第二章:職人の神様

スタール、典礼書を作る

 いくらか足元が頼りないものの、杖を付けば歩ける程度になったスタールは、修道院病棟から退院することになった。



(……おかげさまで何とか日常生活に支障をきたさない程度に身体を動かせるようになりました。今まで長らくお世話になりました、本当にありがとうございました)



「? どうしたの、スタール?」



「……今まで長いことお世話になったから、一応ね」



 門を出る前に、背後の修道院にもう一度だけ礼をして、スタールはその場を立ち去った。

 修道院には本当にお世話になった。足掛け二年半、何もできないスタールの面倒を見てくれたのである。いくら感謝しても感謝しきれないほどである。



『治療費のことは気にしなくていい、いくらでも待つから落ち着いてから考えるといい』



 と治療神官のエイシェスは言葉にしていた。それどころか、彼女は当座の資金としてスタールのために銀貨を数十枚ほど用意してくれたのである。エイシェス個人のお金らしい。本当に彼女には頭が上がらない。



 問題はこれからの収入源の確保である。数日ぐらいなら糊口をしのげるが、この先のことを考えると住み込みの仕事でももらえないと厳しい。本来なら修道院では社会復帰者向けの職業斡旋も行っているのだが、今は魔物による負傷者続出によってそこまで手が回らないようであった。



「でも、修道院の名義で中央ギルドへの推薦状は書いてもらえたんだよね? 仕事の斡旋はそこから受けてくださいってことだよね? 合ってる、スタール?」



「そうだよ。日雇労働に近いけど、これで何とか生きていけそうだ。本当はちゃんと手に職をつけたいところだけど……」



「大丈夫だよ。ボクが保証する。何と言ってもスタールは器用の加護を持ってるんだもの。どんな仕事だってすぐに要領を掴んで一流になれるさ」



「そうかなあ」



(手元の資金はあくまで支度金。働かなきゃいけないのは分かっているけど、この体でろくな仕事ができるだろうか)



 少し体が動かせるようになったからと言ってこれから先行きが明るいわけではない。ギルドなどで短期の案件をいくつかもらって、しばらく食いつなぐ他なさそうである。



「大丈夫。スタールは英雄になるよ! ボクの羽の星座早見盤アストロラーベを使って星詠みしてみたけど、君は運命にとても愛されているんだ。だから絶対英雄になれる、誰もがびっくりするような人にね!」



「……」



 そうやって明るく励ますククリの言葉を聞いていると、逆に不安になる。何も食べなくても生活できる精霊とは違って、スタールは食べなくては生きていけないのだ。











 第二章:職人の神様











「あー……無茶なこととは分かっているが、この写本作業を一週間で終わらせてほしい。よろしく頼む。一週間後には獅子王アンリ陛下がこの街にやって来られるのだ。何とかして間に合わせなくてはならない」



「はあ、なるほど」



「羊皮紙は八頭分用意してある。典礼本にはちょっと足りないかもしれないが、書き損じをしないように注意して作業すれば十分足りるだろう。木枠から外して綺麗に研磨してくれ。羊皮紙の文字が脂で滲むようだったら、この軽石パミスの粉で脂を吸い取るように」



「……書き損じはあまりできない、ですか」



「羽ペンは好きなやつを使ってくれ。ペン先が割れて使い物にならなくなったらそこにある羽にナイフで切り込みを入れて自作してほしい。軸はちゃんと熱して固めてあるから、切り込みを入れたらもう使えるはずだ」



「……割と太めですね。ちょっと削って調整する必要がありそうです」



「インクが足りなくなったら、この虫こぶを砕いてワインを少々加えて煮込んでくれ。あの小瓶の原液と混ぜ合わせたら黒く変色してちゃんとしたインクになる。間違ってもあの小瓶は目に入れるなよ」



「……錆びた釘が何本も入ってますね。体に悪そうです」



「書き損じしたらあのオレンジの皮で拭くように。それでも取れなかったらナイフで削ぎ落とせ。とはいえ、王家に献上する典礼本だから、なるべく綺麗に作るように」



「……はあ」



「あと、金箔を貼るための接着剤だが、固形のニカワが少ししか残っていない。なくなったら倉庫に書き損じの羊皮紙が山程あるから、それを煮出してニカワを作ってくれ。装丁用に顔料で着色するときにも使えるはずだ。顔料用の小石と背表紙用の金具は机の引き出しにある」



「……え、金箔? 装丁? 背表紙? あの僕が依頼で伺っているのは写本――」



「では、頼んだ!」



「え、ちょ、すみません! あのー! ……え、嘘、出ていった」



 あっさりと頼まれてしまった。

 依頼人、トビマァル・イラッチ氏はとてもせかせかした人らしい。

 あまりのことに、スタールは少しばかり呆けてしまった。



(あの依頼票には写本作業って書かれてたじゃないか! 文字を書き写すだけ、忍耐があれば誰でもできますって。誰でもできる作業で足が不自由でもできるからこの仕事を選んだのに、なのに、これじゃまるで……)



 もはや製本作業である。

 それも、王家に献上する典礼書を一週間で作り上げるという作業。

 どう考えても依頼内容の詐欺である。



「んふふふふ、やったねスタール! 修道院に二年半いたから、普通の修道士だと勘違いしてくれたみたいだね」



「よくないよ」



 確かに見習い修道士の仕事といえば写本である。特に教典は装丁に凝ったものが多いので、顔料の扱いや金箔の貼り方などにも詳しくなる。

 他にも部外秘となる禁書の修繕は外に依頼できないので、修道士が自身の手で行っていた。



「二年半修道院から一歩も外に出なかった人が、修道院からの推薦でやってきて、その上で写本の依頼を受けたんだよ? 見習い修道士って勘違いされても不思議じゃないよ」



「まだ間に合う、事情を説明しよう」



「安心して、ボクがいる。いざとなったら写本も装丁もボクが手伝うからね。クロックワークフェアリーの手先は器用って知ってるでしょ?」



「王家に献上する本だぞ。失敗はできない」



「借金の件で王家に相談しに行くんでしょ? もののついでさ。手土産の一つも用意できないんだったら追い出されちゃうよ。これは渡りに船だよ?」



「……だけど」



 渡りに船なのは事実である。が、依頼内容の責任が重すぎた。



「……。依頼人のトビマァル氏が戻ってくるまでは写本作業だけは進めておこう。そうじゃないと間に合わない。戻ってきたら、製本は厳しいから他の人を雇ってほしいって相談する」



「ボクは大丈夫だと思うけどなあ」



「こちとらまだ右手が痺れてるんだぞ。写本でさえ一週間で一冊なんてハードスケジュールなんだ。装丁なんかやってられるもんか」



 与えられた写本室の椅子に座り、どうしたものかと思案する。

 木枠から羊皮紙を外して典礼本サイズに切りそろえる作業、インクを作って文字を書き込む作業、それだけなら自分でも出来そうである。

 最悪ククリに手伝ってもらえればいい。それで一週間あれば。



 痺れる右手で、木枠からゆっくりと羊皮紙を外す。あまり羊皮紙に余裕がないだけに、羊皮紙の扱いは丁寧にしないといけなかった。





















「依頼人帰ってこないとかめっちゃ受ける」



「それな」



 傾斜台の上に広げた羊皮紙につらつらと文字を書き込むスタールは、先程からずっと無表情であった。

 依頼人が帰ってこない。依頼するだけしてさっさとどこかに消えるなんて。

 八頭分の羊皮紙を盗まれる心配はしてないのか。羊皮紙八頭分といえばおよそ300~400頁の本になる程度の量だ。うまく売りさばけば人が半年分暮らせるお金になる。



「スタール、インク垂れてるよ」



「あ」



 気が取られていたスタールは慌てて羽ペンを羊皮紙から離した。

 傾斜台が急な傾きで助かった。インクで濡れたのが指と膝なので羊皮紙に直接の被害はない。



「疲れてる? 朝から夕方になるまでずっと写本してるものね。サンドイッチ作ろうか?」



「……ありがとう、お願いするよ」



「はーい」



(……とはいえ、少しでも進めないと)



 スタールは一旦背伸びをして、体の凝りを少しだけ楽にしてから、もう一度写本作業に向き直った。



(意外と左手でも右手でも書けるものだな。装飾文字で一文字ずつレタリングするのは時間がかかると思ってたけど、上手いことペン先を倒したり起こしたりして太さの緩急をつければそれっぽく書ける)



 慣れない左手や痺れる右手の作業だから時間がかかるだろう。

 そんなスタールの予想は軽く裏切られた。

 そもそもレタリング文字は角ばっているものが多いので、歪まないように気を付ければ模写しやすいのである。後は慣れの問題であった。



 真っ直ぐな線は単純である。真円や曲線を書くほうがずっと辛い。

 それに、見本が全く無いわけではなく、文字は極論模写なので真似をするだけである。

 ページの装飾を施すような細かい作業はククリに任せれば問題なかった。



 右手が疲れたら左手で、左手が疲れたら右手で書けばいい。

 とても簡単な発見であった。











 スタール

 Lv:7.76

 STR:3.01 VIT:4.14 SPD:2.96 DEX:97.13 INT:4.19



[+]英雄の加護【器用】

[-]生産

 研磨

 装飾(文字)

 模倣











(気付けば何か増えてるな。研磨は……羊皮紙を磨いたからか? 装飾(文字)はこのレタリング作業を続けたから、模倣はこの原本通りに模写しているからだろうか)



 今一度ぐっと姿勢を伸ばすとぱきぱきと体のあちこちが鳴る。もう六時間程ずっと続けてきたからか、作業に少々余裕が出てきた頃合いである。



 羊皮紙は研磨すると白くなる。

 特に今回使われている品種は、肉側が純白に近いので研磨しがいがある。毛側こそやや黄色い色合いだが、よく磨けば毛の跡もほとんど残らず肉側と同じ色合いになる。

 反面、毛の繊維がやや緊密なので、研磨に手がかかるのが難点であるが、流石にこれだけ磨けばスタールも慣れてきた頃である。



 文字装飾も、これだけ何度も文字を書き込めば身体が覚えるものである。書体が途中で大きく変わるわけでもなく、文字毎にも特徴が似てるので、一旦掴んだらあとは早い。



 模倣に関しては言うまでもない。全体のレイアウトから個々の文字の大きさ、単語の配置にいたるまで真似をしてるのだから模倣と言って差し支えはない。



 写本もここまでくれば、スタールにとっては文字の書き取り練習に似たものである。痺れている右手の良いリハビリにもなるし、両手で文字を書く訓練にもなるし、別段困難ではなかった。



(気がつけば、全体の六分の一ぐらいは進んだかな。写本だけなら一週間でなんとか間に合いそうだ)



 黙々と作業を続けるうちに、何となくコツが掴めてきて楽しくなってきたところである。

 後ろでククリがサンドイッチを頬張っている傍ら、スタールはあともう少し頑張ろうと気合を入れ直した。





















「え、それは困る! 装丁する人を今から探すのは手間だし間に合わない! 見たところ作業も順調そうだし、ついでにやってくれるかね?」



「え、いや、そもそも写本自体初めてでして……」



「嘘言っちゃいかんよ! これだけ羊皮紙を綺麗に研磨して、文字もほとんど乱調なく綺麗に書き揃えてあって、しかもこの作業量! 原本よりも綺麗なほどだ!

 もしよかったらこのまま原本の修繕も依頼したいぐらいだよ!」



「え、ですが」



「済まないが今日も急ぎでね! 何かあったら明日……は駄目だ、明後日頼む!」



「え、ちょ、それますます装丁職人頼む時間がなくなるやつ、ちょ、あの、あのー!?」



 王宮儀典官のトビマァル氏はとにかく忙しいらしい。

 嵐のように捲し立てて、嵐のように出ていく。

 最近気付いたことだが、自分はどうやらこの手の人間に強く出れないらしい。スタールは渋い面持ちになった。

 これはいよいよ、装丁までやらなくてはならない羽目になりそうである。



「……ん、おはよ、スタール……」



「……おはよう寝坊助さん。こいつは最悪の目覚めだぜ」



「うぅ……ひどいよ……妖精は朝弱いんだぞ……」



 嘘つけよ、朝早い妖精はいくらでもいるだろう、とスタールは苦笑した。

 そもそも歯車仕掛けクロックワークの妖精なのに時間に弱いなんて奇妙な話である。



「いい夢見れたかい? さあ仕事だぜ」



「……電気羊の夢を見たの。電気で動かなきゃいいのになって、いつかは電気で動かない羊を飼うことを夢見て飼育する夢」



「何だいそりゃ」



 軽口を叩く元気があるうちはまだ修羅場ではない。いずれにせよ写本部分の作業は早いこと片付けたほうが良さそうである。

 虫こぶを砕いてワインで煮込み、補充用のインクを窓辺で冷やしながら、スタールは気分を切り替えた。





















「流石に辛くなってきたな。身体のあちこちが悲鳴を上げている」



「頑張ってスタール、これが終わったら金貨三枚だよ! ボクは顔料作ったりニカワを煮込んだりしとくから」



「それちょっと、逆に僕がやろうかな……同じ姿勢が辛くなってきたし……」



「えへへ、ボクもなんだ、一緒にやる?」



 写本作業にもいい加減疲れてきた頃、スタールとククリは簡単な装飾なら並行して行うことにした。

 やはり、文字を何万文字も書き写し続けるのは苦行である。何か気分転換になる作業を間に挟んだほうが能率が良くなる。

 それに金箔を貼るニカワの下地を乾燥させる時間を考えると、今全く何も手を付けないのはまずいと思われた。



「書き損じの羊皮紙の切れ端を適当に煮込んでニカワを抽出する、か」



「! おっと、これはまた中々……」



「さっきからククリは何を拾ってるんだ? そいつらは煮込まなくていいのか?」



「えへへ、書き損じの中には面白い呪文が書かれてるやつがあるのさ。妖精言語エルブンロアとか竜族言語ドラグロアとかね。もしかしたらこれ、魔術書の書き損じなのかも」



「へえ、後で教えてくれよ」



 どうせ要らない書き損じなのであれば、少しぐらい失敬しても構わないであろう。そうでもしないと割に合わない。

 匂い立つニカワにむせながらスタールはそんなことを考えた。





















 装丁作業は中々骨が折れた。

 まずは金箔を貼ったり色を付ける場所にニカワを乗せるだけなのだが、それがなかなか大変なのであった。



 そもそもインクの色移りがあってはいけないので専用の羽ペンを作るところから始めなくてはならない。軸先を軽く火で熱したりする作業はククリにやらせるとして、ナイフで細い切込みを入れる作業は右手がしびれているスタールには難易度が高かった。



 続いてはニカワに着色する下仕込みである。

 金箔貼りに使うなら下仕込みはしなくて問題はないが、顔料を上から塗る場合は、発色を良くするために白い胡粉を混ぜ込む必要がある。



 胡粉を乳鉢で丹念にすり、ニカワを乳鉢に少しずつ加える。

 胡粉というのは牡蠣の殻を粉砕して風化させてフレーク状にしたものであり、乳鉢を使うと簡単に細かくなる。やがて耳たぶぐらいの固さになったら、これを丸めて団子状にする。

 これを平らなところに叩きつけて、胡粉とニカワをなじませるのだ。

 あとは、使う前にぬるま湯で少しずつ溶きおろせばいい。



 ここまで来てようやく羊皮紙にニカワを乗せるわけだが、これが中々細かい作業であった。

 花の模様は、ニカワの下地から花の模様で描かないといけない。

 十字架の模様も然り。

 魔術的な複雑な刻印となれば、これがまた尚の事厄介なのである。



(羽ペン作りやニカワ作りはともかく、この下地塗りが大変だな……。呪術的な意味なんて知らないから、ククリに確認を取らないと意匠が狂ってしまう)



 呪文の練習。

 あるいは、魔法陣の練習。

 この世界には刻印魔術という考え方があるが、スタールがやっていることはまさにそれに近かった。

 少し形が狂うと魔力が伝わりにくくなる。だがそれよりも呪術的意味が狂ったら呪文として意味を成さなくなる。意味を狂わさないように手を加える、というのが、魔術に詳しくないスタールにとって難易度が高いことだった。



「んふふふ、妖精から直々に刻印魔術の手解きを受けるなんて中々できないことなんだよ?

 典礼書に使われてるのが典礼言語だからね、アヴェスター語、サンスクリット語、ヒエログリフ、古代ヘブライ語、ルーン文字、古ノルド語、ヲシテ文字なんてものもあるんだよね」



「……これ、全部? このページの端に書かれてるやつとか」



「全部かなあ。あとこの原本、普通に誤植してるやつもあるからこの際直しちゃおう」



「……」



 装丁作業は、先が長そうであった。





















 予定通り写本を六分の一ほど進めて、装丁装飾も同じぐらいに仕上げた頃には、もう夜も深い頃になっていた。

 やはり花の模様や典礼言語を書き込む作業にかなりの時間が取られている。修正作業も山のように増えた。

 ここからさらに金箔貼りの作業が丸々残っているかと思うと、先が思いやられた。



「手、こんなに動かないんだな……」



「え? 動いていると思うよ? というよりも普通はこれぐらい失敗するよ?」



 ククリはそう言うが、スタールからすれば全くそんな気はしなかった。

 痺れている手か、利き手じゃない手か、どちらにせよ細い曲線を綺麗になぞる作業は神経を要した。

 単一色のインクのレタリングと違い、装飾の描き込みは、色が滲んだりする。

 ペン先の少しのブレが致命傷になるのだ。



 羽ペンも何度も作り直した。色遣いに細心の注意を払うため、色ごとに羽ペンを作り直す必要があった。

 インクも何度も作り直した。岩石顔料は砕いて卵白に溶かし、植物染料は水で煮出してニカワに乗せた。

 集中力が途切れたら、羊皮紙の研磨作業で気分転換をしたり、食事を摂取したりした。



 とにかく、作業にかじりついた。

 それでもまだ、全体で見れば三分の一終わってないぐらいである。



「……写本ってこんなに辛いんだな」











 スタール

 Lv:7.76

 STR:3.01 VIT:4.16 SPD:2.96 DEX:97.62 INT:5.26



[+]英雄の加護【器用】

[-]生産

 研磨+

 装飾(文字+ / 記号 / 図形)

 模倣+

 道具作成

[-]特殊

 魔術言語++











「大丈夫! 辛いのは今のうちだけだよ! ここからどんどん上達するし、きっと写本が終わったら見違えるほどに器用になるよ!」



「本当かな……僕は終わる気がしないよ……」

 

 あと五日間、こんなペースで作業を続けられる自信がない。

 明日ぐらいには過労で倒れてしまう予感がしている。

 正直なところ、一人でこなせる作業量ではなかった。



 だがそれでも、依頼未達成の違約金を支払えないスタールには、この仕事をやり切るほかはなかった。



















 ニカワの下地は羊皮紙の全てに塗り切らないといけない。

 表紙の木板も用意して、スリット状の穴を空けたり彫刻加工しないといけない。

 木板の表面を覆うなめし革も用意して加工しないといけない。



 作業量はますます膨らむばかりである。



(写本と製本じゃ段違いなんだよな、作業量が……。本当は文字を書き写すだけの作業だったはずなのに、どうしてこうなったんだ……?)



 肉体的な疲れと精神的な疲れから、スタールは深く嘆息した。



 表紙に使う木板は、造船に使われた樫の木の余りで賄われる。

 樫の木はかなり硬いので、これを彫刻加工しようと思うとかなり力が必要であった。



 装丁作業も全部済ませて乾いた羊皮紙は、折丁ごとに折りたたんで、二方切りしてあとは綴るだけの作業まで推し進めた。

 乾燥してやや波打ったものは、板で挟んでハンマーで叩いてならした。



「……だめだ、ニカワの匂いを吸いすぎた。頭がくらくらして気分が悪い」



「……お疲れ、スタール。きっと眼精疲労だと思うよ? 窓を開けてベッドでゆっくり仮眠してね。後で熱いお絞りを用意してあげる。瞼の上に乗せると楽になるよ」



 本当は、日の明るい昼間に作業を進めないと支障が出る。

 だが今のスタールには、何よりも休息が必要であった。



「癒やしのルーンは覚えてる? 木材の余りに彫ってから枕の下に入れて眠ると、怪我や病が木材に移るんだよ」



「……そっか……」



「……ボクが用意してあげるね。スタールはゆっくり寝てて。後で起きたら摺りりんごを用意してあげる」



「……ありがとう」



 そのままスタールが泥のように眠るまで、さほど時間はかからなかった。











「……すっかり夜か」



「んふふふ、おはよう寝坊助さん。いい夢見れた?」



「いや、夢は見れなかったよ。……けど、何というか、驚くほど体が軽い」



 身体をぐぐっと伸ばすと、全身の凝りがすっかり消えていた。

 目の疲れも大分楽になり、昼間までの疲労困憊ぶりが嘘のようであった。



「んふふふ、おまじないをびっしりと君の身体に書き込んでおいたからね。治りが早いのは当然さ!」



「え、嘘――うわっ!? 何じゃこれ!?」



「身体も全身揉みほぐしておいたし、きっと血行も良くなってると思うよ? 感謝してね?」



「え、ちょ、どこまで書いてるの、嘘、下着――え、おい!」



 一悶着があったのはさておいて。

 したり顔の妖精には目一杯のデコピンと感謝をくれて、スタールはもう一度作業に取り掛かった。











 装丁作業は本当に終わりが見えない。

 特に彩色に関しては奥がとても深かった。



 砕いて使う岩絵具の代表は、群青(=藍銅鉱)、緑青(=孔雀石)、辰砂(=硫化水銀)、水晶、金茶(=虎石)、黒曜石である。特に岩絵具は下の色が透けて見えやすいので、何度も重ね塗りするほうが綺麗に仕上がる。



 殆どは水簸済みの顔料を再び砕くだけなので、簡単にすり鉢で粉末に出来た。だが珍しい色の顔料については安上がりの顔料だったので、粒度がまばらであり、時には上澄みだけ掬い直して粒度を整えたり、すり鉢でもっと丹念に擦り直すことも行った。



 顔料は水にあんまり溶けないので、ニカワに混ぜ込んで、生乾きのニカワの上に塗った。

 一方で染料は水に簡単に溶けるので、上から塗って色の調整や補正に活用した。

 

 彩色の細かい部分は、蠟燭の光や月明かりだけでは色味がわからないので保留する。夜にできる作業はあくまで着色の下ごしらえである。

 色彩の全体的な調和は、昼間にしかわからないのだ。



「金箔貼りも案外楽なものだな。羽ペンで彩色の装飾をするのと比べるとだいぶと気が楽だ」



「慣れてきたでしょ? でも言っとくと、金箔貼りも本来は高度な技術なんだからね?」



 嗜めるようなククリの言葉は、実際のところ間違いではなかった。



 金箔貼り。ギルディング。

 金箔を貼る作業は、貼り付けて押さえてこするだけである。

 力加減や光沢の出し方に技量が問われるものの、想像よりは平易な作業であった。



 まずは金箔をそっとニカワの下地に乗せる。

 金箔を貼るための下地は立体的に盛り上がっている方がいい。金箔の光沢がきれいになるからである。ニカワの表面を溶かすために熱い吐息を吹きかけて湿らせ、金箔を満遍なく被せるようにする。



 次にそれを布の上からぐっと押さえる。剥がれないように満遍なく、金箔にシワが出来ないように力加減をして、羊皮紙やニカワが変形しない程度に、程よいバランスを掴む必要がある。



 最後にメノウ棒で表面を擦り、ニカワの盛り上がりを調整したり、味のある光沢を作り出すのである。

 余った金箔は、この時に細い道具で削ぎ落としておく。せっかく貼った金箔が欠けてしまわないように、細心の注意をもって削る必要がある。



 だが、スタールにとっては何においても彩色のほうが極めて困難であった。細かい曲線をペン先で表現すること、魔術的な意味を崩さない色の置き方を心がけることと比べたら、金箔貼りはまだコツを掴むのが楽であった。



「……何か、意外と製本出来そうな気がしてきたな」



「でしょ? 分かる?」



 希望が僅かに見えてきた。

 それだけでスタールの気持ちは少し前向きになった。これが睡眠不足からくる高揚感かもしれない、という気持ちは頭の片隅にあったが、それでもスタールには確かな手応えが感じられた。





















 最終日の一日前。

 表紙に革を貼り終えて、花布を縫い込んで本の上下を補強し、もう一度革で表紙と背表紙に細工を施して、最後に角に金属を嵌め込んで留め継ぎして、ようやく典礼書は完成した。



「……素晴らしい。素晴らしい! 想像以上の作品だ!」



 完成品を目の前にして、依頼人の王宮儀典官トビマァル氏は感嘆の言葉を何度も繰り返していた。

 涙ながらに彼は語った。



「思えば、魔物大発生による被災者弔問と慰労の案件が来てとても忙しかった……! 獅子王陛下なんか『私が直々に顔を出さずして何が王か! 被害のあった街全てに足を運ぶぞ!』なんて言い出すし、王宮司祭殿は『ついでに各街の聖大天使祭を前倒しして、王様を各地で盛大に迎えたい』なんてどうでもいい思い付きを喋るし、全く仕事を何だと思っておるのだ!

 祝祭準備も全く想定外のスケジュールで各地の領主と調整を取るので精一杯だし、楽団や聖歌隊の手配もなおざりだし、典礼書は案の定用意されてないし、本当もう詰んだかと思った! 思ってた!

 でも君のおかげで首の皮一枚つながった! 本当に感謝している!」



「……はあ」



「正直あのぼんくらな王宮司祭にゃ、適当な典礼書を渡しても気付きはしないって思ってたんだ。典礼言語なんか読めやしないんだから。でもいざ実物を見るとなると素晴らしすぎて溜め息が出る!」



「……大変ですね、政治って」



「おっとそうだ、これを渡さにゃならん、受け取ってくれたまえ」



 ごっ、と机に貨幣袋が置かれる。金貨三枚、と伺っていた案件だが、銀貨で支払ってくれるらしい。銀貨のほうが使いやすいのでスタールとしてはありがたい。



「少しばかり割増しで銀貨四二枚ある。どうか収めてほしい。本当にありがとう!」



 言うなりトビマァル氏は早速、完成した典礼書をもってどこかへと飛んでいってしまった。

 本当に嵐のような御仁である。スタールとククリは呆気にとられてしまった。



「……大変だな、王宮儀典官様は」



「まあ、ボクたちも大変だったけどね?」



「それもそうだな、ククリ……僕も疲れたよ」



 一段落ついたところで、達成感と疲労感が押し寄せてきた。

 全てが終わって気が抜けたスタールとククリは、二人してベッドに倒れ込んだ。



「赤染めしたページに金泥で文字を書き込むとか、本当に大変だったな……」



「補強のために革を縫う作業も、結構骨が折れたね……」



「表紙の革にビロードを散りばめて埋めるのも本当に大変だった……」



「彩色の調和を取るのも何度も描き直しして、疲れたね……」



 一体どれほど苦心してあの本を作り上げたことだろうか。ただ単なる写本の依頼だと思っていただけに、想定外の作業の多さに心が折れかけたこともあった。

 だが、何とかしてやりきった。痺れる右手、慣れない左手を酷使して、どうにか完成まで漕ぎつけた。

 それだけでもう、万感の思いである。





















 スタール

 Lv:7.76

 STR:3.01 VIT:4.22 SPD:2.96 DEX:99.38 INT:6.04



[+]英雄の加護【器用】

[-]生産

 研磨++

 装飾(文字+++ / 記号+ / 図形++)

 模倣+++

 道具作成+

 革細工

 彫刻

[-]特殊

 魔術言語++

 色彩感覚+





















「次はもっと楽な仕事にしよう……」



「そうだね、スタール……。ちゃんと英雄らしい仕事をやろうね……」



「いや、英雄にはならないって……」



 次こそはこんな大変な仕事はしない。欲を言えば、のんびりゆとりを持って生活したいのである。

 英雄、と事あるごとに言うククリには申し訳ないが、スタールの気持ちは安息を求めていた。



(……英雄には、ならないさ)



 そう、心安らぐ時間の価値が分かるようになった今は。


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