第7話 雨上がりの夜
◇
「お疲れ様、今日もお姫様に振り回されていたようね」
そういって優しく微笑むのは、僕の恋人の静香。
仕事終わりにデートの約束をしていた僕たちは、ジャズの流れるおしゃれなバーでお酒を飲んでいた。
「”お姫様” ねぇ。なんで君も田村先輩も、アイツの事を姫呼ばわりするんだろう」
アイツは姫なんて柄じゃない。しかし、僕以外のアイツを知る人間は、こぞって姫呼ばわりしたがるのが不思議であった。
僕は手元のギムレットというカクテルをチビリと口に含む。
ジンベースの爽やかなライムの香りが、心地よく僕を酔いへと誘ってくれた。
静香は、そんな僕を色っぽい瞳で眺めてから、マティーニで口を湿らし、濡れた唇でそっと微笑んだ。
「”姫” よ、あの子はね。そしてアナタはおつきのナイト……いえ、使用人かしらね」
「酷い言いぐさだね。愛が無い」
「いいえ、愛はあるわ……少し嫉妬しているのよ? アタシ」
嫉妬。
それこそ訳がわからない。
アイツとのやりとりに、個人的な想いは一切無い。ただの仕事上のパートナーだ。
「納得がいっていないみたいね……まあいいわ、私は寛容だから、少しの浮気くらいは許してあげる……でもね、本気になっちゃ嫌よ?」
「浮気? 君は僕がアイツに気があるなんて考えているのかい?」
静香は首をゆっくりと横に振った。
「気がある? いいえ、アナタはあの子に気があるんじゃなくて……ぞっこんなのよ」
風評被害だ。
気分が悪い。
僕がアイツにぞっこん? あの小説を書く以外に何もできない奇人に?
「……冗談がキツいよ。第一、僕はアイツが嫌いだ……知っているだろう?」
「好きの反対は無関心よ……知っているでしょう?」
「それは詭弁だよ」
「そう、これは詭弁よ。でも同時に真実でもある……わかっている筈よ、アナタなら」
やれやれ、彼女はまったく詩人だった。
僕は肩をすくませると、手元のカクテルを一気に煽った。
濃度の高いアルコールが喉を焼き、体温を一気に上げる。
そんな僕を眺めて、静香は少し悲しげに笑った。
「ごめんなさい。別にいじめる気はなかったの」
「気にしちゃいないよ。僕はそれほど心が狭い奴じゃない」
「ありがとう。でもそんなところも少し心配なの」
店内に流れている曲が変わったようだった。
繊細かつ巧妙なピアノの旋律、どこかで聞いたことのあるようなジャズミュージック。
曲名を尋ねると、見事な口ひげを蓄えた渋いバーテンが「ワルツ・フォー・デビー」とだけ端的に答えた。
「ワルツ・フォー・デビー」
僕は確かめるように曲名を口にする。
繊細さを保ちつつ、軽快にリズムを重ねていくその曲の事が、なんだかとっても気に入ってしまった。
靜香も悪戯っ子の笑みを浮かべながら、マティーニで濡れた唇で「ワルツ・フォー・デビー」と復唱する。
それから二人は無言で曲に耳を傾け、チビチビとカクテルを飲んで時を過ごした。
こういったささやかな時間が、仕事や人間関係で疲れ切った僕には必要不可欠だと、そう深く感じる。
夜は、ゆっくりと更けていった。
◇
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