5-2 出雲の白兎

 稚姫の希望で、敢えて神在月の合議が行われている出雲の社にやってきた徳斗。

「うーん、たぶんこっちの方だと思うんだけど」

 彼女はまだ周囲をきょろきょろと窺いながら、境内の中にある庭園の先、立ち入り無用の境界から奥へと入ろうとする。

「こらこら。他の人間にはワカがぱっと見で神様だってわかんないんだから、見つかったら怒られるぞ。まずは近くに神様たちが居るかどうか、ここから知る方法はないのかよ?」

「そっか、八百万やおよろずもうじゃうじゃいたら、あたしにも神力の気配がわかるよね。調べてみる」

 目を瞑り、両指を組んで祈り出す稚姫。

 やがて瞼を開くと、首を傾げる。

「兄上や姉上だけじゃない、誰もいないよ。何にも感じない」

「えっ? もう終わっちゃったってことか?」

「どっかで、お昼寝かな?」

「昼休憩でも昼寝でも、どっか近くに居たらわかるだろ? 昼間は隠れてるってこともないよな。じゃあもうホントに終わっちゃったのか?」

 もしや、稚姫に関しての沙汰がすでに決まり、解散となったのだろうか。

 徳斗も悪い想像ばかりが頭をもたげる。

「せめて、ここの出雲在住の神様に聞いてみたり出来ないのか?」

「そうだね、どっかにいないかな」

 改めて稚姫は周囲を見回した。


 すると、境内の庭園の奥に全身が白い被毛で紅い瞳のウサギが見えた。

「あ! シロウサギさん、みんなはどこに行っちゃったの?」

 稚姫は無邪気にウサギに向かって声を掛けた。

 茂みの奥を歩いていたウサギは、立ち止まって稚姫に顔を向ける。

「なに言ってるんだよ、もう終わってみんな帰ったよ。おっせぇな、お前はどこの神だよ。遅刻や欠席は減点だって知ってるよな?」

「ぬわ! おい、ウサギが喋ったぞ!」

 徳斗は目を丸くして、ウサギを覗き込む。

「そうだよ、出雲の神使でシロウサギさんだよ」

「あぁ、そういうことか。あのサメを騙して、皮をひん剥かれたあいつね」

 徳斗が記憶している神話を語り直すと、ウサギはぷすーっと鼻息荒く歯を見せながら、両足をどすんと地面に叩きつける。

「おい、そこの小僧。なかなかな口を利くじゃねぇか。俺のトラウマを思い出させるとはよ。ノロマなお前と勝負してやってもいいんだぞ?」

「いいよ、今は急いでるから。やっぱ嘘はついちゃいけないってことだよな。ありがたい体験談を聞かせていただいて下界の民は感謝してます、はいはい、それじゃな」

 徳斗のおざなりな返事に、シロウサギはまたも両足で大地を踏みつける。

「なんだか、隣に神さんを連れてるからって、人間の分際で調子に乗ってやがるな。よぉし、これから俺と駆け比べだな。あの小山のふもとまでどっちが先に駆け着くか競争な」

「お前が有利な競争をお前から持ちかけるなよ。ふつう亀から言い出すんだろ?」

 稚姫は、しゃがみこんでシロウサギの背中を撫でる。

「でも、あたしたちホントに時間ないから、ごめんね」

 すると彼は――言葉遣いが荒いし、一人称が『俺』だから、たぶんオスなのだろうと徳斗も思っていたが――ごろんと身体を大地に横にした。

「……ちっ、しょうがねぇな。嬢ちゃんの頼みだからだぜ」

 捨て台詞を言いつつも足と背中をぐっと伸ばすと、おとなしく撫でられていた。

「じゃあシロウサギさん。またね」

 急に撫でるのをやめて手を振って別れる稚姫と、それに併せて歩き出す徳斗と八田に、シロウサギは慌てて立ち上がる。

「おい、いいとこだったのに嬢ちゃん!」

 神と人間の奇妙な一行を見送りながら、彼は撫でられたところの毛並みが気になるのか、ぶるぶると全身を震わせた。頭を振った際に両耳がぺちぺちとぶつかり合う音がする。そのまま首を傾げるついでに後頭部や首元を後ろ足で掻いた。

「あの嬢ちゃんは、確かアレだよな。アマテラスの妹っていう……なんで呼ばれてもいねぇのに、ここに居るんだよ。うぅむ、オオクニヌシの旦那に報告しといた方がよさそうだな」

 大きく跳躍して茂みの中に入ると、一気に駆け出していった。



 電車を乗り継ぎ、やって来たのは玉造温泉たまつくりおんせん

 今日の宿泊地だ。

 小さな清流を挟んだ両側は遊歩道として整備され、宿や飲食店が軒を連ねる。

「おぉ、いかにも温泉街って感じするじゃん」

「徳斗! はやくお部屋に行こうよ!」


 八田が予約した宿にチェックインをすると、部屋へと案内される。

 畳の部屋が二つ、藤の素材で作られた座椅子が置かれた広縁、さらにはベッドもあるという三人で利用するには充分な広さの和洋室だった。

「うわっ、ちょっと奮発し過ぎじゃねぇの? 八田さん、予算はだいじょうぶかよ」

 八田も下世話な金銭の話には全く乗ってこないで、肩をすくめるだけだった。

 仲居が、部屋の説明をする。

「あとこちらは源泉かけ流しの露天風呂つきのお部屋になっておりますので、ご家族で入れますよ」

「うそ、やだ。あたしと一緒に入れるって……どうする、徳斗?」

 顔を赤らめてもじもじとする稚姫に気づかず、彼は八田に声を掛ける。

「さて、八田さん。まずは汗を流そうぜ。さっそく大浴場に行こう」

「えっ? ここのお風呂に入らないの?」

 徳斗も豪華にしつらえた室内の風呂を見て、困惑した様子を浮かべる。

「外からはともかく、こんな室内から丸見えの風呂、俺らオトコだってなかなか恥ずかしいもんだぜ? ワカなんか見られるのゼッタイ嫌だろ?」

 名残惜しそうに風呂場を見る稚姫は誰にも聞こえないように、小さくぽつりとつぶやく。

「タオル巻いた状態なら、徳斗と一緒でも我慢できたのにな……」

 そんな彼女にはお構いなしに、浴衣と手ぬぐいを持って男性陣はさっそく大浴場へと向かう準備を始めた。

「それじゃ、ワカ。俺らは風呂に行ってくるからな」

「待って! あたしもお風呂に行く!」


 それぞれ男湯と女湯に別れた、しばらくのち。

 ふたたび合流した大浴場の前の自動販売機コーナー。

 浴衣に着替え、身体の火照りを冷ますように座る三人が居た。

 自動販売機コーナーのアイスクリームを一口食べて、至福の笑顔を浮かべる稚姫。

「あったまって冷たいの食べるとおいしい!」

「いかにも女子だよな。こういう風呂上りは、やっぱ牛乳だろ」

 本当はいちご牛乳も捨て難かったが、徳斗は結果的にシンプルな物を選んだ。

 八田も上気して曇ったサングラスのまま、缶ビールを煽っていた。

 湯浴みと酒で顔をわずかに赤らめて、大きく吐き出した息で口髭を揺らす。

「旅はいいよな。計画の時が一番楽しくて、旅の最中はもちろんずっと楽しいんだけど、やっぱり盛り上がってくると、帰る時のことを考えちゃってダメだよな」

「徳斗、つまんない。もう帰ること考えてるの?」

「俺はあんまし過去に縛られないタイプなんでね」

 稚姫は不満そうにアイスを食べていたが、改めて自身の腕や頬を触る。

「でも、ここのお湯はすごいお肌つるつるになったね。ほっぺがすべすべ」

風土記ふどきなんかにも書いてあるだろ。大昔から美肌効果があるみたいだな」

「おわ。じゃああたし、美人になったかもしれない」

 もうすでに黙っていても美少女。そんな神族の頂点、四貴神である稚姫が言っても嫌味に聞こえないのが彼女の良さだった。

「徳斗のほっぺもすべすべ?」

 最初は無意識に手を伸ばして彼の頬を撫でていたが、互いの顔が近いことにはっと気づいた稚姫は顔が真っ赤になる。

「なんだよ、俺の肌はどうだった?」

「……お風呂でたあとの男の人の匂い」

「俺の体臭って、そんなに気になるわけ? 割と地味に自信を失くすんだけど」

 缶ビールの最後のひとくちを名残惜しそうに傾けた八田が、何かに気づいたかのように腕時計を見せてくる。

「やべっ、もうじき夕飯じゃん。そろそろ部屋に戻ろうぜ」

 三人は迫る夕食に備えて、立ちあがった。

 その時、庭の見える大きなガラスを叩く音がした。

 徳斗が物音に気づいて振り返る。

 宿の外には、白い毛のウサギが建物のすぐ近くに座っていた。



 同日、時間は遡って陽もまだ高い午後。

 天空遥か高く。

 飛行機よりも雲よりもさらなる高みを、一艘の舟が飛んでいる。

 太陽を反射するでもなく、自ら黄金色の輝きを放つ大きな舟。

 舟の内部では、巫女の装束に身を包んだ娘が立っていた。長い黒髪を腰の下までおろし、長く蓄えた睫毛のある瞼を閉じて祈っている。

 その後ろでは、仁王立ちで瞬きも少なく前方を見据える鎧姿の男。

 彼は戦国時代のような甲冑でその身を包んでいた。

 さかやきのように頭頂部を剃り上げていない長い総髪に、たっぷりと蓄えた口元と顎の髭、腰には長物の刀と脇差を持っていたが、兜は着けていない。

 まるでこれから戦場いくさばの本陣で行われる軍議に参加する武者のようないで立ちで、険しく眉を寄せると、鋭い眼力で舟のゆく前方を見つめていた。


 舟の先端に居た巫女装束の女性が、鎧の男に声を掛ける。

「よもや、またタケミカヅチ様とともに下界に降る日が来ようとは……幾年ぶりですかね」

 タケミカヅチと呼ばれた男は、腕を組んで正面を見たまま微動だにせず答える。

「口より手を動かせ、アメノトリフネよ。無駄な時間はないのだ」

「自動運転ですから、喋っていても到着いたしますよ」

 そんな返答を受けても、微塵もぶれないタケミカヅチ。

「ならば、もう少し速度を上げるように指示せよ」

「どうせ乗っているだけで目的地に着くのですから。もう少し心の柔軟さと申しますか、お戯れのひとつに、言葉の突き返しか、合いの手にとぼけてみるくらいは覚えて頂いても、よろしいのではございませんか?」

 巫女装束の女神、アメノトリフネは嘆息をする。

 どうして自分がこの堅物とまた仕事をすることになったのか、天上界の舟を操るこの仕事もそろそろおいとましたいのに、はやく下界で社にでも鎮まってゆっくりしたいものだ、と心底願っていた。


 すると唐突に眉間に力を入れるタケミカヅチ。

 相手は冗談も通じない真面目な堅物だから、少し軽口を叩いたり無闇に溜息をついたことで怒らせてしまったかと、アメノトリフネもにわかに緊張する。

「なるほど、噂に聞く下界のボケとツッコミなどという俗物か……では、先程は何が正解だったか、そなたが申してみよ」

「それをお考えになるのが、愉しみのひとつでございます」

 タケミカヅチはしばらく顎髭を撫でながら思案してみたが、これまでギャグなどを言ったこともないので、当然ながら良い答えは出てこない。

「……そうは言うが、待っていても全く浮かばぬな。これでは先に進まないではないか」

「お見事。中々のお答えでございますよ。実は舟の中で到着を待っているのに、全然舟が浮かばずに進んでいないと思い込んでいる設定なのですね」

「……そうだったのか?」

「そこで私が『いや、動いてますやん』と突き返しを言いますので。畳みかけるようにタケミカヅチ様が惚けていただくのです」

「うぅむ……動く、動くだと……」

 緊張迫る下界に天降あめふる舟の中には、雲の上の陽光に照らされて、しばしののどかな時間が流れていた。

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