第3話 小さいサッカウと、迷宮の地図

「あい、どうぞ」


 テーブルにようやくとっつくほどの半犬人セミ・ウェアドッグの少女が、赤紫色の飲み物がなみなみと注がれたマグを荒っぽく給仕サーブして、忙しそうのほかの客の元へ走って行った。マグからほのかに立ち上る湯気が、彼女の動きにつられてふわりと滑った。

 "寂柳亭"は1階の大食堂を大衆食堂トラットリアとして解放していたから、この時間は屋号に反していつも大繁盛している。結構なことだ。

 ジャンは"寂柳亭"にとってはずいぶんと上客だったが、繁忙期の接客にいちいち注文を付けるほど野暮な性格ではなかった。


「まだ小さいのに、健気だね」


 ジャンはふと、暖かな笑みを零した。

 給仕は御旅屋"寂柳亭"の一人娘で、名はサッカウ・スウィキ。今年で九つになると主人が話していたのを、ジャンは聞き覚えがある。


「この間ご主人には九つだと伺いましたよ。なんでもお相手探しにずいぶん苦労されてるみたいで」


「お相手?」


「ええ、つがいの。この御旅屋の跡取りになるわけですからね」


「そうか、犬人かれらはもう適齢期になるのだね。それでずいぶん張り切っているのか」


 長い時を生きるエルフにとって、彼らの人生はあまりに瞬間の瞬きだ。ジャンにはそれが寂しくもあり、愛しくもあった。

 張り切りすぎていらぬドジを踏まなければよいが、と苦笑したジャンの目線の先で、サッカウは見事なまでのフォームを描いて転んだ。すべての注文をさばききった空の盆が宙を舞って、サッカウの頭に落ちる前に、若い迷宮探索者風の男がキャッチして事なきを得た。


「暖かい木苺のジュースは大丈夫だったかな」


「ええ、大好物です。母の大得意でしたから」


 目の端にサッカウの醜態を見てマルーイは、心配しているような笑いをこらえているような複雑な表情で杯に口を付けた。気持ちはわかる。

 サッカウはべそをかきそうになるのを必死に我慢して、盆を受け止めてくれた若い男に深々と礼をすると厨房に駆け込んでいった。

 ジャンは執拗にも数度にわたり息を吹きかけてから、その上澄みを頂いた。ジャンは猫人ウェアキャットに勝るとも劣らぬ猫舌である。

 薄いベリーの風味が口腔を経由して、鼻腔に抜けていく。これがどうして病み付きになる。


「結構。それでは、打ち合わせと行こうか」


 本来は6人掛けのテーブルをたった二人で占有させてもらっているだけ、宿の好意には痛み入る。

 食器を脇に除けて拡げられたのは、一辺がテーブルの短手幅ほどはある大判の地図である。ジャンが手ずから作図マッピングした、「グランヒルデの迷宮ダンジョン」の地図だ。


「今回は、迷宮第六階層のマッピングを主目的にしようと思う。調査の日程としては、今日から数えて十日間。これに出入りの時間も含むから、迷宮に潜るのは実質七日間ほどになるだろう」


「七日……。長丁場になりますね」


 マルーイは真剣な表情だ。現地で消費する消耗品の類の調達と運搬はマルーイの職分だから、最大限に頭を絞る必要があった。


「うん。荷物の采配は君に任せる。期間は長く取ってあるけれど、目的地はぎりぎり上層だ。中層にまで踏み込むことはしないから、その辺も加味しておいて欲しい」


 一般的な迷宮ダンジョンは大まかに三層に分かれており、敵の分布や仕掛けの悪辣さが層を跨ぐと大きく変化する。ここグランヒルデ近郊の迷宮においてもそれは同様であった。

 今回の目的地である第六層はちょうど上層と中層の境目にあり、到達の難度で言えば易しい。ずぶの素人では流石に無理があるが、ジャンやマルーイほど迷宮ダンジョンに慣れた者ならば、一日あれば到達できるだろう。

 マルーイは、ベース・キャンプの設営道具一式を持っていくことを決めた。


「この地図も、作ってから二十年は経ってしまっているから、信頼性が薄まっていてね。上のほうからも、地図の更新を急かされてる」


「上、というと、あの出版社の」


「そう、魔王印刷グランヒルデ・プレスだね。なんでも今年中に迷宮案内ダンジョンガイドの改訂版を出したいそうだよ」


 ジャンはホーデンスの国立魔法研究所を追い出されてからというもの、故郷に戻るわけにもいかず、遠く離れたグランヒルデに仮宿を定め、迷宮探索で得た情報を出版社に売って糊口をしのいでいた。

 魔王印刷グランヒルデ・プレスは屋号に王都の名を冠することを許された、言わば半国営セミ・ナショナルの企業であり、金払いは大層良い。


「なるほど、ずいぶんと大改訂になりそうですね」


 マルーイは地図に所狭しと記入された《要調査》の注釈の量を見て、少したじろいだようだった。


「そうだね。十五年ぶりの大改訂だ。とはいえ、地図に落とせばこの量といっても、実際に回るぶんにはそう大変ではないはずだ。このルートがちゃんと機能していれば、だけれども」


「そこは変わっていないことを願うばかり、ですね」


 マルーイの神妙な言葉に、ジャンも頷く。迷宮ダンジョンは流水のようにその姿をとどめず、とはよく言ったもので、日々日々の小さなバージョンアップが積もり積もればほんの十年で全くの別物になる。外界から隔絶された閉じた生態系ビオトープは、ときたま予想もつかないような変化を見せるので油断がならない。


「それが面白くもあるんだけどね」


 ハイ・エルフには多いことだが、ジャンも多分に漏れず研究好きである。大なり小なり、「未知」への探求を思えば胸に高鳴りを覚えるのが研究者であり彼であった。

 マルーイは、それに曖昧な笑顔で返した。

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