スタール、英雄たちと出会う
夕方に訪れた中央区の大聖堂は、あかね色の日に照らされて幻想的な見た目を呈している。
丹念に表面を磨かれた大理石が、玉虫色に輝いて息を呑むほど美しかった。
「沐浴の形態にも種類があって、聖なる川や泉で身を清めるもの、水がないときに砂や石で体を清めるもの、境内にある手水舎で手や口を清めるもの、それ以外にも煙や火、場合によっては香料や塩や油で体を清めるものがあるんだ」
「温かい湯に入浴するのがいいな」
「そうだね。馬術の練習で疲れたから、温かい湯でゆっくり身体の疲れを癒やしたいよね」
ククリ曰く、教会での儀式を通じて神の恩寵が媒介されるとするのは、儀礼主義的な考え方らしい。
今回の沐浴が正式な儀礼に則ったものの場合、温かい湯で迎え入れてくれるかは怪しいという。
王国の国教である白の教会にも色んな学派や考え方があるらしいが、なるべくそこは寛容な考え方であってほしい、とスタールは思った。
「基本的に、バプテストリーは礼拝堂の中にあるんだ。誰かとかちあわないうちにさっさと入っちゃおうよ」
「そうだな」
ククリの言うとおり、明日の英雄叙任式に参加する人で沐浴をする人が他にもいるかもしれない。かちあわないうちにさっさと沐浴を済ませるのが正しいと思われた。
「変態!! 変態!! 変態!! 変態!!」
「どうしてこうなった……」
かち合った。
しかも最悪なことに、向こうは素っ裸の女性である。
沐浴着のサロンやパレオも身につけていないので、うがった目で見ればスタールが襲ったようにも見えなくもない。
突拍子もない出来事に、スタールは頭を抱えたくなった。
「乙女の柔肌を見るなんて、何て不埒なことかしら! この変態! 流石のこのアタシも、こんな狼藉には怒りましてよ! 去勢して差し上げますわ!」
「やめろ」
去勢は絶対に嫌である。こんな事故で失いたくはない。
本当にどうしてこんなことになったんだ、とスタールは渋い気持ちになった。
遡ること少々。
翌日の準備のため、スタールは沐浴をするバプテストリーへと向かっていた。
バプテストリーは礼拝堂の奥の祭壇の、更に奥にある。
普段は宗教シンボルを飾ったカーテンで仕切られており、バプテストリーを直接見ることはできないのだが、今日はそのカーテンが取り払われていて、祭壇越しに湯気が立ち上っているのが見えた。
湯気、ということは湯が用意されているということである。
このことに歓喜したスタールは、いそいそと洗礼用の服に着替えて、祭壇の奥を覗き込んだ。
「あ、待ってスタール! そこには――」
残念ながら、ククリの制止は間に合わなかった。
全裸の女がそこにいた。
しかも大口を開けて、爆睡していた。
バプテストリーの階段を腰掛け代わりにして、両腕両足をぐだっと広げて、いかにも豪胆な眠り方である。
「え」
動揺したスタールは服やら荷物やらを取り落としてしまった。
がらん、と腰巻きの金具が床を打ったとき、その女は「んごっ……?」とか何とか言って目覚めた。
そして――程なくして、悲鳴が爆発したのである。
「誰に許可を取ったでもなく、このアタシの裸を見るなんて言語道断ですわ! 華麗に成敗して差し上げますわ!」
「いや、全裸であんなに爆睡してるほうが悪いんじゃ」
「お黙り! 英雄として選ばれし高貴なる者の生活には、人間関係からくる並々ならぬストレスと疲労がありましてよ! そこにつけ込むなんて、ひどい殿方ですのね!」
「え、ちょっと待って、英雄?」
「ええ、ご存知なくて? こう見えてもアタシ、大陸に名を轟かせるかの魔術の英雄、ミテナ・イロコイ・ダケル・ワカンタンカですのよ。
煙を吸う、貴族かぶれの田舎娘。
魔術の英雄、ミテナ。
予期せぬ形で、非常に気まずい遭遇となった。
「……ごめん、実はくたくたに疲れちゃったから、お湯に浸かりたくてさ、それでバプテストリーから湯気が出てたから、つい気がはやってしまったんだ」
「! まあ、そうでしたの。やりますわね。それなら感謝して欲しくてよ。元々ただの水だったのを魔術で温めたのは、このアタシですもの!」
「? えっと……ありがとう?」
「ふふん、よろしくてよ」
ミトラが得意気に胸を張った。
ふとスタールは何だか噛み合わないものを感じた。
さっきまであれほど怒っていたのに、なんだか話題の矛先が変わっているようにも見える。
ならば、今のうちにお暇したほうが良さげである。
「じゃあ、外で待っているからごゆっくり……」
「あ、ちょ、お待ち遊ばせ!」
「え?」
まさか呼び止められるとは思ってなかったスタールは、声が裏返ってしまった。
やっぱり去勢されるのでは、と恐る恐る様子をうかがうと、どうやらそうではないらしかった。
「その、た、タオルを」
「え?」
「……よろしければ、タオルを恵んでくださいまし? 実は体を拭くタオルがなくて、ずっとここから出れなくて困ってましてよ」
「……」
「薬草の香気を含んだ蒸気によって身を包み、汗をかくこと。アタシたちには、あらゆる決めごとや儀式の前にそうやって身を清める習わしがありますの」
「はあ」
背中の祭壇越しに、体を拭いている音が聞こえる。続いて服を身に纏う衣擦れの音。
話になるべく集中しようとしても音が耳に入ってくるので、スタールは何だか居心地が悪かった。
「真っ赤に焼けた石を炉の中において、その石の上にセージなどの薬草の葉を振りかけて、発生した薬草の煙を身体に擦り込みますの。しばらくすると、呪術師が石に水をかけて蒸気を発生させて、祈りの歌を歌い、人々は薬草の蒸気を身体に擦り込みますの」
「……」
「ある時は、新生児や妊婦の安静、回復を祈って。ある時は、部族の平和を祈って。ある時は、祖父母の霊や大精霊の安寧を祈って。……古い習わしですわ」
「……なるほど」
「ちゃんと汗をかかないと身体は清められませんもの。白の教会のバプテストリーの手順に従わずに、己の欲するところに従う心意気は、中々見どころありましてよ」
(そんなつもりじゃなかったんだけど)
たたん、と軽快な足音が聴こえた。
振り向けば、そこにはちゃんと服を纏ったミトラが、不遜にも祭壇の上に立っていた。
ひだの多い不思議な模様のスカート、肩から羽織った不思議な模様のショール、そして羽の付いたボーラーハット。
何処かの物語の田舎少女みたいだ、とスタールが見とれていたのも束の間のこと。
気付けば、ひょい、と祭壇の上からジャンプしてスタールを飛び越して、
「グラシアス・ポ・ナーダ、チコ・トラヴィエッソ!」(どうもありがと、いたずらっ子くん!)
ウインクと同時にあかんべえ、と舌を出されて、そのまま彼女は駆け出して行ってしまった。
タオルに免じて許して差し上げますわ、と遠くから声が聞こえてくる。
何とも元気な少女だな、とスタールは思った。
薬草の香りの強い湯気が揺れて、スタールはようやく、自分が沐浴に来たことを思い出したのだった。
礼拝堂での沐浴が終わった後、スタールは中央区大聖堂の居住施設へと足を運んだ。
本当ならば、明日の英雄叙任式のために、夜は祈りを捧げないといけないのだが、どうしてもというときはこの居住施設で仮眠を取ってもいいことになっている。
(今から祈りを捧げても、誰かが沐浴をしに来るかもしれないしな。それなら、少しばかり仮眠を取って、深夜になるまで待ったほうがいいだろう)
身体もちょうど疲れていた頃である。
仮眠室で一眠りしようか――と、奥の方に足を運んだところで、スタールは大きな音に気がついた。
(……いびき?)
それもとんでもなく豪快ないびきである。
(……寝言?)
うるせぇ、殺す、と物騒な寝言が聞こえてくる。
(……暴れる音?)
ずん、ずん、と何かを蹴る音ような、どうにもやかましい音が聞こえてくる。
「……なあ、ククリ。これってもしかして」
「うん。多分、他の英雄だと思うよ。……ボクの勘が正しければ、きっと膂力の英雄あたりじゃないかな」
「……うわぁ」
最悪だ、とスタールは思った。
悲しいことに、仮眠室は大きな部屋が一つだけである。
こんなのと一緒に寝ては、命がいくつあっても足りない。
しばらく仮眠をとるのは諦めたほうが良さげであった。
「……」
「……うわっ!?」
回れ右してどこかで横になれる場所を探そう、と考えたところで、スタールは何かと目があった。
天井から逆さまにぶら下がる何か。
影のような黒い姿。
黒い瞳と黒装束。
「……」
「……」
見なかったことにしよう、と決め込んでスタールはその場を立ち去った。無言の逃避。
何となく、背中から痛いほどの視線を浴びているのを感じる。
だがどうにも、声をかけたりするのは憚られた。ろくな事にならない予感しかしない。
「……どうせ英雄に違いない。見るからに変な奴だものな。だろ、ククリ?」
「うん」
「!?」
答えたのはククリではなく、先ほどの黒い影であった。
スタールは心臓が飛び出るんじゃないかと言うほど驚いた。
音もしなければ気配もなかった。何よりも身のこなしが速すぎる。
「英雄。エスラ」
「こ、これはどうも、あの」
「変な奴ではない」
声から察するに少女だろうか。ぴったりと横にくっついて歩いているのが、スタールには何とも不気味であった。
この少女からは、音が一切しない。
その事に気付くまでは特に気にならなかったが、一度気になりだすと不気味さが一層深まる。
「貴方は?」
「え、僕は、えっと、その」
「……?」
「……器用の英雄、らしい」
「そう」
何を考えているのか読めない声色であった。平坦なのか、淡白なのか。いずれにせよスタールの警戒心は強くなる一方である。
「弱そう」
「……は?」
「じゃあ」
「おい、ちょ、待て」
ふわり、と風を残して影が立ち去っていく。
冗談みたいな速さの身のこなしであった。この足では走れないが、万が一走れたとしても、スタールにはあの影に追いつける自信がなかった。
「……あれは俊敏の英雄だね」
「言わなくても分かるさ。あれは、あの速さは間違いなく加護だろうな」
耳打ちをするククリに、スタールは呆気にとられた声で返した。
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