第9話 スランプ
◇
自販機のコーヒーも悪くない。
基本的に僕は無党派だが、たまには自販機の甘ったるいコーヒーが飲みたくなるときもある。
それは例えば、ここ一番でエネルギーが欲しいとき、元気が無いとき、そして、仕事が上手くいかないときなどに栄養剤代わりに役に立つ。
事務所内の自分の席に座り、自販機で購入した甘いコーヒーを一口飲んだ。
砂糖の甘みと、後からわずかに顔を出す安っぽい苦み。僕のような貧乏舌には、この安っぽさがちょうど良い。
小さくため息をつく。
どうやら、花沢の原稿の進捗はよろしくないようだ。
この調子では、新刊の発売は延期になってしまうだろう。今から各所への手配の事を考えると少し憂鬱になる。
かといって、完成度は低くても提出するなんて小器用な芸当を花沢に求めるのは間違っている。
それは、編集者のエゴというものだ。
ノートPCを起動させ、仕事に取りかかろうとしたとき、背後からぽんと肩に手を置かれた。
「よっ。難航してるみたいだな、姫さんは」
田村だ。
どうやら昨日は大人しく家に帰ったらしく、今日はアイロンをかけたピシリとしたスーツを身に付けている。
「どうにもラストの展開が気に入らないらしいですね……アドバイスをしても、最終的に彼女が納得しなくては意味がありませんから」
「スランプってやつかい?」
「どうですかね? スランプの定義はわかりませんが…… ”自分の納得のいく作品が書けない” という事がスランプなら、彼女がスランプじゃなかった事なんてありませんよ」
花沢という作家は、決して自分が100点だと言える作品を仕上げる事はできないだろう。
彼女は強欲で、冷血だ。
どれだけ心血を注いで作り上げた物語も、決して彼女自身を満足させることはなく。一秒後にはゴミに変わってしまう。
求めるレベルが高すぎて、きっとどんな傑作も大作も、彼女の心を揺さぶる事ができない。
聞いたことは無いが、彼女が目指す小説には、明確な目標となる一冊があるような気もしている。
その一冊に追いつこうと、もしくは追い越そうともがき、ソレが出来ずに苦しんでいるような……そんな気がしているんだ。もちろん、僕の勝手な妄想だけれども。
「……難しい作家だな。正直俺は苦手だ。天才タイプの作家は、読者として関わる分には大好物だが、一緒に仕事をしたいとは思わん」
同感だ。
しかし、うまく説明ができないが、その事を田村が言っているという事実が、何だか気にくわなかった。
僕は内心を悟られぬよう、曖昧な笑みを浮かべて返答する。
「そうですね。ですが、僕は自分の出来ることをやるだけですが」
「だな。所詮、作品を生み出すことのできない我々がどんなに頑張っても、全ては作家様次第だ」
所詮作品を生み出すことの出来ない……。
田村が何気なく言ったその一言が、胸に小さく突きささる。
「そうだ相沢、せっかくだから、この機会に姫さんを外に連れ出してやんな? あの娘、引きこもりだろ? 部屋にこもってちゃ良いアイデアも出ないってもんだぜ?」
「そうですかね?」
「おうよ。気分転換は大事だぜ……多少強引でも、外に連れ出してみろよ。案外、あっさりと続きが書けるようになるかもしれないぜ」
花沢を外に連れ出すなんて、考えてもみなかった。
確かに、それは良い考えかもしれない。
所詮、僕のような凡人のアドバイスなんて、彼女には毛ほども役には立たないのだ。ならば、僕の役割は彼女に最適な環境を整えてやることだろう。
「わかりました……断られるとは思いますが、取りあえず食事にでも誘ってみます。経費で落ちますかね?」
「落ちるともさ。それは俺たちの業務の範囲内だ」
パチリとウィンクをして、自席に戻っていく田村。戻りながら「デートだな」などとほざいていたが、無視を決め込んだ。
花沢に、気分転換に食事でもどうかとメールを送りながら、田村の言動について考える。
デートなんて、下らない。
花沢式に対して、恋愛感情なんて持ちあわせていない。
確かに僕とアイツは長い付き合いだ。
しかし、僕がアイツに対して感じているのは、その才能に対する嫉妬と……わずかな恐怖。
アイツのようになりたいと感じながらも、同時に絶対にアイツのようにはなりたくないと矛盾した感情が沸き上がる。
長年、胸の内にため込まれたその感情は、ドロドロと混ざり溶け合って、最早自分でも解読不可能なブラックボックスになっていた。
決して恋愛感情ではない。
それだけは、断言ができる。
ふと、花沢の爪が頭に浮かんだ。
咬みすぎてボロボロになった、薄い貧相な爪。
そのボロボロな爪は、僕の中で花沢式という人物の象徴でもあった。
メールの通知音がなる。
確認すると、花沢からの返信だった。
”別に構わない”
シンプルな返答。
大作家様とは思えないほど、実に機能的な文章だった。
◇
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