第4話
緑が囲む庭園で2人の体を夜風が冷たく吹いた。
葉っぱや木々がアシルとオフィーリアを隠していたので、その雑木林は騎士たちの死角となっていたが声をあげればすぐさま駆け付けてくれるという主人と従者の信頼、一筋縄では断ち切れない絆の様子が伺える。
騎士を呼ばないオフィーリアに意外と肝が据わってるなとアシルは感心する。こういう時、婚約者に関わらず声を出す状況だと思うが彼女は挨拶を交わしあってから妙に落ち着いていた。並大抵のことでは驚かないと、はたまた、本心を隠すための強気を装っているのかどちらかだということがアシルにはわかった。が、意地悪くその核心を突いても嫌悪されるだけなので口をつぐんだ。
「…見事な庭園だ」
「でしょう。ここは私の憩いの場です」
愛おしそうに垣根の葉を指先で撫で、オフィーリアは若葉に向かって微笑んだ。
「庭師と私が一緒に考えて、この庭園を一から造りました」
だからこの国から離れるのは辛く寂しいと言うのを、ぐっと喉の奥に押し込みアシルの横を通り過ぎた。
いくら王女でもこの婚約を取りやめることは無理に等しい。それをオフィーリアはアシルと出会ってわかった。迷いのない瞳で見つめてくる彼から逃れることはできないのだと。
鷹のような獲物を捕らえて離さない目に後退りし、リリアが言ってくれた言葉を思い出した。
“…いやと思うならやめてもいいとおっしゃっておりました”
あの言葉はリリアなりの優しさだった。国王である人がそんなことを言うわけはない。国でも決めたことなのに一国の王の発言で前言撤回などということはしないだろう。もし、あるとするならばフェルズ帝国の方からこの婚約を取り下げるようにと申し出をしてくるはずだ。もう一つの可能性とすれば、王太子アシルが自らこの婚約をなかったことにするかだった。どちらも、可能性は極めて低い。もともと求婚をしてきたのはあちら側からであったし、あちらには断りの理由などないに等しい。
はじめて会った王太子アシルは想像よりもずっと知的で、物静かであった。
オフィーリアは振り返り、自分より背の高いアシルを見た。自分の気持ちだけでは目の前の男の気持ちを変えられることはできないだろうと最初からわかっていた。反論したい気持ちを押さえつけて、オフィーリアは再び王太子アシルと対面する。
「ひとつお願いがございます」
覚悟を決めてオフィーリアは口から体の中にたまっていた息を吐いた。
あぁ、本当にこの国とお別れするのだと思うとなんだか悔しく、やるせなさが胸の中に広がってくる。水の中に一人でもぐりこんだ時のようで、吐いたはずの空気が口につまり、呼吸を阻んでくるようだった。
「なんでしょう」
穏やかな目をして、見下げるアシルは優しげであった。目に入れても痛くないという風にオフィーリアを見つめ、にこやかに笑う。その笑顔を見ていられなくてオフィーリアはぱっと顔を逸らした。その笑みは政略結婚だとわかっての笑顔なのだろうか? 理解に苦しむその表情に、苛立ちが沸き上がってきた。けれど、もう、覚悟を決めたのだったと思い出しオフィーリアは心の炎にバケツ一杯ぐらいの水をかけてそれを鎮火させる。水浸しになった炭火の残骸に続くように煙が海藻のように揺れながら揺蕩ってくる。それを悲しげに見つめ、そっと背を向けた。その炭火を再び着火することは絶対にしないだろう。
もうすぐ、この国はオフィーリアの思い出になるのだ。
「フェルズへ連れて行く者たちを決めかねております。10名ほどと決まりはございますが、15名に増やして頂くことはできませんか?」
「あぁ、そのぐらいなら容易い御用だ。すぐ伝書鳩を飛ばそう」
要望が通り、オフィーリアはホッと胸を撫で下ろした。端から断られはしないと思っていたが相手が相手なので提案するのは緊張したのだった。
「新しい土地での生活になるから、信用できる使用人は多い方がいい」
「はい、お許しいただき感謝いたします」
「オフィーリア」
初めて名前を呼ばれオフィーリアは何だろうと顔を上げた。
じっとアシルを見つめていると、彼の瞳の色が黒一色ではないことに気づく。黒だと思っていたその色は紺よりも深く黒に見間違えるほどの暗い藍色をしていた勝色の瞳。
「あなたがこの婚約を好ましいと思っていないことは承知している」
「……っ」
なら、断ってくださいと喉からこぼれそうになって、ぐっと唇をオフィーリアは嚙み締めた。
「けれど、俺はあなたの心も身も全て欲しい。だからオフィーリア、あなたにはこの婚約が強引だと思っていると思うが…それは間違いない。それは俺がそう仕向けたから」
少し悲しそうに俯くアシルに、同情してしまった。
どうしてそこまで想ってくれるのだろうか。
ざわざわと木々もオフィーリアの心に合わせるように、さんざめく。まるでそれは木々たちが相談をしているようにも聞こえた。
「…悲しみや怒り、葛藤はあると思うからどんな時だってぶつけてくれていい、あなたの気が済むまでそうしてくれて構わない」
「…どうして、そこまで私のことを?」
「それは俺の気持ちがわかったら、わかるはずだ…」
そっとアシルは小さい彼女に近づいて、手を取った。手の甲に口付けてオフィーリアを見る。
「どうしても、知りたいっていうなら伝えよう。オフィーリア、初めて社交界に出てきた宴を覚えている?」
「え、えぇ…」
ドギマギしながらオフィーリアは答える。アシルの手はまだオフィーリアの手を握ったままだ。
「確かお父様とだけ踊り、それを皆様に披露しました」
「そうだね、その時に俺はあなたを見ていて、一瞬で恋に落ちた」
手をゆっくりと離し、アシルはまた一歩オフィーリアへ近づく。徐々に木々の間に追い詰められていることをまだオフィーリアは理解していない。背中に木の幹がついた時にはもう、後退りすることができなくなっていて、ただ見上げるしかなかった。目の前の男を。隙を見て身を捩るが、逃げさせてはくれなかった。
「あなたは聞いたね、どんな気持ちになるのかと」
「……は、い…」
首筋に息がかかるくらい近い距離で喋っているアシルに心臓が高鳴っていた。じんわりと汗をかいてくるような暑さを感じ、オフィーリアは少し潤んだ瞳でアシルを見上げた。
「目を閉じて」
「………っ、!」
言われるがまま目を瞑ると、額に口づけをひとつ落とされた。
「これが俺の思いだよ、わかった?」
額を抑えてオフィーリアは顔を真っ赤にさせていた。頬が熱っぽく感じるのは、アシルのせいということはわかった。違うところに口付けられると思っていたので、一気に恥ずかしさが込み上げてくる。
その問いに頷くと、アシルは少しだけ離れてくれた。
「冷え込んできたから戻ろう、」
ざあっと風が吹き、木々が揺らめく。
「…はい…」
火照った熱い体を冷やしてくれるかのように風がまた吹き、酸素が足りないオフィーリアは口をパクパクして頬に手を当てていた。それを横目に、アシルは笑った。
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