スタール、英雄叙任式に参加する(2)

『ねえ、私の愛しいスタール。私がいなくなっても、あなたは強く生きるのよ。あなたのお父様は、最期までとても勇敢な冒険者だった。

 信じられないかもしれないけれど、こう見えても私とお父様は、遠い遠い国からやってきたのよ』



 ふと頭の中に去来したのは、薄っすらと残る昔の記憶。



『永久の雪の国は、夜の星空がとても綺麗だった。吐く息が白く立ち上っていく中、お父様と一緒に、十年に一度の流星群を眺めたの。

 海賊の船にも乗ったの。亜麻布ラーンジュの旗をお父様と一緒に掲げて、ぼーっと夕日が沈むのを待つ日もあれば、嵐に遭遇して濡れねずみのようになった日もあったの。

 湿った森の中を歩く日もあったの。焚き火を頼りに暖を取って、真っ白な鹿と、ほのかに光る虫に誘われて歩いたわ。

 陽気な音楽の街にも訪れたわ。街の人が皆踊っていて、名前もわからない芸術作品があちこちに転がっていて、大道芸人の聖地のような不思議な街だったわ。

 百の塔がそびえ立つ錬金術の街にも行ったの。図書館と薬と魔道具の街で、いろんな学生たちが和気あいあいとしていたの。

 とてもとても、楽しかったわ』



 母の語る冒険譚は、今でもスタールの心のどこかに残っている。



『スタール。心して聞きなさい。

 私の国には古い習わしがあります。器用な子どもが生まれたら、鋼鉄スタールの名前をつけること。織り染めデクスタール幸運な人デクスタール、あなたの名前には色んな意味があります。けれど、私は、あなたに幸運な子であってほしいと思ってます』



 震える母の手が、少しだけ力がこもっていて強かったことを覚えている。理由までは分からなかったが、今なら少し分かる気がする。

 記憶の中では、心なしか子守唄の声も震えていた。



『誰かの願いが叶うころ 誰かの心臓になれたなら

 少しずつ命が色褪せる前に ゆりかごでそっと歌いましょう

 誰かが眠りに落ちるころ 誰かの思い出になれたなら

 少しずつ寂しさを感じる前に ゆりかごでそっと歌いましょう』



 家にはゆりかごなんてなかったけれど、母がそっと歌っていたことだけは、覚えている。





















「我が膂力の名にかけて。望むは一つ、最強の戦士なること。誓うは一つ、不敗なること」



 凛とした少女が剣を握り――そして絶叫する。

 尋常ではない光景である。



 近くにいた近衛兵たち、頑強の英雄ヴェイユ、俊敏の英雄エスラが力を合わせて引き剥がしにかかり、魔術の英雄ミテナが解呪の魔術を唱えてなお、少女は手を離さずに吠えた。



「――ああああああああああっ! ふざけんな! ふざけんな! 俺は諦めねぇ! 俺は! 俺はまだっ!」



「――さぬかッ! 我が娘ェッ!」



 突如現れた、小さな単眼の精霊が強引に少女を引き剥がしにかかる。

 恐ろしいことに、膂力の英雄とその単眼の精霊の力は拮抗していた。

 恐らくは、あの単眼が少女の契約精霊なのであろう。だがあの少女は、執念で契約精霊と互角に渡り合っている。



「よく聞けェッ! この選定の剣は、冗談抜きで人を殺すのだッ! ワシの見立てじゃ、お前にゃあちと荷が重いわッ! 潔く諦めんかッ!」



「うるせえ!! 俺はっ、俺はっ、俺はっ……!」



「――ふんッ!」



 単眼の精霊の腕が恐ろしいほどに巨大化した。

 と同時にビルキッタの体躯が空を飛び、大聖堂の天井にぶつかり、ひしゃげるかのように地面へと転落する。

 彼女は、黒い煙を吐きながら、荒々しい呼吸をしていた。

 痛みで痙攣しているかのように不規則な呼吸であった。



(何て選定だ! 人が平気で死ぬなんて、僕は知らないぞ!)



「大丈夫だよ、スタール。あれはあの子が手を離さなかったからだよ。命の危機を感じたらすぐに手を離していいんだよ。それにほら、大聖堂の外には治療神官たちが控えているから、ね」



(それにしたって、これは、ひどすぎる)



 スタールが慄いている間、次の絶叫が聞こえてきた。

 聞き覚えがある。

 これは、昨日あれだけお世話になった少女――頑強の英雄ヴェイユの声である。



「うああああああ……っ! あ、ぐっ、私はっ、まだ、いけるっ……!」



「我が姫! もう、時間だ! 我輩との約束を守れ!」



 肉の焼けるような酸っぱい匂いが漂ってきた。

 もう我慢ならない、と龍が荒々しく尻尾を打ち付けて、頑強の英雄の腕をへし折った。



「うぐっ、あ、がっ……!!」



「言っておくが、我輩の尻尾で折れたのではないぞ! 既に呪いで随分と弱っておったのだ! 我が姫よ、それほどまでにお前はぼろぼろに傷付いておったのだぞ!」



 古龍が、雷鳴のごとき怒号を発した。

 打ちひしがれたようにさめざめと泣く少女の姿が、スタールにはあまりにも痛ましく見えた。



(……嘘だろ)



 それでも今度は、俊敏の英雄が剣を取ろうとする。魔術の英雄も負けじと剣を取ろうとする。

 あんな光景を見てなお、呪いが我が身に降りかかると知ってなお、まだ選定の剣に挑戦するのだ。



 絶叫が続く。スタールはしばらく呆けてしまった。



(……僕は、英雄になりたいのか?)



 果たして本当に、こんな思いをしてまで、英雄になりたいのだろうか。

 願いは何なのか。

 誓いは何なのか。

 そんな大したもの、スタールの内側にはない。



 ただ漫然と英雄に憧れていただけ。

 自分の体にある英雄の紋様に舞い上がっていただけ。

 母の語る冒険譚に魅せられていただけ。



 悲壮な覚悟がそこにあったわけではない。



「スタール……? もしかして、諦める……?」



 そばで機械仕掛けの妖精が心配そうな声を上げた。

 気遣わしげな瞳と目があった。スタールは思わず目をそらして俯いた。



 相変わらず絶叫は続いている。

 頑強の英雄が再び無謀にも剣に触ろうとしていた。

 俊敏の英雄は二度どころか、何度も立ち向かっているようだった。

 魔術の英雄も、泣きながら剣へと手を伸ばしている。

 倒れている膂力の英雄でさえも、大聖堂の床を爪で何度も引っ掻いて、悔しさを隠そうともしなかった。



 器用の英雄のスタールだけが、この非現実感あふれる光景に取り残されて、動き出せずにいた。



(……死ぬんだぞ、最悪。そんなこと、やりたいのか?)



 否、動き出せていないわけではなかった。

 ゆっくりと、亡霊のような歩き方で、自問自答を繰り返しながら、剣のそばに向かっていた。



 周りの声が聞こえないほどに集中をして。

 色んなことを思い出しながら自分の感情を整理して。



「ククリ、僕は、英雄になりたいのかな」



「え?」



「僕は、君に凄いと言ってもらって嬉しかった。君は既に英雄なんだって言ってもらえて救われた気持ちになった。

 けど、本当のことを言うと、人生で一番勇敢だったのは昔々の小さな子供の頃だけでさ、死にかけた経験がある今はちょっと怖い」



 スタールが黙々と考えているのは、他の英雄たちの願いと誓いの言葉である。

 最強の戦士でありたい。そのために不敗を誓う。

 最高の騎士でありたい。そのために不屈を誓う。

 最速の忍びでありたい。そのために不撓を誓う。

 最上の術者でありたい。そのために不滅を誓う。



 いずれもスタールからすれば、とても立派なものだった。



「何であんなに皆、辛いのに剣に手を伸ばすんだ? おかしいと思わないか? そんなに、選定の剣に選ばれたいのか?」



「……スタール」



「別にさ、選定の剣に選ばれなくても英雄は英雄だろう? それに、選定の剣に選ばれたところで、願いが叶うわけでもないし、誓約を果たす義務もないんだろ?」



「……そう、だね。そうだよ、スタール。すべての儀式がそうなんだ。この世のすべての儀式は、身も蓋もないことを言ったら、それだけのことだよ。選ばれなくてもいいと思えば意味がなくなっちゃうの」



 万が一、剣の呪いが強かったら死ぬかもしれない――そんな恐怖が、スタールの心臓の鼓動を早くした。

 未だにわからないことがある。



「教えてくれ。どうしてククリは僕に、英雄になってほしいんだ?」



「それは……君が本当に凄いってことを知ってるから。そして、君が心のどこかで英雄になりたいと願っているって知っているからだよ」



「……」



「ほんの少しでも英雄になりたいって思ってるなら、その気持ちを嘘ってことにしないで、スタール。今のうちは、胸が少しちくっと痛むかもしれないけど、自分に嘘を吐き続けたら、いつか本当に痛みを感じなくなっちゃうよ」



「……この剣を抜く意味は?」



「意味は、スタールの中に見つけるものだよ。けどボクは、君なら絶対抜けるって確信してる。ボクの星座読みでも確かめたんだ。

 小さい頃にお姫様を助けるために振り絞った勇気も、片腕と片足が上手く使えなくなってからずっと頑張ってきた努力も、どっちもボクは知ってるから、君なら絶対抜けるって思っている」



「……他の英雄たちが、どうしてもこの剣を抜きたいと思っている理由は?」



「それもボクには分からない。きっと、彼らは剣が抜きたいんじゃなくて、彼らなりに英雄であろうと必死なんだよ。命をかけるぐらいに」



「……この剣を諦めたって、英雄であることにかわりはないのに。今ここで命をかける意味なんてない。そうだろ?」



「最強の戦士、最高の騎士、最速の忍び、最大の術者、ボクには上手くわからないけど、きっとここで諦めたら、それらにはなれないってことなんじゃないかな」



「……」



 スタールは押し黙った。

 他の四人の英雄たちは、まるっきりどこを取ってもスタールよりも素晴らしかった。

 英雄になりたい、とほんのり昔に憧れていた彼は、今となってはそんな情熱を胸には抱いていない。

 この四人は違う。今でも強く、英雄になりたいと思っているのだ。これほどに過酷な思いをして、歯を食いしばって、涙を流しながら、それでも英雄になりたいと思っているのだ。



 あまりにも真っ直ぐでひたむきな姿勢。

 英雄にならなくてもいいさ、と斜めに構えていたスタールにとって、羨ましいほどの決意。

 不貞腐れていた自分が馬鹿みたいである。



「……馬鹿みたいだな。僕。ずっと自分ひとりだけが辛い目に遭っている気持ちになってた気がする。

 僕だけがよくわからない加護を押し付けられて、僕だけが膂力や頑強や俊敏や魔術の加護を生まれつき受けることができないままで、僕だけが身体に支障を抱えたままで、僕だけ、英雄の加護を持っているのに、英雄になんかなれっこないって思っていて……」



 他の四人の英雄だって、怖い思いや辛い思いをしていないはずがない。

 それなのに、自分ひとりだけが、世界で一番不幸な顔をして不貞腐れていたのだ。



 英雄になりたい。

 今はもうそんなこと思ってないよ、そんな叶わない夢を見るような子供じゃないんだ――などと自分に嘘までついていた。



 あれだけ冒険に憧れていたのに。



「……やっぱり、剣を抜く意味はわからないや。でもククリ、僕さ、今ちょっとだけ、剣を抜きたいと思ってる」



「分からないのに抜きたい?」



「……試したいんだ。何となく。昔、死ぬほど悔しくて泣きじゃくってたときの残りかすが、まだ残ってる気がする。あの頃の自分のために、試してあげたい」



「……んふふふ、スタールらしいね。不器用なひねくれ者って感じ」



「うるせえな、言ってろよ。僕は痛いのも、死にそうになるのもごめんなんだ。平和に暮らしたいんだよ。普通に歩けて普通に動ける生活がよかったのにな、ってまだずっと後悔してるんだ」



 それでも。

 あの時、ワイバーンに立ち向かったことを、凄いって言ってもらえたのが、とても嬉しかったから。

 あの頃の自分だったら、きっと立ち向かっていたはずだから。



「……それにさ、何だかちょっと、かちんときたっていうか。自分のことを不幸だと思っていたことも、自分には無理なんじゃないかって決めつけていたことも、段々嫌になってきた。

 しかも、この四人が本気で英雄になりたいってのがひしひしと伝わってきて、いや僕も負けてないけど、みたいな気持ちがちょっとだけ湧いてきた」



「ふふふ、ひねくれ者って感じだね。でもボクそういうの大好きだよ?」



「こんなに本気で英雄になりたい子たちを痛めつけて、選定するって、馬鹿にしてるよな。こんなクソみたいな剣一瞬で抜いてやる」



 この痛めつけられている姿が、かつて英雄になりたいと純粋に思っていた自分に重なって、怒りが少しだけ湧いてくる。

 選ぶって何様だ、選定するってどの立場だ、と言葉が自分の中で渦を巻いた。

 痛みや負傷で何かを諦めさせるのがどれほど残酷なのか、スタールはよく知っている。

 どんなに悔しいのか、スタールはよく知っている。

 自分に嘘を吐き続けたら、いつか本当に痛みを感じなくなる――なるほど、これほど腹立たしい・・・・・なんて。



「いいぜ、僕が意地でも引き抜いて台無しにしてやる。このぼろぼろの身体の僕が、無理矢理でも引き抜いて台無しにしてやるよ。僕も本気で英雄になりたいと思ってたところなんだ」



「ちゃんと英雄になってくれる?」



「当たり前だろ、朝飯前だぜ、歩けるようになるまでの練習に比べりゃ、お茶の子さいさいさ」



 剣の柄に手を触れる。

 痺れるような痛みと、焼けるような熱さが皮膚に伝わってきた。

 それでもスタールは、怯むことなく柄を握って言葉を続けた。もっと痛い思いをかつてしてきたことがあるのだから、耐えられないわけではない。



「我が器用の名にかけて。望むは一つ、最後の英雄なること。

 誓うは一つ――最弱でも英雄に意地でもなってやるってこと!」



 そして、台座に刺さっている剣身をがしがしと蹴り飛ばす。

 もはや、殆ど八つ当たりみたいな行為である。

 周囲の近衛兵たちが慌てて止めようとする。

 スタールはそのことに少しだけかちんときて、すぐに理解した。



 ああ、あの四人もこんな気持ちだったのだろうか。



「あ」



 その時スタールはすぐに違和感に気づいてしまった。

 周囲の空気も、徐々にざわめきに変化していった。











「ふ、ははは、貴様は道化か。英雄たちの決意の場であるが故に、余は口を挟まぬ所存だったが、まさかそんなこともあろうとはな」



 獅子王が愉快そうに言葉をこぼした。

 四人の英雄のうめき声もすっかりと消え失せていた。



 近衛兵たちに取り押さえられるような間抜けな格好のスタールは、何が起こったのかの理解に時間がかかって、そのまましばらく静止した。

 選定の剣は、すっぽりと台座から抜けて、スタールの手元にあった。

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