛をそのまま包み込む。その声のした方を振り返ると、そこには思いもよらない者が居た。
(この子は……確か、湊の――)
水色の髪、和服を着た小さな体。灰奈は一度しか見ていないが、見間違えることのないその出で立ちから、記憶に新しい湊の式神であると考えた。だが、今目の前にいるのは、強烈な威圧感を放ち、右手で何かを包むように空を握り、その蒼い瞳で冷たく敵を見据えている少女。あの時に見た、無邪気そうな印象とは似ても似つかなかった。
「『一閃』」
そして、再び冷たく言い放ちながら、相手に向けた右手を翻し、人差し指で軽く撫で下ろした。すると、先ほどの水に包まれた蜘蛛は、断末魔の叫びを上げることもなく、静かに切り裂かれた。
「……あなたは、何者なの?」
その光景を前にして、思わず警戒心を持った灰奈は、そう尋ねずにはいられなかった。
「ご説明は後程に……今は、一刻を争うようですから」
少女は冷酷と呼べるほどであった表情を崩し、敵意は無い様子で答える。そして、いつの間にか回収していた灰奈の刀を差し出した。
「分かったわ……とりあえず――」
その刀を受け取った灰奈は、危機を察してゆっくりと後退を始める蜘蛛の方へ向き直ると、
「終わらせてあげる! 壱式『焔』」
一筋の炎が、薄暗い闇を裂くように勢い良く駆け抜けた。軌跡の終点で燃え上がる蜘蛛は、しばらくのたうち回った後に、やがて跡形もなく消え去った。
「それで……あなたは?」
静けさが辺りを包む中、灰奈は目の前の少女に問いかけた。
「何者、ということでしたら、今は湊様に仕える者。少なくとも、敵ではありません……そのようにしか、申し上げられません」
「ごめんなさい。あなたを疑っているわけではないの。でも、気になっているのは……どうして、主である湊の所では無く、ここに?」
灰奈は、既に警戒心を解き、純粋な疑問としてもう一度問いかけた。
「元々の予定ではありませんでしたが、それでも私がこちらに馳せ参じた理由は二つ。一つ目は、想定外である不穏な気配が現れたこと。そして、二つ目は――」
少女は、一瞬だけためらう様子を見せたが、一呼吸を置いて続ける。
「湊様のお力になって頂きたいと、お願いに参りました」
「どうして、自分で行かないの? さっき見たあなたの力なら、十分の筈よ」
「能力の問題ではありません。私では、意味が無いのです」
「意味……?」
含みを持たせた言い方に、灰奈は真意が読み取りきれずにいた。
「この戦いの中で、恐らく湊様は、どうあっても向き合わなければならない事に直面します」
「それは、あの巨大な怪禍のこと?」
「いえ、確かにそれもありますが……もっと大切な――」
「自分と向き合う、ってヤツだなきっとそりゃあ」
二人の会話に急に割り込んだのは、しばらく黙っていた浩介であった。
「自分のしたいこととか、なりたい自分ってさ、案外分からないモノだし、勝手に決めつけられるモノでもない。多分、俺もそうだった……でも、誰かが側に居てそれを教えてくれる。曲げられない自分の芯を支えてくれる。それが、嬉しいんだ」
「うん。そうだよね。ウチにも分かる気がする……この子は、きっと湊くんの事をよく知ってて。だからこそ、言えないことがある。本当は、いつだって助けてあげたいのに、余計な気を回しちゃって何も出来なくなっちゃうの」
いつになく真剣に語る二人のその言葉に、灰奈は黙って耳を傾ける。
「あぁ、そうだな。アイツは、学校の屋上でサボってる時、退屈そうにどこか遠くを見てる気がしてた……でも、それが何かは分からないから、ずっと聞けずにいた。でも、ようやく分かった気がする。湊は――灰奈ちゃんと同じように、誰かの為に戦おうとしてたんだな……」
「だから、灰奈ちゃん。ウチらからもお願いする! 湊くんの所に行ってあげて!」
そう言いながら、聡子は灰奈の手を強く握りしめた。あれほど怖い目に会い、更に無理をさせて心身共に疲弊しているはずなのに、それでも友人を心配する優しさが残っている。見誤っていた二人のその強さと熱意に、心が突き動かされた。
「分かったわ。あのバカ湊が、無理をしないように見張っておく。でも、その前に――」
「えぇ、お二方のことはご心配なさらず。私が、自宅までお送りいたしますので」
「お願いね……それじゃあ、行ってくる!」
それだけを言い残し、灰奈は再び山頂への階段を駆け上がり始めた。
「湊様は……本当に良いご友人に恵まれました。お二方には、改めてお礼申し上げます」
この場に残った二人に、少女は深く頭を下げた。
「へへっ。照れるなー、まったく!」
「別に、威張れるようなことじゃないでしょ、浩介!」
「まぁまぁ……それよりも、ごめん。もう、ホントに限界が――」
「うん。ウチも……灰奈ちゃん、あとは――」
「ご安心を。今は、ゆっくりとお休みください」
最後の強がりにも限界が訪れ、やがて二人が意識を手放すように体の力が抜けて、倒れ込みそうになるのを少女は優しく抱えた。
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