5-3 稚姫の逃亡

 タケミカヅチとアメノトリフネを乗せた天界の舟の眼下には、目的の下界の街が見えてきた。

「タケミカヅチ様、間もなく到着いたしますよ」

「なんだ? やはり舟は進んでいるではないか」

「ですから、先程はお戯れと申し上げましたでしょうに」

 都心の郊外にある住宅街に目標を定めると、二柱は舟の外に降臨する。

 タケミカヅチとアメノトリフネは、小さなアパートの門の前にやってきた。


 そこに立ちはだかるように、人影がある。

「あら。久しぶりね、タケミカヅチ。出雲の合議には顔を出さなかったわね。相変わらず<ことあまつ神>の下でコソコソしてるのかしら?」

 アパートの門の奥には、トヨウケが立っていた。

「それにしてもタケミカヅチとアメノトリフネが一緒だなんて、出雲を陥落させて葦原あしはらの中つ国を平定する時以来じゃない? そんなに重苦しい所じゃないわよ、この時代のここは」

「どけ、トヨウケ。姫様に御用があって来た」

「無粋よねぇ、タケミカヅチは。もちろん、わたくしも立場はわきまえているわ。でもそれが姫様の望んでおられる事かしら、って言いたいのよ?」

「関係ない。我は<ことあまつ神>の下知に従ったのみだ」

 肩をすくめるトヨウケの脇を通り過ぎると、タケミカヅチは稚姫が住む部屋の扉を叩く。

「姫様……失礼いたします。タケミカヅチでございます」

 だが、室内からは何の反応も無い。

「姫様。戸を開けてくだされ」

 やはり、室内は無言を貫いていた。

「御免」

 タケミカヅチは扉を開こうとドアノブを握る手に力を入れる。

 だが鍵が掛かっていたのか、ガタガタと物音を立てるだけで扉は動かなかった。


 トヨウケは彼の有様を見て堪えきれずに吹き出す。

「相変わらず堅物でダサいわねぇ、タケミカヅチは。そんなんだから下界に降る時も、待ち合わせの時間を間違えて勝手にひとりで降りちゃうのよ。置いていかれたフツヌシは泣いてたわ。ふたつある下界の神話の片方から自分の名前が完全に消えちゃったんだものね」

 トヨウケの『堅物』という言葉に、アメノトリフネも溜飲を下げた明るい表情を浮かべた。

 対して、タケミカヅチはわずかに怒りの色を湛えて、トヨウケの正面に立つ。

「姫様はどこだ」

「知らないわ。わたくしも心配で来てみたら姫様が留守だったのよ。あわよくば助けてあげたいかな、なんて思ったけどね。でも隠し事なんかしてないわよ」

「素直に吐け」

「ご立派な自分の神力で姫様を探せばいいじゃない? それとも姫様を見つけられないのは、普段、高天原にいるせいで下界に来ると、神威や精神波の感度が鈍るせいかしら?」

「知っているのなら言え。言わねば……」

 タケミカヅチは腰の刀の柄に手を添える。

「言わなきゃ斬るっての? 男尊女卑って本当いやね、頭の堅い古侍は。それとも曲がりなりにもアマテラス様のお隣の社に鎮まるわたくしが、そのなまくらで斬れると思ってるの?」

 突然にトヨウケの髪は波打ち、彼女の足元からは植物の根や蔓が伸びてくる。

 タケミカヅチも刀の柄を握る手に力を込めると、鋭い氷柱が大地の奥底から何本も迫り出す。

 目の前で上位神による対峙が始まり、肌がひりつき胃がきしむような緊張感に、アメノトリフネは早くこの場から家に帰りたいと、心底願っていた。

 しばらくは眼光鋭くトヨウケと向かい合ったタケミカヅチだったが、目を瞑るとゆっくり刀から手を離す。

「女は斬らぬ主義だ……ゆくぞ、アメノトリフネ。舟から探す」

 アメノトリフネはトヨウケに一礼して、タケミカヅチの後を追って行った。

 そのまま去っていく二人の背中を見ていたトヨウケは、大きく息を吐き出す。

「あいつと本気でケンカなんかしたら、わたくしも危なかったわ……それにしてもまずいわね。あいつらがうろうろしてるなんて。いったい姫様と坊やはどこに行ったのかしら?」



 時間を戻した夜の出雲。

 稚姫と八田は、出雲から東京へ向かう飛行機にいた。

 窓際の席についた稚姫は、ぼんやりと日没後の外を眺める。

 離陸してしばらくすると、地上の灯りはすぐに見えなくなっていった。

 隣に座る八田が、主人を案じて声を掛ける。

「心配するなって。これでしばらくは姫様の時間が稼げるんだからよ。だからお前も少しは休んでおけって」

 稚姫も不安げに、か細い声を出す。

「わかってるよ。でもこんなんで上手くいくとも思えないんだよな。ワカがいつまでも逃げきれるとも思えないし……」

 彼女は宿で交わした会話を思い返すと、深い溜息をついた。


 それは、つい先程のこと。

 宿の庭に面した大きなガラスを鳴らしたのは、出雲大社に居たシロウサギだった。

 鼻先で何度もとんとんとガラスを叩いている。

 他の宿泊客に見られぬよう徳斗たちは近くのガラス扉から散歩用の草履を履いて、中庭に出た。

「お前ら、呑気に飯食ってる場合じゃなさそうだぜ。姫様が危ないってんだよ」

「どういうことだよ、ウサギ? やっぱり合議でなにかあったのか?」

「出雲の旦那に確認したら、姫様のお沙汰が決まったんだよ。天上界への強制送還と、アマテラスの姐御あねごへの荒御魂の返還だとさ」

「おい! それってどういうことだよ!」

 稚姫は天上界へと戻り、アマテラスにその力を還すようだ。

 だが、彼女が荒御魂として姿を消すのか、一介の神として出直すのかは、今の徳斗にはまったく予想できない顛末だ。

「……マジかよ」

 徳斗は怒りで両の拳をぐっと握るが、稚姫は声も出せず、全身を震わせる。

「なんで急に決めるんだよ、そんなこと! もっと猶予があってもいいだろう! 時間を掛けてワカに下界で修行させればいいじゃねぇか! まだワカが下界に来てからひと月も経ってないってのに!」

 徳斗はやり場のない怒りをシロウサギに向けた。

 稚姫は堰を切ったようにぽろぽろと涙をこぼした。

 そのまま徳斗の胸に飛び込む。

「いやだよ、あたし帰りたくない! あたし、まだ徳斗と一緒にいたい!」

「ワカ。そりゃ俺だってお前を助けてやりたいけどよ……」

 徳斗は掌で稚姫の頭をそっと包んでやる。


 するとシロウサギが、両脚をだんと踏み鳴らす。

「落ち着けよお前ら、急げって言ってるだろ。時間が無いんだよ。出雲の旦那が手引きしてくれるって言うからよ。話に乗っかった方がいいぜ」

「だいじょうぶなのかよ、その話は。神様全体の合議で決まったんじゃねぇのか? その出雲の神様だって、言わばサミットの開催地のひとだろ?」

 シロウサギは鋭い前歯を見せて笑う。

「むりやり平定へいていさせられたんだぜ? 出雲方の中には、まだまだ大和やまと方を良く思ってねぇ神さんも居るんだよ」

「あとはワカが隠れるところでもあれば、だな」

「どっかの目立たない社の中に鎮まってた方がいいな。合議も終わって、下界にはもう他の神さんも大勢いるから、敵の目を攪乱できるかもしれねぇ」

 社と聞いて徳斗はぴんと閃く。

 祭神のことまでは聞かされていなかったが、彼女が下界にやってくる際の社のひとつだと言うことだし、今は管理もされておらず逃げ隠れるなら最適な社がひとつだけ思い当たった。

「ワカ、俺のじいちゃんちの神社に隠れてろ。じいちゃんも入院中だし、あそこなら滅多に人も来ないだろ」

 シロウサギが小さく飛び跳ねると、長い耳の中から小さなわら人形のような物が落ちてくる。

「姫様は青柴あおふしで出来た人形ひとかたを持ってな。しばらくは同族から気配を消せるはずだ。あと小僧はこっちな」

 徳斗には、なにやらどろっとした液体の入った小瓶を渡される。

「姫様と繋がったまんま、一気に飲みな」

「……これだいじょうぶかよ、まるで毒みたいな色なんだけど。ぜったい美味くないよな?」

 小瓶の中の液体の匂いを嗅ぐと、得も言われぬ独特の臭気に顔を歪める。

 稚姫はそんな徳斗を鼓舞するように、ぎゅっと抱き返す。

「はぁ……いくぞ」

 徳斗は呼吸を止めて瞼を閉じると、小瓶の液体を一息に飲み干した。


 だが、徳斗が液体を飲み終えてもいったい何の変化が起きたか全くわからない。

「おい、この効果って何なんだよ?」

「すごいよ、徳斗! 鏡みたい!」

 目を開くと、なにやら稚姫の目線が自分と同じ高さになっている。それでも彼女が何を言ってるのか理解できずにいたが、日没を過ぎて宿の屋内の照明を反射させたガラスに映った自分たちの姿が目に入った。

 そこにはシロウサギと八田。そして稚姫が二人。

「んげっ! なんだよ、これは! 俺がワカになってるじゃねぇか!」

 先程はすぐに違和感を理解できなかったが、自分の耳に伝わる声も男の低い声ではなくなり、稚姫とおぼしき甲高いものだった。

「これで、お前が姫様のカモフラすんだよ。んで、後はこうすりゃ完了だ」

 シロウサギはくるっとバク転をすると、昼間の私服だった八田へと姿を変える。

 まるで双子が二組いるような、奇妙な四人組の状態となった。

「すげぇな。でも声はウサギのまんまだな」

「俺は単なる変化だからな。さ、二手に別れてさっさとここを出ようぜ」

「なんだよ、お前はわざわざ俺たちに付き合ってくれるのか?」

「ウサギなんてのは気分屋なんだよ、気にするな」


 荷物を取りに部屋へと向かう稚姫と八田の二組だったが、徳斗はふと気がつく。

「ちょっと待ってくれよ。これいまワカの姿で浴衣のままなんだけどさ、ワカの服とかってどうすりゃいいんだ。浴衣で逃げるのも変だろ」

「姫様の服を借りりゃいいだろ?」

「あとさ、トイレ行きたくなったらどうすんだ?」

 途端に顔を赤らめて、稚姫は自分の分身に向かって殴りかかる。

「ダメ! 徳斗、ぜったい見ちゃダメ!」

「そうは言っても不可抗力だろ、どうすんだよ!」

「おトイレの時は目隠しして! 耳もふさいで、大声で歌って! このあとお部屋に入ったらすぐに洋服に着替えるからね!」

 稚姫ふたりは別の和室に入り、ひとりは両目を浴衣の帯で縛られた状態で、もう片方がトランクケースに入っていた洋服に着替えさせる。

 目隠しされた状態で浴衣を剥かれて下着一枚のあられもない姿になったと思われる瞬間は、徳斗も緊張で息を吞むが、無意識に暴れ出す男の下半身の荒魂が無いだけでも安心というものだった。

「もう目隠し取ってもいいよ、徳斗」

「おぉ、スカートってスースーするな。女子はこんなもん穿いてるのか」

 別室で待ちぼうけを食らっていたシロウサギは、八田の姿のままウサギの頃のように後頭部を搔いていたが、着替えを終えた二人の稚姫を見ると両脚を揃えて居ずまいを直す。

「準備はいいか? ほんじゃさっさと出ようぜ」



 本物の稚姫と八田は、出雲神の従者の手引きによって海岸にやって来た大和邇おおわにの背に乗ると、海路で徳斗の祖父の神社を目指す。

 一方の変化したシロウサギと徳斗は、空路で一旦アパートに帰ることにした。

 やがて、彼らの乗る飛行機は羽田に着陸する。

 夜遅くには都心のはずれの自宅アパートまでやって来た。

「さて。これから、どうするかね? 俺達だけじゃ何にも意味ないよな。かと言って助けになってくれそうな神様も思いつかないな」

 徳斗が知る者と言えば、トヨウケかミズハノメくらい。

 兄のツキヨミは四貴神としての立場もあるので、無理強いはできない。

 徳斗はスマートフォンの時計と時刻表を見る。

 まだ終電までには少し時間があるので、トヨウケの農場に向かうことも出来た。

「しょうがねぇか。トヨウケさんに甘えちゃおう」

 長い黒髪を掻き上げながら、徳斗はシロウサギに移動を促す。

「昼よりは移動が目立たないから、これから知り合いの神様のとこに行こうと思うんだよ」

「俺は構わないよ、どこでも」

 シロウサギも八田の姿でひょいと肩をすくめた。

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