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教室のある棟の階段を降りて一階に着くと、そこは見たことのある場所だった。
「あれ、ここー……」
周囲を見回す。右側は中庭、左にあるのはカーテンがかかっている購買のようなもの。俺が倒れた場所だ。そんなに過去のことでもないはずなのに懐かしくなった。
購買の奥を行くと先ほどの実習棟だろう、中庭の方を見ると先の渡り廊下のその先にグラウンドが見えた。ちょうど良かったと中庭を横切ろうとすると、聞き覚えのある声が聞こえた。
「ふみぬーん」
「え?」
足元から声が聞こえ、見下ろしたが誰もいない。視線を彷徨わせていると中庭にある低木が揺れ、声の主が現れた。
「うぬぬぬん」
「あ!お前は!」
思わず指を指してしまう。そこにいたのは、体調不良の俺の腹に乗りとどめをさそうとしたあのヤクザ顔の猫だった。ヤクザ猫は俺への仕打ちを忘れたのか、足にまとわりついてきた。ゴロゴロと喉の音が立っている俺の耳にまで届いた。
「っつーかお前俺のこと触れんのか」
「ふなーん」
さっきは気づかなかったが、俺の腹に乗ったり足に擦り寄ってきたり、この猫は天使を認知しているらしい。しゃがみ込み、人差し指をヤクザ猫に近づける。猫はふんふんと鼻を鳴らしながらその指を追ってきた。やはり見えている。人間には見えていなかったが、他の生き物には見えるようになっているのだろうか。そんな事を考えていると、猫は俺の元を離れて先ほど出現した低木の中に戻って行った。木を揺らしたかと思うと何かを咥えて再び顔を出し、図体によらず軽やかな足取りで舞い戻ってくる。何も考えずにそれを眺めていた俺だったが、猫が咥えているものがハッキリしていくにつれて目を見開いた。
「あ……!あああ!」
目の前でポトリと落とされたそれを震える両手ですくった。ショックのあまり喘ぎ声しか出ない。
それは、折れた矢だった。
それを見て、俺はようやく道具の事を思い出した。ショックと混乱の中、記憶を辿る。そういえば目が覚めた時には手ぶらだった。自分は弓矢を手に持ち、眼鏡はポケットに入れたはずだ。さっき二時試験用紙を探すときに漁ったから、何も入っていないのはわかっている。わかっていたが諦めきれずもう一度ポケットに手を突っ込んだ。案の定、先ほどコギャル天使からもう一度もらった紙の手触りしか伝わってこない。もしかして、もしかして。
ー……これは俺の道具の残骸ではないか。
一人で顔を青ざめていると、それを眺めていた猫が立ち上がり、豊かな体を揺らしながら先ほどの低木へ向かった。そして振り向き、俺に鳴いた。
「ぷい〜ん」
俺は立ち上がり、震える足取りでヤクザ猫の跡を追った。低木の茂みをかき分けて中を覗く。
もう一本の折れた矢。弦がボサボサになっている弓。ヒビが入った眼鏡。眼鏡のレンズの曇りも、弓の先のハートのひび割れも、既視感がある。
立っていられなくなり、俺は茫然自失のままそこに座り込んだ。
これは俺の道具だ。
道具が壊れた。これはどうなるのか。どうしたらいいのか。
慰めるようにヤクザ猫が俺に体を擦り付けてくるが、それに応える余裕はない。俺の視線は目の前のボロボロになった道具に釘付けで、頭の中を占めるのは『どうしよう』というどうしようもない問いかけだけだ。
道具を大事にしていないと減点されないだろうか。いや、これは倒れた拍子に壊れたとしたら情状酌量してくれるのでは?いや、許されたとして道具は交換してくれるのだろうか。眼鏡の話によると天使は性格悪い奴らの集団みたいだが、この壊れた道具のまま試験続けるよう無茶とか言わないだろうか。コギャル天使ならなんとかしてくれるかもしれないが、眼鏡やキャリアウーマン天使のようなやつが出てきたら……。
終わる。俺の今回の試験は今度こそ終わる。終わるどころかあの性悪眼鏡にもバレて全員に嘲笑されるかもしれない。もちろんその場で不合格になり、挙句には次回の試験からダメな奴の例として挙げられ、「お前らはこんな風になったらダメだぞ」とか試験官が受験生に注意して、受験生も「いやいや、こんなアホなことできるのはコイツだけだろ」って馬鹿にしてー……。
「ぷるるるる」
ヤクザ猫が不満げな声を出しながら前足を膝に乗せてきて、そこでようやく俺は正気に返った。
ショックのあまりネガティブな妄想を繰り広げてしまった。ヤクザ猫が背伸びをして俺の頬に鼻息を一生懸命かけてくる。鼻息を浴びていると段々と冷静になってきた。この破損は事故なのだから大丈夫ではないか。なんとかなる。きっとどうにかなる。多分解決できる。おそらく大丈夫だ。
散々俺の顔に鼻息をふきかけて満足すると、ヤクザ猫は俺の腕に顔を擦りつけ始めた。
「……お前が道具を拾ってくれたのか?」
「んぴゃあ」
道具は壊れていたが、失くしたものはなかった。この猫が低木の中に移して保管してくれていたのか。ボロボロの道具を茂みの中からそっと取り出した。よく見ると、瀕死ではあるが完全にお亡くなりになった状態ではない。矢は折れてはいるが、完全に二つに分かれているわけではないし、眼鏡のレンズはヒビが入っているだけで割れているわけではない。弓に至っては他のものと比べれば全く問題ない。テープがあれば矢も眼鏡も修理できるのではないか。なんとかなる気がしてきた。
感謝の気持ちを込めてヤクザ猫の背中を撫でると、上機嫌に頬を舐められ、一気に愛しさが増した。
「ありがとうねお前。ヤクザみたいな顔って思ってごめんな?お前のことソースウィートラブリーって呼んでやるからな」
「ブシュン」
顔を近づけてお礼を言ったら顔面にくしゃみをされた。前言撤回。こいつのことは一生ヤクザ猫と呼ぼう。
バカ猫を睨みつけたが、素知らぬ顔であくびをしていて、なんだかおかしくなって吹き出してしまった。壊れてしまったのは仕方がない。どうにかできないか足掻くしかないのだ。
お返しにと強めに頭を撫でてやり、立ち上がった。
「よし、俺もう行くわ。小池を探さなきゃ行けねーし」
「おんおん」
ヤクザ猫は俺に一鳴きすると、再び軽やかなステップを見せながら低木に潜っていった。あそこがお気に入りスポットらしい。
また一人になった俺は今度こそ中庭を横切り、グラウンドへと向かった。チラホラと人の声は聞こえる気がするが、人影は見えてこない。
グラウンドに足を踏み入れ、周囲を見回す。中心には誰もいないが、学校を囲んでいる塀の近くには動いている人間が見える。
グラウンドの右側に建物が見えた。おそらく体育館だ。行ってみようかと右に体を向けると、足元に人がいて心臓が飛び出そうなほど驚いた。向こうがしゃがんでいて、全く視界に入っていなかった。
「びっ……くりした」
彼は校舎の方を向いており、手に持った紙に鉛筆で何か描いていた。笑い声が聞こえてきてグラウンドのフェンスの方を見ると、何人かの生徒が並んで、楽しそうに座っている。その手にはやはり紙を持っている。
ーー美術だったか。
どうやら外で何か描く授業らしい。予想外のところだが、見つけることができてラッキーだった。俺は地べたに座って息をついた。
全員が思い思いの場所を選んでいる中、この男は既に場所も対象物も決めて一心不乱に手を動かしていた。
真剣な表情で何を描いているのかと体を伸ばして覗き込むと、紙の上に花が浮かんできていた。驚きで自分の目が見開かれているのがわかる。だが、衝撃だった。てっきり不器用で下手だと思っていた。
鉛筆が動くたび、どんどんと花が開いていく。白と黒しか色がないのに、他の色が見える気がする。
「お前……絵ぇ上手いな」
聞こえないのをわかっていたが、自然と話しかけてしまう。
もちろん小池に俺の声は届いていない。だが、先ほど重やんファミリーに絡まれていた時とは違う活きいきとした表情を見せる彼に、俺は一筋の光を見た気がした。
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