第3話 仕事

 通い慣れた事務所。


 僕は、所謂出版社という組織に所属している。


 大学時代のサークルの先輩に紹介され、なんとなくで面接を受けてみたら、とんとん拍子に採用が決まってしまった。


 今の仕事が気に入らない訳では無い。


 しかし、もう少し真剣に就活をしてみても良かったと、この頃考えてしまうのだ。


「おはようございます……」


 大声でもなく、小声でも無い適切な音量の挨拶をしながら事務所のドアを開ける。


 カギは掛かっていなかったので、誰か出社している筈なのだが、返答はない。


 かすかに聞こえるイビキの音。僕は小さくため息をつきながら、そのイビキの主の元へ足を運ぶ。


 その人物は、デスクの下に潜り込んでグゥグゥと眠りこけていた。服装が昨日見たままである事を考慮すると、どうやら彼はこの場所で一夜を明かしたらしい。


 事務所で徹夜するなんて、いかにも ”編集者” といった行動だ。しかし、この会社に所属している編集社で、事務所で過ごすような人物は一人しかいない。


 ITが進んだこの時代、別に事務所で無くてもPCさえあればどこでも仕事はできる。メール一つでデータのやりとりができるのに、何も好き好んで事務所に入り浸る必要は無いのだ(もちろん、例外というものはあるのだが)。


 そも、目の前の人物は忙しいから事務所で過ごしているのではなく、家に帰りたくないから事務所に残っているという頭のおかしい人物なのだが。


 僕はまた、小さなため息をついて寝ている人物の肩を叩いた。


「田村先輩、また編集長に怒られますよ?」


 田村は大学自体の先輩だ。


 彼は剛胆な性格をしており、もの静かな人間の集まる文芸サークルにおいては異端扱いされていた。


 現在は結婚して、家庭を持っているらしいが、女癖が悪く、浮気を繰り返したせいで家に居場所が無いらしい。


 彼の紹介でこの会社に入社できた恩はある。


 しかし、どうにも彼の人間性を好きになることができなかった。


 声を掛けられた田村は、むくりと起き上がると、寝ぼけた顔でこちらを確認し大きな口を開けてあくびをした。


「……相沢。そうか、もう朝か」


「ええ、すぐに他のメンバーも出社すると思います」


「……それはいかんな。顔を洗って服を着替えてこよう」


 フラフラと洗面所へ向かう田村の後ろ姿を見て、僕はまた小さくため息をついた。


 彼の事は放っておこう。気にしても良いことなんて一つも無いのだから。


 気持を切り替えた僕は、自分の担当している案件の進捗の確認を行った。


 概ねの仕事は順調だ。僕の担当している作家さんは、一人を除いて皆締め切りをきちんと守ってくれるありがたい方々なのだから。


 チェックをしている中、僕は想定していた通りのイレギュラーを確認してしまう。


 洗面所から戻ってきた田村が、僕の顔を見てニヤリと口角をつり上げた。


「嫌そうな顔してんねぇ。また ”姫さん” かい?」


「アイツは姫なんて可愛いもんじゃありませんよ……ご推察の通りです。アイツ、まだ原稿が仕上がってないみたいだ」


「おうおう、まあ頑張れや。しっかし、今時手書きでしか原稿を書かないなんて姫さんくらいじゃねえの?」


「アイツは壊滅的に機械音痴ですからね……しょうがない、手書きじゃメールでやりとりって訳にもいきませんし、直接行ってきます」


「りょーかい。編集長には伝えとくぜぇ」


 気の抜けた田村の言葉を背中で聞きながら、僕は荷物をまとめて事務所を後にした。


 全く、アイツがいなかったら僕の仕事は今の数倍楽だっただろう。


 そんな事を思わない日は無かった。

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