第2話

 アシル・エルヴェシウス王太子が到着したと伝えられたのはちょうど、午後のお菓子を頬張っている時だった。オフィーリアは茶菓子をぐっと飲みこんで、咳込みそうになるのをすっかり冷めてしまった紅茶で流し込んだ。

「もう着いた?」

「はい、ご用意したお部屋にてお休みになられております。

国王陛下から正式なご挨拶は明日行うので、オフィーリア様も今日はゆっくり休むようにと申し出がございました」

 いそいそとやってきたのはもう一人の侍女、ハンナだった。

 まさか、こんな早く着くとは。夕方ごろに着くのではないかと言われていたが、予定より早く馬が走ってくれたらしい。そんなに急がなくてもよかったのにとオフィーリアは思う。

「フェルズ帝国の馬は足が早いのね」

「体力がすごくあるみたいでございますね」

ハンナは飲み終えたカップを下げながら言った。手が早い彼女はティーカップを片付けて、部屋から去っていく途中だった。

「ハンナ。オフィーリア様のご衣裳を決めるから、それが終わったらすぐこちらへ来なさい」

「かしこまりました。すぐに参ります」

 さっと頭を下げて扉を閉めて出て行った。

 オフィーリアはリリアと共に衣装部屋へ移動し、大きな鏡の前で腰かけようとすると座る位置へ椅子が置かれる。抜かりないその動作にオフィーリアは黙ったまま、鏡に映った青白い顔の自分を見つめていた。

「顔色が優れないですが、衣装決めは明日の朝になさいますか?」

「…いいえ、今決めるわ。今決めないと明日に間に合わなくなる」

 こめかみを押さえながら、ぐわんぐわんと頭の中に鳴り響いている痛みになんとか耐える。オフィーリアのこの不調はいつからだったか覚えていないぐらい日常的なものとなっていた。

 今日到着したアシル王太子の顔は知っていた。あらかじめフェルズ帝国から送られてきた肖像画を父が見せびらかしたためであった。それぐらい、オフィーリアの父はフェルズ帝国とウェルヴァイン王国が婚姻関係を結ぶことを喜んでいた。

 そんなはしゃぐ父の姿を見て、オフィーリアは酷く心を痛めた。まったくと言っていいほど結婚相手に興味なんかなく、できれば婚約を解消してほしいと願っていた。それを言えないまま、今に至るのだ。喜ぶことなんて到底できない。

 フェルズ帝国のアシル王太子と婚約が決まったのは、一年前の冬だった。ウェルヴァインの冬はとても寒く、極寒の地と呼ばれるほどの寒地だ。雪が降り積もる中、一人の使者が門をくぐり悪い知らせを運んできたのだった。その出来事を思い出しオフィーリアは眉を寄せた。

「姫様、ご用意いたしました。さあどれになさいましょう?」

 ティーカップを片付け終えたハンナがそばにいて驚く。

 クローゼットにはこれでもかというぐらいドレスが詰まっていて、光り輝いていた。その中へオフィーリアは入っていき、長いフリルの袖を触ったり、宝石がちりばめられたドレスを体に当てたりしたがピンと来るものはなかったようで一周して、また椅子へ座った。

「お選びになりましたか? もしお決まりにならないのなら私がお選びいたします」

「ハンナ…」

 ひょっこりとオフィーリアの脇から顔を出したハンナはずけずけと物を言う。それをリリアは注意することなく黙ったまま見守っていた。

「そうね、任せるわ」

「ありがとうございます! 姫様は何をお召しになってもお似合いになられますし…ですが明日はアシル王太子殿下との顔合わせも兼ねていますし、派手なものは避けましょうか」

 意気揚々と輝いているハンナを横目に、大きなため息をつく。

 オフィーリアは緊張しているのだ。無理もない、望まぬ相手がウェルヴァインに着き明日という日を待ちに待っているのだ。

「お茶でもお持ちしましょうか、姫様」

 見かねたリリアが声をかけるが、飲み物も喉を通らない気がしてオフィーリアは首を振って断った。

「いらないわ、大丈夫」

「何か必要なものがございましたら何なりとお申し付けください」

「えぇ…」

 暴走してしまいたいのをぐっとこらえ、ドレスを決め始めたハンナの声にまた大きく息を吐いた。

 変えられない、逃げられない。だけど明日はすぐやって来る。オフィーリアの影に忍び寄り、音を立てて包み込むのだ。

”…本当に嫌ならやめていいとおっしゃっていましたが”

 一瞬、リリアの言葉を思い出したけれどすぐ首を振りその考えを消し去った。喜んでいる父に対し、やめるなんて言葉を言えるはずもない。本当に心から喜んでいるとわかるからこそ婚約をなかったことになんて出来るはずもなく。ただ、時間だけがひたすら過ぎた。

 オフィーリアはもう、悩むに悩んだのだ。悩んだ末の結果が今だった。そう自分で決めたからこそ、つらい部分もあったし、やるせなさや、使用人たちが笑顔になっているのが苦しかった。

 これは政略結婚だからと承諾し涙を呑んで受け入れた。

 そんなはずなのに、どうして涙がこぼれてくるのだろうか。ぽたりと、拳の上に落ちてきた雫を一瞥して歯を食いしばった。

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