幸せを喰らう怪物
唐突に、ハーメルンの視界が揺れた。何の前触れもなかった。否、正しくは彼はそれにただ、目を背けていただけだ。
(苦しい……)
壮絶なのどの渇きと同時に、ハーメルンは呼吸が上手くできなくなって、近くにあった柱にもたれかかった。
悲鳴を上げたくなるのに、声も出ない。思いつく限りの体調不良がぐちゃぐちゃにかき混ぜられたような不調が、ハーメルンの身体を蝕む。
口の中に鉄の味が広がって、ハーメルンはえずいた。別に、血の味が気持ち悪かったわけではない。そんなものは、何度も味わっている。何度も、嚙みついて、喰らっている。
(――何を、だ。ぼくは、人間を喰うなんて、そんな変態じゃない)
ハーメルンは違和感のある思考を振り切るために、かぶりを振った。唇を強く噛んで、ハーメルンはこの苦しみを耐え抜こうとした。
じわ、とまた口の中に鉄の味が広がる。これはまずい。自分の血は、何度飲んでもまずい――。
(血液なんて、どれも全部同じだ! おかしなことを考えるな!)
縋りついた柱にハーメルンは頭を思い切り打ち付けた。何度も、何度も、何度も打ち付けて、生暖かい感覚が頬に流れ落ちてきた。
心臓が早く打って、必要以上に大きく脈打っているようにハーメルンには感じられた。耳障りな心拍音とともに、激しい頭痛が起き、視界がぼやけた――自分が乖離しているような、他者になっているような錯覚さえ覚えてくる。
「……ハーメルン?」
心配したような声音で名を呼ばれて、ハーメルンははっとした。横目で声の方を見ると、彼が救ったこどもの一人――今では他のこどもたちの世話もしてくれている少年だ。
異世界人である彼の故郷の国では一般的らしい黒髪を揺らし、心配そうに大きな黒い瞳をぱちくりさせている。
「ユーキ……」
少年の名を呼んで、ハーメルンは身が震えた——歓喜で。唾液がにじみ出てきて、秘められた獣性がハーメルンの底から這い出てきた。壮絶な飢餓感が襲ってきて、ハーメルンは気が遠くなる。
「どこか、体調でも悪いのっ? 大丈夫、ハーメルン――――?」
何も知らずにぱたぱた走ってくるユーキに、ハーメルンは手を伸ばした。捕まえて、そのままかぶりつき、血肉を喰らおうと。餌がこちらに来てくれて、手間が省ける、と嬉しくなった――。
「――ッは、はー……」
ハーメルンは自分の衝動をなんとか抑え込み――それでもユーキの身体を拘束する、抱きしめる形になってしまったが、荒く呼吸をして耐えきった。
「ハーメルン……? 血が……!」
「……大丈夫。ぼくは、大丈夫だから……まだ……」
安心させるように、すがるように、ハーメルンはユーキの身体を強く抱きしめた。こうしている間は、自分が自分でいられる気がした。
「――っと、ごめん、ごめん、ちょっと足を滑らせちゃって、落ちちゃったんだー」
ぱっとユーキから離れて、ハーメルンは苦笑しつつ、ごまかした。それを聞いたユーキは眉をハの字にして、「は!?」と、呆れかえった声で、続ける。
「一人で高いところに登るなって言ったのはハーメルンだろ!? もう……軟膏と包帯用意するから、その血、すぐ洗い流してきてよ!」
早くね! と付け加え、ユーキはせわしなくどたどたと走って行った。
ユーキが走って行ったのを見送って、ハーメルンは小さく息をついた。
「……よかった……」
自我が消える恐怖が過ぎ去って、ハーメルンはほっとする。同時に、別の恐怖に怯え切っていた――いつ同じ事が起きるか分からない、と。
それは、彼らと遊んでいる時かもしれない。
それは、彼らと幸せな食卓を囲んでいる時かもしれない。
それは、とばりが落ちて、彼らが夢の中にいる時かもしれない。
それは、彼らがやっと旅立てる時かもしれない。
「……いやだ……ぼくがこわすのはいやだ……っ」
ハーメルンは耐えられなくなって、ぼろぼろと涙をこぼした。嗚咽を漏らして、浮かんで来る悲劇を否定する様にかぶりを振った。
ハーメルンには耐え難い事だった。彼らの為なら命も惜しくないのに、彼らの幸せを壊してしまうことになるかもしれないという事が、ハーメルンには恐ろしくて仕方がなかった。
(女神さまが本当に居るのなら、どうかあの子たちを――)
くだらないことを考えかけて、ハーメルンはやめた。馬鹿馬鹿しい、神なんてものが本当に居るのなら――。
(ぼくがいちいち化け物にならなくたって、みんな幸せになってるんだ)
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