5-6 徳斗の覚悟
徳斗のアパートから出てきたタケミカヅチは、天空に舞う神々の舟の遣いを呼び寄せると、雲よりもはるか上空から稚姫の行方を追う。
「何か見えるか、アメノトリフネよ」
舟の先端で祈る巫女装束の女神は、下界に住まう神々の姿を観察する。
「しかし八百万とはよく申したもので……こうも神々がいらっしゃると、お探しするだけでも難儀しますね……おや、あれは?」
アメノトリフネは、眼下の大地の一角に神の気配を察知した。長い黒髪で背丈も小さく、女の子が好む下界の民の服を着ている。
「姫様のようなお姿がありましたね。放つ気も人間のそれとは異なります」
「うむ、姫様であろう。アメノトリフネよ、降りるぞ」
舟を降りたタケミカヅチ達は、長い黒髪の少女の後ろ姿を捉えた。
その特徴は稚姫のままだが、どうにも歩く姿勢や彼女が放つ神威に違和感を覚えたアメノトリフネは首を傾げる。
だが、タケミカヅチは疑いも無く少女に近づく。
「姫様、お探ししましたぞ」
すると少女は振り向きざまに煙草の煙を吹きかけてきた。
「あぁん? タケミカヅチのおっさんじゃん。あたいが姫様だって?」
「貴様、カヤノではないか。タバコはいかんと伝えたであろう? よもやお前が姫様の居場所を知っているのか?」
「おいおい、てめぇで勝手に間違えておいて、あたいのガーリーコーデもイジらないで喫煙の注意だけしてスルーかよ。髪色を黒にしてストレートにしてみたんだ、似合うだろ?」
「すまぬ。邪魔したな」
「行かせるかっての!」
カヤノはスカート姿もお構いなしにしゃがみこむと、踵を返して歩き出すタケミカヅチの足首を素早く払った。
不意を突かれた彼は前方に盛大に倒れる。
大地に伏したタケミカヅチは咄嗟に刀の柄を掴んだ。
その腕を踏みつけたカヤノは、また彼の顔に紫煙を吹きつける。
「タケミカヅチ、あんた『男は常に誠実な
「ぬぅ、仕方あるまい……今のお前は不良然としておらず、粗野な性格も隠せて、服の色合いも目に優しく、男の嗜好に寄せており……」
律儀に指を折りながら数えるタケミカヅチの声も無視して、天界スマートフォンを取り出したカヤノは、ミズハにメッセージを送る。
『ちょびっと足止めできたわ。姫様と下界の野郎を頼む』
一方、その頃。
稚姫が身を隠す、徳斗の祖父の神社。
その上空をカラスが旋回する。
止まり木を探すでもなく、注意深く何度も神社の周辺を飛び回る。
くちばしには、スーパーの袋をくわえていた。
そのまま、一気に降下すると黒髪と口髭の男性、八田の姿に戻す。
温泉旅行からの逃避行だったので、服装はストライプのシャツとベージュのズボンのままだ。
一礼して入ると、袋から食品や飲料を取り出す。
「おかえり、八田。ありがとうね」
深い黒のサングラスの奥から、恐縮そうに主人を見つめる。
おにぎりやサラダなどをそっと稚姫の前に差し出すが、彼女は昨日から食事も満足に摂れておらず、夜も眠れずに神経をすり減らしていた。
徳斗がプレゼントしてくれた首元のネックレスを握り、弱々しく虚空を見つめているばかりだった。
八田は主人のすぐ近くに腰を下ろす。
「ねぇ、八田……もうあたしのそばにいなくていいよ。姉上のところに帰りなよ。このままだと、八田まで罰せられちゃうもん」
「……御冗談を」
彼はポケットに入れてあったスマートフォンを主人に見せる。
それは先程、買い物の最中に受信した徳斗からのメッセージだった。
『アパートにも追手が来てた。トヨウケさんに任せて俺は逃げたけど、今そっちに向かってるから。何が手伝えるかわかんないけど、待っててくれとワカに伝えて』
「徳斗……のりとぉ、はやくきてよ」
メッセージを読むうちに涙を堪えきれず、稚姫は全身を震わせる。
それでも今は、下界の青年のおかげで主人の心の拠り所を得られたのに、安堵を隠し切れない八田だった。
それきり、稚姫に背を向けて建物の外に注意を払う。
徳斗の到着は待ち遠しいが、追手も迫ってるかもしれない。そうして待っている間は一向に時計の針が進まないような、とても長い時間に感じられた。
八田は社を上空から様子を窺うことにした。
再びカラスに変化すると、神社のある丘の周辺を旋回し始めた。
カヤノのしつこい会話を切り上げたタケミカヅチは舟に戻っていた。
アメノトリフネはまた目を瞑り、心眼で下界の様子を探るが稚姫の姿は無い。
一般の神々と違い、いくら未熟とはいえ相手は曲がりなりにも四貴神の末妹である。アマテラスの荒魂を分割された以上は、神力は充分なはずであった。
「これでも姫様を見つけられないとなると、何か術を張られているか、気配を消しておられる可能性がございますね」
「ならば、あの小僧を追った方が早そうだな」
「でしたら青年は先程、駅で列車を乗り換えておりますね。その先に向かう列車となると……」
アメノトリフネは心眼を閉じると、肉眼の瞼を開いて、手元にある下界の遷座先の案内台帳を閲覧する。
「これも高天原から勝手に持ち出されて……あとで庶務に怒られますよ?」
ページを送っていくと、ワ行の稚姫の項目に徳斗の祖父の神社が掲載されていた。
「やはり、あの青年の母方の祖父の社かと思われます」
「うむ。先回りするぞ」
「……それはあまりにも
アメノトリフネは検索台帳を勢いよくぱたんと閉じると、露骨に眉を寄せてタケミカヅチを諫める。
「構わぬ、行くぞ」
「……はいはい」
これだから女心のわからぬ石頭は困る――。
しかし彼女にとって疑問なのは、単純に稚姫との縁とは言えないくらいに、身を呈してまで人間の青年に協力していたトヨウケや、まるで狙ったように絡んできたカヤノの様子であった。
アメノトリフネも、あの青年に少し興味を感じ始めていた。
「下界の若者が神と触れ合う、というのも面白いものですね」
徳斗を待つその間も、稚姫は祈り続けていた。
すると、建物の外からわずかな足音がする。
稀に訪れる参拝客かもしれないので、いつも通りに息を殺して待つ稚姫だったが、拝殿に上がるための階段の木床が軋む音がする。
間違いなく、この中に向かっている。
やっと来てくれた――最も会いたかった人の姿が浮かび、涙が溢れてくる。
やがて、拝殿の木戸が開かれた。
「徳斗!」
だがそれは彼女が望んだ人物ではなかった。
「姫様、探しましたぞ」
タケミカヅチは重い足取りで社の中に入って来る。
稚姫は後ずさりをして、距離を取った。
「八田……八田はどうしたの!」
「カラスなら私が斬りました」
タケミカヅチが開いた木戸からは、彼の後方、境内の真ん中に羽を傷めて地面に伏せているカラスが居た。
口元を押さえて全身を震わせる稚姫に、彼は表情も変えず迫っていく。
「さぁ、姫様。ご出発です」
タケミカヅチは片膝をついて、稚姫に手を差し伸べる。
「いやだ……徳斗に会いたい! 天上界には帰りたくない!」
「我儘を申されますな。参りますぞ」
大粒の涙をこぼしながら首を振る稚姫だったが、それもお構いなしに彼女の手首を掴もうとした。
「徳斗! 助けてっ!」
その刹那、大地を駆ける力強い足音が聞こえた。
「てんめぇっ、このやろうっ!」
タケミカヅチの頭部に、後方からドロップキックが炸裂する。
そのまま徳斗は畳の上に背中から落下する。
怪我を省みない無茶な行為ができたのは、腐りかけた畳がクッション代わりになると、よく知ってのことだった。
わずかにタケミカヅチが動きを止めた隙に、彼は稚姫の前方に躍り出る。
「のりと……のりとぉっ!」
稚姫を抱き寄せると、タケミカヅチに向けて一喝した。
「俺はケンカとシリアスが大嫌いなんだよ! オッサンのくせに女の子を泣かせやがって、おまけに神職見習いに対して神にキックなんかさせんじゃねぇよ!」
「神職見習いが神を足蹴にしたと自ら認めたな」
タケミカヅチが刀を抜くと、刃は青白く怪しい光を放った。
最初は勢いよくタケミカヅチを罵倒したものの、恐ろしい程の殺気を纏う相手と対峙したことで、徳斗も心拍が乱れて両脚が勝手に震え出す。
「やべぇな、こりゃ。トヨウケさんでも敵わなかったのか……」
それでも腕の中にいる稚姫を背中に回し、正面に立った。
「ふんっ!」
タケミカヅチが一閃する。
空を斬った刀からは、衝撃波が発生した。
障子や畳の一部が剥がれ、建屋の材木が大きな悲鳴を上げる。
「ぬわぁっ! てめぇ、じいちゃんの神社を壊すんじゃねぇ!」
「姫様の前をどかねば、今度は直接斬る」
タケミカヅチは再び刀を大きく構える。
「下界の人間を斬ったら、法令違反だってトヨウケさんも言ってたろ! おめぇ、神様のくせにそんなことしていいのかよ!」
「これは邪魔立てをした愚かな民への神罰だ。法令違反ではない」
「そんなの裁判官みてぇな言い訳だね! 裁きは平等な神罰とは呼べねぇぞ、それにはおめぇ個人の価値観が入ってるからな!」
徳斗は自分を鼓舞するように喚きながらも、背中に隠れる稚姫に向かって小声で囁く。
「ワカは姿を変えたりとか、俺の中に憑依できたりしないのかよ」
「そんなの習ったことないよ、他の神みたいなことできない!」
じりじりと間合いを詰めてくるタケミカヅチ。
だが、彼が向かってくる足元の腐り掛けの畳を見て、ぴんと来た。
子供の頃から何度となく同じ過ちをして、祖父に怒られてきたから、すぐわかる。
だが、稚姫は何かを思い出したか、徳斗の袖を引いた。
「そこにある鏡に入ることはできるけど」
稚姫が言う鏡とは、本殿の一番奥に鎮座する神鏡。
徳斗は背中にしがみつく彼女に向けて大きくうなずいた。
「よし、合図したらそこに入れ。鏡の状態だったら俺も運び易いからな」
徳斗は近くに落ちていた、水がからからに干上がった陶器の榊立てを手に取る。
「いけ、ワカっ!」
彼の声を合図に、神鏡の中に飛び込む稚姫。
一方の徳斗は彼女が走り出したと同時に、榊立てをタケミカヅチに向かって投げた。それを易々と避けたタケミカヅチが、徳斗めがけて駆け出す。
ばきばきっ!
足元の畳の腐った部分が床板ごと抜け、甲冑を着たタケミカヅチは腰まで埋まる。
「っしゃあ! そこは特に雨が入りやすいから、ふかふかなんだよ!」
タケミカヅチが沈んだ畳から足を抜こうと難儀をしている隙に、徳斗は拝殿の奥にある台座から神鏡を掴んだ。
うっすらと反射する鏡の中には、稚姫の姿が映り込む。
「よし! 逃げるぞ、ワカ!」
稚姫は口をぱくぱくさせていた。その声は聞こえないが、笑顔が浮かぶ。
徳斗は神鏡を脇に抱えて一気に駆け出した。
「オッサン! お先にっ!」
彼はタケミカヅチの頭を踏みつけると外に向かって大きく跳躍する。
そのまま転がりながら境内に着地した。
「ふんっ!」
タケミカヅチが怒声を上げる。
その勢いで腰まで埋まった下半身を、一気に引き抜く。
「マジかよっ、もう出てきやがった!」
先程の声に気を取られて、わずかに視線を戻した時だった。
タケミカヅチの周りには幾重にも、氷の刃が浮かび上がる。
それが一斉に徳斗に向けて高速で放たれた。
「うわっと!」
鏡を胸の中に抱えながら、前転して大地に伏せる。
すぐ頭上を空を斬る音がして氷の刃が通り抜けていくと、はらりと彼の髪が落ちてきた。
「おいおい、逆モヒカンになってないだろうな。ちくしょう、ホントにヤバい!」
倒れていた徳斗に向かって、タケミカヅチが猛然と駆け寄ってくる。
「うわぁっ! やめてくれよ!」
彼は慌てて飛び起きて、駆けだそうとする。
「はっ!」
タケミカヅチが咆哮を上げて、刀を一閃した。
「ぬわっ!」
斬られた徳斗はバランスを崩すと、神鏡を放り出して地面に転倒した。
「なんだ……力が入らねぇ……」
肉体に怪我は及んでいない。出血もしていない。
ただし、全身が高熱に浮かされたように激しい倦怠感と頭痛に見舞われ、視界もぼやけてくる。そしてまるで身体じゅうの筋肉が失われたように手足が重くて、言う事をきかなくなっていた。
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