5-7 神と民、愛の誓約
徳斗を伏したタケミカヅチは悠然と歩き、神鏡を拾うと掌をかざした。
彼の指先と神鏡の表面が光る。
すると、中に逃げていた稚姫が神鏡の表面を叩いても、ガラス窓のように外界との出入りができなくなった。
「手間が省けましたぞ、姫様。しばしその中でご辛抱いただくこと、ご容赦ください。では高天原に帰りますぞ」
「待てよ、おいっ! ワカを連れてくな!」
徳斗は必死に立ち上がろうとするも、両腕や両足ではとても全身を支え切れず、またも崩れるように倒れる。
「我が剣の刃は、この世のあらゆる物を断ち切る。刀を返して背で斬れば、霊的な精神世界を破壊する。先程お前の霊魂に打撃を与えた。そのまま半日ほど臥していろ。あまり無理をすると寿命を早めるぞ」
歩き出そうとするタケミカヅチの足首を、徳斗は必死に掴む。
「ワカは行かせねぇよ……ホントに下界のやつを斬りやがって、法令違反だろ……」
「先程の足蹴の返礼だ」
タケミカヅチが足を振り、その手を払おうとするも下界の青年は、振り絞った最後の力で堅く握った指を離さない。
「あまり我の邪魔をするな。今度はみね打ちではなく刃の方でお前を斬ることになる。お前の御魂も姫様とともに天上界に連れていくことになるぞ」
「おぉ、ワカが一緒に居てくれってんなら、それも本望だね。やってみろよ」
「本気で言っておるのか?」
そのまま睨みあう両者。
だが、下界の青年はこの期におよんで笑っていた。
彼自身が稚姫を守ると信じて疑わない様子だった。
「……やむを得まい。それがお前の望みであるならば、叶えてやろう」
タケミカヅチは、構えた刀身を返して鋭い刃を彼に向けた。
「御免」
刀の柄を握る手の力を込める。
そして徳斗に向けて、まっすぐに刀身を振り下ろした。
「はい、ストーーーップ」
タケミカヅチの刀身をつまむ二本の指。
切先は徳斗の身体の手前、数センチ上で留まった。
器用に両足のかかとを地面に付けたツキヨミが、しゃがみ込んで徳斗の身体を断ち斬ろうとしていた刀を押さえていた。
「タケミカっちは業務に忠実なのはいいんだけど、やり過ぎだなぁ。下界の民の魂を勝手に天にあげたらイザナギ様達に怒られるよ? 生者は日に千五百人、亡者は千人って上限が決まってるでしょ?」
ツキヨミはつまんでいた刀を人差し指ではじく。
「僕の言ってる意味、わかるよね?」
タケミカヅチは片膝を地面につくと、ツキヨミに深々と頭を下げる。
「お兄さん……よかったっす、間に合って……」
「徳斗様、そのままじっとしてください。いま水の力で魂を潤し、その傷を治癒いたしますので」
駆け寄ったミズハが徳斗を膝枕すると、彼の右手を両手で優しく包む。
すると、全身の重だるさや激しい疲労感がみるみると消えていく。
稚姫の手前であるものの、美女からの膝枕は徳斗に得も言われぬ爽快感と背徳感、そして若干の居心地の悪さを感じさせた。
「すぐにご無理はなさらないでくださいね」
先にミズハに治癒をしてもらった八田は、三本足のカラス姿のままツキヨミの肩に降り立った。
ツキヨミはわずかに間を置いたのち、徳斗に惜しみない拍手を贈った。
「さて、ミスターノリト。ナイスな動きだったよ。上空から見てたけどハラハラしちゃったね。ワカっちを……僕の妹を大切に想ってくれるのは、本当にありがたいね。それこそが信仰と言えるし、まさに神職に相応しい立派な行動だと思う」
「でも、お兄さん。ワカは天上界に帰らなきゃいけないって……」
徳斗に対してツキヨミはふざけたように、ひょいと肩をすくめる。
「キミが望む方法でなんとかならないかって、姉上が<ことあまつ神>に掛け合ってくれたんだよ。弟のスサノオは出雲のシロウサギ経由で話を聞いたらしくてね。あいつが珍しく爪と髭をキレイに落として、根の
ツキヨミはまるで少年のようなウィンクを投げた。
「そのワガママって太陽神の荒御魂の力だけ、お姉さんに返すって方法っすか?」
「うーん、厳密にはワカっちは神の力をほぼ失うような感じかな? 寿命は人間と一緒になっちゃうけど、下界に住まう少し能力的に他人よりも超越した民ってところだよ。言わばサイババやユリ・ゲラーみたいなもんだね」
「すいません、ちょっとどっちもわからないっすね」
「そう? ミスターノリトは大学生じゃ、しょうがないね」
徳斗はミズハに支えられて立ちあがると、神鏡を手渡される。
タケミカヅチの呪術によって鏡の中に幽閉されている稚姫は、涙をこぼしながら何かを訴えている。
深く頭を下げたタケミカヅチが、術を解くために鏡に触れようとすると、掌を伸ばしてツキヨミが制止する。
「あとはミスターノリト、キミがやるんだ。ワカっちをこのがんじがらめの心の檻から救ってあげて欲しいね」
「それって、どうやるんすか? 俺にはどうすることも……」
「
「でも俺はまだ学生だから修祓の型とか、かしこみ申すの憶えてないんすけど」
「キミの素直な言葉でいいんだよ? ぜんぶ任せるさ」
ツキヨミはにやりと笑みを浮かべた。
徳斗は両手に持つ鏡の中にいる稚姫の顔を見つめる。
「ワカは、神様の力が無くなってもいいのか? もう天上界に帰れなくなってもいいのか?」
稚姫の声は届かないが、彼女はうなずく。
「もうお兄さんやミズハさんに会えなくなるかもしれないけど、いいのか?」
またも、うなずく。
「そこまで、俺のために何もかも犠牲にしなくてもいいんじゃないのか……」
それには首を横に振った。
何を言っているかは言葉は伝わらないが、動かした口元で分かる。
ここ最近は、ずっと見ていた口元の動き。
『の・り・と』
だが徳斗は、彼女の神としての能力や、籍までも奪ってよいものか逡巡する。
それでもつい先程、稚姫を助けるため、無意識にタケミカヅチに飛び込んだ自分の正直な気持ちを、改めて噛み締めていた。
下界の青年の結論を静かに見守る一同。
静かに息を吐いた徳斗は、鏡の中に向けて語り掛ける。
「最初にワカが来た時は、とんでもない事になったな、こいつが立派な太陽神になるなんて到底無理じゃないか、なんて思ってたよ。でも、じいちゃんの神社を継いで神職になることに迷いはなくなっていった。それに一緒に暮らすようになって、お前の本当の気持ちに気づいたよ。いつの間にか俺も何かするときに最初に考えるのはお前の事になったんだよな」
徳斗は照れ臭そうに頬を掻きながら、鏡から視線を反らす。
そのまま上空で眩く輝く太陽を仰ぎ見た。
「お姉さんみたいな太陽神になれなくても、いいじゃん。出雲のウサギも言ってたよ。太陽がふたつあっても良いって。お前はもう立派な太陽だよ。退屈で流されてばかりの俺の人生を面白いものにさせてくれたし、いつも俺を明るく照らしてくれるし、俺の気持ちも温かくさせてくれる」
徳斗の言葉を黙って聞き続けるツキヨミとタケミカヅチ。
頬を紅潮させ、身震いさせながら蒸気を上げるミズハ。
「だから、ワカ。ずっと俺の太陽として、そばに居て欲しいんだ」
鏡の中で、稚姫は涙を流して何度も首を縦に振る。
だが、それきり何の変化もない。
徳斗も困惑してツキヨミに視線を向けると、唇を尖らせて彼をけしかける。
「マジかよ……ここでか」
「誓約だからね。他の神々も立ち会わないと」
やむなく鏡の中に向かって徳斗は手招きをした。
魚眼レンズ越しの画像のように、ぐっと稚姫の顔が大きくなる。
「もっとだよ。もっと鏡のキワまで来いって」
さらに稚姫の姿が寄って来る。
徳斗は頬を染めながら咳ばらいをひとつすると、神鏡に唇を合わせる。
外界と鏡の中。
ふたりの顔が重なった。
ツキヨミが両手でガッツポーズをすると、タケミカヅチは誓約の内容を確認して深々と頭を下げた。
ミズハは湯気で周囲の景色を揺らめかし、急沸騰して卒倒する。
「……ん? なんだ、これ。まぶしっ!」
神鏡が強烈な光を放つ。
鏡の中に囚われていた稚姫がゆっくりと姿を現す。
だが、その容姿は先程までの稚姫とは違っていた。
面影は残るが、外見は徳斗やミズハと同じくらいの年頃になっている。
そのミズハは朦朧として膝を崩していたが、驚いてツキヨミの袖を引く。
「うそ、ワカちゃんがオトナに……いったいどうしたというのですか?」
「ワカっちは同じ太陽神であるはずなのに、常に姉上と比較されて評価されてきたからね。太陽のくせにまるで月のように姉上の影にかくれてしまうなら、と自らの心を幼いままに留め置いてたのかもしれないね。成長のスピードが遅いとでも言うべきかな?」
「じゃあ、そのきっかけって……く、く、く、くちす……」
ミズハが真っ赤になった頬を両手で押さえるが、ツキヨミは小さく肩をすくめる。
「いや、誓約の結果でしょ? それでワカっちが下界で望む姿になれたんだろうね。別にキスなんかしなくても、僕らが承認すればいいんだもん」
意地悪そうに眉を上げるツキヨミに、徳斗は不満を漏らす。
「ひでぇ、お兄さん! 知っててやらせたんすか!」
鏡の外に出て来た稚姫は、両手の中に淡い緑に輝く大ぶりの勾玉を持っていた。
その勾玉をツキヨミはひょいと掴む。
「うん、ここにワカっちの全部の神力が入ったみたいだね。これは姉上にお返ししないとね。僕が預かるからね」
ところが、稚姫はまだ目を閉じたままだった。
「おーい、ワカ。だいじょうぶか」
軽く肩や頬を叩いてみると、彼女はゆっくりと瞼を開く。
「俺のこと、わかるか? 意識はあるのかよ?」
「……のりと」
「そうだよ、俺だよ」
瞳を潤ませた稚姫は彼の胸の中に飛び込んできた。
「徳斗、また会えてよかった!」
これまでの幼い彼女とは違い、少し背丈も伸びて胸も育ったようで、その抱き心地の違いに徳斗も思わず顔を赤らめる。
ツキヨミは両腕を天に突いて、背中を大きく伸ばした。
「これでハッピーエンドだね。やれやれ。さて、ふたりを邪魔しちゃ悪いから僕たちも帰ろうね」
三柱の神々とカラスのヤタは、アメノトリフネが待つ舟に向かって行った。
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