第8話 旅の支度と、思案の煙

 "寂柳亭"に戻ったのは、出立の約束の正午まで半刻を切った頃だった。文字通り尻尾を振りながら迎えてくれたサッカウから鍵を受け取ると、2階の自室へと向かう。

 "寂柳亭"の客室はいかにも大衆宿といった趣で、豪奢な調度はないが質実剛健である。約十畳の板間にシングル用の寝台が置かれており、後は鍵つきのチェストと簡単な書き物のできる程度の机椅子が置かれている。

 ジャンの部屋には職業柄、特別に製図版ドラフターが置かれているが、一人で使う分には申し分ないほどの広さがあった。


「さて……」


 ジャンは背負子を床に降ろすと、寝台に腰掛けてしばし一服した。

 美しい螺鈿の施された煙管は猫人ウェアキャットの職人の作で、十年ほど前に購入してから愛用している。当時は駆け出しだった職人も、今ではここグランヒルデですら名を聞くほどの名工になったというが、この煙管を使うたびに、ジャンにはそれも必然のことのように思えた。

 フゥーと長い息とともに、浅葱色シアンの煙を吐き出す。エルフが好む香草煙草ハーブシガーは他の種族にはあまり受けがよくないから、こうやって部屋で楽しむ。それでも部屋の掃除に来たサッカウなどは嫌な顔をすることがあるから吸い過ぎは禁物だった。


「まあ、健康のためにもいいこと、か……」


 ジャンはもう一度目いっぱい煙を吸い込んで味わってから吐いたあと、火皿に溜まった灰を捨てて寝台から立ち上がった。

 とはいえ準備という準備もない。大まかな備品の調達はマルーイに一任しているからだ。やることといえば、普段着から探索用トレッキングの装束スーツに着替えて、荷物を整理するくらいである。

 方針が決まれば、早速行動だ。

 ジャンは作り付けの衣装棚クロゼットから、このあいだ洗濯屋から帰ってきたばかりの服を取り出した。深い緑を基調とした長袖のシャツに、同色のジャケット。ズボンは対環境繊維ゴア・ファイバーで編まれた厚手のカーゴパンツだ。色は砂漠色カーキ。スパッツは認識性を高めるための蛍光赤色レッド。リューには地味だのダサいのと散々言われた装備一式である。

 靴は黒色の半長靴で、先端には鉄芯の入った安全靴仕様だ。長年履き続けて革がてらてらになっているが、その分履き心地は他に代えがたいものがある。

 今着替えるのはここまでで、ヘルメットだとか皮手袋グローブだとかの装備品は纏めて背嚢ザックに押し込む。この背嚢ザックは先ほどの背負子に幌を張ったもので、俗に言うフレームザックの類型である。

 あとは先ほど買ってきた新品のザイル(登山用のロープ)だとかランタンだとかを詰め込んで、小物を入れる頑丈な皮のポーチを首に掛け、ベルトに山刀マチェットを提げれば準備は完了である。

 準備も終わってひと段落。といったところで、控えめにドアがノックされた。


「どうぞ」


 ジャンが背嚢ザックの口を絞りながら言うと、戸を薄く開けたのはサッカウであった。


「ジャン先生、下にマルーイさんがお見えですよ」


「おっといけない、もう約束の時間だったか」


 時間に正確なマルーイのことである。懐中時計を見るまでもなくジャンの遅刻は明白だった。ジャンは少しばつが悪そうにサッカウに礼を言うと、ずいぶん重たくなった背嚢ザックを担いで部屋を出た。

 探索者姿ルックのジャンを見るサッカウの瞳がきらきら輝いていたのが、ジャンにはまぶしく感じられた。

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