第2話

 アイの最初の一週間はあっという間に過ぎていった。

 新人ということで、仕事の流れや、資料の場所を覚えることにほとんどの時間ば割かれている。シーカーの能力が活躍する場はまだ、まるでない。

 それでも覚えることが多過ぎて、定時で家に帰っても、夕飯を食べて寝るだけの一週間だった。


 看護師をしている母は夜勤も多いが、就職したての娘を気遣って、帰ってすぐに食べれるような物をだいたい用意してくれている。

 ありがたいとか、申し訳ないという前に、無理して体を壊して欲しくないな、と思う。

 ただでさえ兄のことで心労がかかっているはずだ。


 金曜の夜、入浴後にリビングでテレビを見ていると、どっと疲労感に襲われた。

(…教えられたことメモ取ってるくらいで、特に仕事らしい仕事してないのになぁ)

 まだ9時前だというのに、大きなあくびがでる。


 今日も母は夜勤。兄の海人は部屋に閉じこもっている。

(お兄ちゃんの分までとは言わないけど、自分の生活費くらい稼がないとね…)

 そう考えるアイにとって、シーカーの能力を持っていると分かったのはありがたいことだった。今のところ、職場でも優しい人たちに恵まれている…


「…さむっ…」

 気がつくと、リビングのソファーで眠ってしまっていた。足先が冷えて肩がこわばっている。

 時計は10時を過ぎていた。

「…寝よ」

 ゆっくり、伸びをして、肩をほぐすように軽く回す。


 階段を昇る途中、話し声にギョッとして立ち止まった。

 珍しく、兄の部屋のドアが少し開いている。話し声はそこから漏れてきていた。

(…電話?)

 と、思ってから、すぐにそれはおかしいと気付く。海人はスマホもタブレットも持っていない。家に固定電話もない。じゃあ…


「だって、なんとかできるとしたら、あいつしか…」

 ドアが開いているとは思っていないのか、結構大きな声で話している。

「お兄ちゃん⁈」

 ノックもせずにアイがドアを開けると、海人は文字通り、飛び上がった。

「な、なんだよ!」

 よほど焦ったのか、話し相手に何も告げずに通話を切ってしまう。

「あ…」

 その海人の手元を見て、アイは言葉に詰まった。


「あの、ごめんなさい。勝手に私のスマホ使って電話してるのかと…思って…」

 海人が手にしているは、明らかにアイのものではない。

「あ、こ、これ、か。お母さんが、一応、持っておけって…」

 まだ突然の妹の登場に動揺しているらしく、声がうわずっている。


 アイより3歳年上の海人だが、今は無精髭と、こけた頬のせいでずっと老けて見えた。たまに顔を合わせても生気のない目で当たり障りのない会話をするだけで、こんなにはっきりした声を聞くのも久しぶりだ。


「ああ、そう…だったんだ。ごめんね、びっくりさせて」

 バツが悪いが、なんとか明るく言って両手を合わせてみせる。昔の兄だったら

 ーホント、びっくりしたぜぇ

 とか言って笑ってくれたに違いない。だが、今は

「俺、人のモノ勝手に使ったりしないって…」

 目をそらしてそう呟いただけだ。

「だれか、友達にでも連絡してたの?」

 それでも、久しぶりに話が出来た機会をそのまま終わらせたくなくて、アイは聞いた。


 今年の始めに東京の勤務先を辞めて戻ってきた海人は、驚いたことにスマホも、パソコンも全て処分してきていた。

 友人、知人の連絡先も全て処分して手元にないという。

 帰ってくるなり、元の自分の部屋に閉じこもり、友達と連絡を取ろうとする様子もなかったのだが、手元にスマホがあることで、誰かに電話する気になったのだろうと、アイは思った。


 海人の返事は歯切れが悪かった。

「あぁ、まぁ、な」

 兄の方はアイと会話を続けたい様子は全くない。それでも、アイは続けた。


「あのね、今の仕事、守秘義務とか結構うるさくて…やってる内容とかは言えないんだけど。上司の人が、ウィンガーで、ほら…うちの事情とかも知ってるから、いろいろ話も聞いてくれそうでね…」

 海人の顔が上がる。不機嫌そうな目だった。

「あ、家族には職場の人の話とか少しはしてもいいって…」

「出来るだけ、ウィンガーとは関わって欲しくない」

 突然、海人ははっきりとそう言った。

「え…」

「今さら言っても仕方ないけど、ウィンガーに直接関わるような仕事するって聞いてたら、絶対、反対してた」


 未登録翼保有者対策室に就職出来ることになった、と報告した時の海人の呆然とした顔が思い出された。

 高校を中退した妹が就職し、自分は無職のまま。その気まずさを感じているのだろうとその時は思った。もちろん、アイも母親も海人を責めるような言動はとらないように気をつけていたのだが。


「ーわかってるんだ。そういう仕事しなきゃならなくなったのも、俺のせいだって」

「お兄ちゃん!そんなこと、思ってないって!高校辞めたのは自分の問題なんだし…」

「お前はウィンガーのそばにいちゃダメなんだって!!」

 海人は妹の言葉を遮って喚いた。大声に、アイは声を失って固まった。

 海人の方も自分の声にハッとしたのか、青ざめて俯いた。肩で大きく息をつき、目を閉じる。海人が翼を消す時と同じ仕草だ。


「怒鳴って、ごめん」

 呟くように言うと、海人はアイをドアの方へ押しやった。決して力づくではなかったが、アイは黙って従った。

「俺…今、調子悪いんだ。ほんと…ごめんな」

 その言葉と共にそっと背中を押され、部屋を出される。背後でカチャン、と鍵がかかる音がした。


 呆然としながら自分の部屋に戻り、反射的にテレビをつけた。眠気は吹き飛んでしまっている。

 ニュースでは去年中東で起きたテロ事件の容疑者が、先月死亡していたことが判明した、と伝えていた。ウィンガーが関連していた事件だ。すぐに他の番組に変えた。


 看護師の母は今日は準夜勤で、深夜にならないと帰らない。誰かに話を聞いて欲しかったが、他に相談できる相手はいなかった。

 海人にあんな風に大きな声を出された記憶はほとんどない。子供の頃はかなりおちゃらけた兄で、アイが言動を戒めることの方が多かった。

 活発で、男の子と遊ぶことが多かったアイは、家に遊びに来る海人の友達に混ざって、ゲームをしたりサッカーをしたりもよくしたものだ。そんな時の海人は全力で妹の味方をした。今思えば、少々シスコンだったとさえ言える。

 今だって、兄は変わっていない、と思いたい。だが、兄が何を考えているか分からず、不安でいらだったし、そんな余裕のない自分にもいらだった。

 壁の向こうの海人の部屋からは物音一つしない。

「お兄ちゃんがウィンガーだって、私は全然嫌じゃないんだよ」

 ポツンと呟くと、涙かこぼれた。

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