1-2 高天原での出来事

 天空遥か高く、雲よりもさらに高みにある世界。

 そこは神々が住まう天上界の楽園、高天原たかまがはら

 その中でも、特に広大かつ荘厳な趣の邸宅が構えてあった。

 若々しい白木で造られた建屋。

 敷地には果てなく広がる庭園。

 その庭に面した廊下も、地平の先まで続くかと思わせる程に長い。


 そこの木床を力強く歩く、勇ましい足音。

 女性の細い足から発するとは思えないくらい、足音の主は相当に神経質になっている。

 だが、幾重にも纏った色鮮やかな薄衣が乱暴に擦れる音も負けてはいない。

 髪の一束を頭頂部でそれぞれふたつ輪にして結わき、さらに下肢のあたりまで伸ばした長い黒髪を振り乱しながらも、館の使用人に向かって声を上げ続ける。

「どこに行ったのだ、あやつはっ! 誰ぞ、妹をここへっ!」

 女主人の声を受けて、女中じょちゅう達が慌ただしく走り回っていた。


 やがて、目の細かな青々とした畳が敷かれた謁見の間に到着すると、女主人は上座に静かに腰を下ろす。

 肝心の当の『本人』は、炊事場の裏庭で焼きイモをこしらえているところを家臣に見つかり、ずいぶん時間が経過してから誘導されてきた。

「姉上、また実りの秋になりましたね! 焼きイモが上手く焼けました」

 呼びつけられた稚姫は、無邪気な笑顔を浮かべる。

 女主人と同じく色とりどりの薄衣を重ね、艶やかな黒髪を伸ばしていたが、まだ目鼻立ちや顔つきもあどけなく、肩幅や胸の大きさも女性と呼ぶには華奢だ。

「姉上にもおやつにどうぞ」

 稚姫は焼けたイモの半分を差し出した。

 上座に控える女主人は嘆息を漏らし、頭を抱えた。

「なぜに、そなたはそんなに呑気でいられるのだ……」

 扇子で木床をぴしゃりと叩き、強い目線で彼女を諫める。

「そなたに、任せた仕事はどうなった! この間にまたも下界は大混乱であるぞ!」

 だが、姉の言う意味をすぐに理解できず、考え事をしながら焼きイモをかじる。

「人の話を聞いている時は、イモを食うな! 私が指示した仕事も忘れたのか!」

 それを聞いた稚姫は、合点がいったと表情を明るくして話し出す。

「あねうへ、ほれは、あれのおろれふね」

「イモを飲み込んでから喋れ! それに立って食事をするなど……そうではない、私が上座についておるのに、お前は立ったまま会話をして失礼だと思わぬのか!」

 着座を促されると、稚姫は焼きイモを飲み込んでから座る。

「何をそんなに怒っておられるのですか? また、お悩みですか? 空腹は精神にあまりよくありませんよ。胃も荒れますから。焼きイモならここにありますけども?」

「ただでさえ悩みごとが多いというのに、そなたがしっかりしてくれないと、姉としてはもう耐えられぬのだ。食欲も消え失せて、こう……胃のあたりがジワッと熱くなるのだが……私の言うことがわからぬか?」

「姉上は、心配性すぎます。もっと肩肘を張らずにのんびりと……」

「誰のせいで、私は悩んでいると思っているのだ!」

 言葉を遮るように説教されてしまい、彼女はしょんぼりと肩をすぼめると、上目遣いに姉の顔色を窺いながら、焼きイモをまたかじる。

「……そなたがきちんと仕事をしないから、下界は日照不足で作物が不出来なのだ。太陽神である私の妹なら、何故にうまく出来ないのだ」

 稚姫は、託されていた業務をすっかり忘れていた事を思い出す。

 天界に居ると、完璧な姉がやってくれるからとつい甘えてしまい、気づけば忘却の彼方へと、放り出されてしまうのだった。


 太陽神の姉は、神々の世界の女王でもある。

<ことあまつ神>と呼ばれる古老の神々が意思決定を行い、奇跡や加護・託宣たくせんの配分量、下界の民草に施す神威しんい、所属する神たちの配属、やしろの配置までを裁定しているが、それに掛かる天上界の実務は全てこの太陽の女王に任されていた。

 まして彼女は、それらの管理業務に加えて、自らの神威である太陽の活動までをも司る、プレイングマネージャーだ。

 手が足りないために妹に太陽の管理を任せていたのだが、残念ながら彼女はまだ幼く、加えて注意散漫で奔放な性格のため、繊細な維持や微調整が難しい。

 それゆえ、下界はすっかりと天候が崩れ、太陽はその活動を衰えさせていた。


 太陽神は胃の痛む腹部を押さえながら妹を諭す。

「よいか、これでは私の代わりを任せる事もできぬ。それだけではない。四貴神の名に恥じぬだけの働きをせねば、そなたは不要であるとの烙印を押されてしまうのだぞ。我ら神は、民とともにって初めて神として認められるのだ。わかるか?」

「あたしはもう姉上と同じ神ですよ? 認めて貰う必要はございますか?」

 姉の話がいまいち理解できない稚姫は、首をくいと傾ける。

「活動を停滞させている太陽の様子とその原因を監視し、太陽の動きをよく制御せよ、と伝えたではないか! 民の暮らしに障りない光と熱を届けろ、と申したであろう!」

「まだ陽が足りませんか? 民の要求も難しいものですね」

「まぁ、よいわ。そなたに改めてもう一度、同じ指令を伝えるぞ」

 太陽神は咳ばらいをひとつすると、間をたっぷり持たせて勿体ぶる。

「……それはどのような内容ですか?」

「私が喋るまで待っておれ! せっかく無言の間で緊迫感を煽ってお前を委縮させようとしたというのに……改めてもう一度、同じ指令をと申したであろう。太陽の監視と制御、民に障りない暮らしぶりをさせるための業務だ」

「わかりました! また姉上の代わりになれるよう頑張ります!」

「それだけではないぞ」

 今度は横やりを入れられないように、すぐさま上座から扇子を妹に向ける。

「そなたが活動するのは、ここ天上界ではない。下界にいくのだ!」

「えっ、姉上。あたしは先日、外宮げくうを追い出されて帰ってきたばかりなのにまた下界に行くんですか? ここでは出来ないのですかっ?」

「先日と言っても千五百年近く前であろう! 天界に戻って来たら来たで、私の仕事を間近で見て教わるなどと言って全て任せおって……おかげでこの頃ちまたに流行るのは疫病、洪水、飢饉、日食……少しは困っている民の様子でも間近に見ておれ!」

「でも、下界にはあたしの社がほとんどないから、活動するにも、こないだまで住めていた社も取り潰しになっちゃうし、その他のところは社替えで他の神が……」

「そなたがぼんやりしておるから、信仰も失って、民からも忘れられて、社替えをされるのであろう! そのうちに下界の民の神話からもされるぞ!」

「ですが、姉上……」

 稚姫はさらに何かを言い返そうとしたものの、姉からの鋭い視線を受けて言葉をつぐむ。

 そしておざなりに一礼し、そのまま駆け足で去っていく。


 そんな妹の後姿を見送った太陽神は、深い嘆息をしながら天を仰いだ。

「ホントに私と血を分けた妹なのか……いや、元は私と一体であったとは思えぬ。かと言って弟達も立ち回りが上手いとは言えぬし、<ことあまつ神>はうるさいし、私は境遇に恵まれてなさすぎるであろう。おぉ人事じんじよ……」

 考えれば考えるほどにまた、みぞおちがじんわりと熱を帯びてくる。

 悩みを払うように頭を左右に振り、手元にある小さな紙の包みを開いた。

 水差しから注いだ椀の水と共に、包み紙の粉薬を飲み干す。

「また胃薬を頓服してしまった。これで次の食前まで飲めぬ。用法容量を守って服用するくらいでは足りぬぞ、まったく……」

 小さな紙の包みを丸めて膳の上に放ると、二度大きく手を叩いた。

「ヤタ! どこにおる!」

 館の中庭に飛来した三本足のカラスが着地すると、サングラスを着けて黒髪を後ろに流し、口髭を蓄え、黒のネクタイとベストに上下とも黒のスーツに身を包んだ男性に姿を変える。

「あやつの後見を頼む。妹が上手く立ち回れるか、助けとなってやって欲しい。聞けば下界に新たなあやつの社が出来るそうだ。そこも確認をするのだ」

 男は無言で頭を下げると、再びその姿をカラスに変え、飛び去って行った。

 太陽神は庶務机に頬杖をついて、深く息を吐いた。

「まとまった休暇でも取って、また岩戸にのんびり隠れたくなるわ……」


 その頃、稚姫は縁側に座り、ぼんやりと庭を眺めていた。

 米菓子を撒くと雀が数羽ほど降り立ち、一生懸命についばんでいる。

「どうしよう、あたしこれからまた下界に行けって……」

 思い返すほどに腹が立ち、頬を膨らませて菓子を投げつけると、雀が驚いて逃げていく。

「んもう! あたしがどうしたらいいのか、教えてくださいよ、姉上!」

「……姫様、よろしいですか?」

 その時、『庶務』と書かれた腕章をつけた女中が寄ってくる。

「姫様が天降あめふられる下界のお社を早急にお探し頂けますか。なお検索台帳の使用時間はお一人につき六十分となっておりますので、時間内に見つからなかった場合はご返却のうえ、また使用許可申請書にご記入をお願いいたします」

 言い終えると、一冊の本を手渡す。それは先程の黒服に姿を変えたカラス、ヤタが手配したもので、下界に降りて活動する神々へ向けた、遷座せんざ先の案内をする台帳だった。

「もう、あたしの社は下界にほとんど無いんだもん。勝手に社替えさせられたり、別のやつが祭神とかってなってたりして、ほんとに冷遇されてるんだから。太陽神である姉上の妹だってのに、こんなのおかしくって頭にきちゃうじゃない!」

 同調するでもなく、淡々と業務をこなした庶務の女中は頭を下げて去っていく。


 それにも腹を立てながら、稚姫は米菓子をバリバリと頬に詰め込んで、台帳のページを乱暴にめくる。

 ところが、五十音順でインデックスの付いた神々の名称のところで、自分の覧にはほぼ滞在先の社が限定されており、自分の下界での人気の薄さにあらためて肩を落とす稚姫だった。

 成績がトップクラスの神の中には、全国に数万社という神社が記載されており、それを見ると思わず嫉妬をする。それは神託しんたくや加護や奇跡、信仰する民の庇護ひごといった、日常業務を着々とこなしている証しでもあるのだ。


 そんな中、ひとつの社に目が留まった。

 ただし『入居期間未定』と注意書きがされた、レビューが星ひとつの社だ。

 イメージ画像は二つあり、ひとつはやや年期の入った片田舎の寂しげな神社。

 もうひとつは、もはや神社でもなく、よくある下界の郊外の安アパートだった。

 神主かんぬしは人間界にしては珍しく、若い青年が写っている。

 歳を重ねた下界のおじさんよりは、若い神主のほうがいいが、それ以上に彼の写真を見て、心根の良さを感じ取った稚姫は、笑顔を浮かべる。

「やった! 久しぶりに台帳を見たらすごい掘り出し物があったじゃない! ここにしようっと。おーい、ヤタ!」

 彼女が両手を叩くと、庭にカラスが舞い降り、途端に黒服の男性が姿を現した。

「ヤタ! あたしここに行くから、準備しといてよ」

 嬉々としてパンフレットの該当部分を指し示す。

「ここがこれから、あたしの社だよ!」

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