肉を摘む者

雨野榴

肉を摘む者

 サッカースタジアムが丸ごと入ってしまいそうなほどの空間に、無数の水槽が並べられている。一つ一つの中には、ピンク色をした直径30センチほどの人工食肉がチューブに繋がれて浮かんでいた。それは、食肉工場として世界最大の規模を誇るカリフォルニア・ミート本社工場の日常の風景だった。

 水槽と水槽の間の細い通路を歩きながら、培養液管理を担当するデイヴィッドは素早く人工食肉の状態を確かめていた。ほとんど全てが機械に管理される培養の過程において、培養液の管理と人工食肉の表面の目視確認は数少ない人間の業務だった。そして培養液管理が仕事の者は培養液の確認が終わると別の仕事の手伝いをするのが常で、この日もデイヴィッドは自分の仕事を早くに済まして目視確認の助っ人として働いていたのだった。

「お、やってるな」

 前方から歩いてきた男が、デイヴィッドに気安げな声を掛ける。

「クリス、ちょっかいなら後にしてくれよ」

 クリスと呼ばれた男は、両肩を上げて大げさなリアクションをした。クリスはこの工場で水槽の確認業務を行っていて、デイヴィッドとは友人の仲だった。彼は立ち止まって水槽に身を寄せると、前を通るデイヴィッドのすぐ後ろについて歩き始めた。

「なんだよ、なにかあったのか?」

「いや、別に後でもよかったんだが、ここで会ったのも運命だろ。ちょっと聞いてくれ」

 そう言うと、クリスはデイヴィッドの顔の横に腕をぐいと突き出した。見れば、小さな新聞記事の切り抜きを持っている。デイヴィッドは面倒くさそうにそれを受け取ると、ちらりと目を走らせてすぐに後ろへ放り投げた。

「おいおい、急に投げるなよ」

 クリスの抗議に、デイヴィッドは鼻を鳴らして答える。

「そんなに僕の気分を害したいのなら、そうと言ってくれればよかったのに。ちゃんとそれなりの悪口を用意してやったよ」

 デイヴィッドの態度を見て、クリスは慌てて追いかけながらぶつぶつと言っている。

「そこまで怒るかねぇ。俺はほら、ちょっとお前と話したかっただけなんだが」

 その言葉を聞いて、デイヴィッドは足を止め振り返った。それからゆっくりと、子供に言い聞かせるように言った。

「いいか、何度も言わせないでくれ。僕の前で動物を食べるなんて話をするな。記事も同じだ。見せるんじゃない」

 歩き去っていくデイヴィッドの背中を見ながら、クリスは

「なんでああも硬くなっちまったのか。この国は」

と独り言ちた。それから記事の切り抜きをポケットに突っ込むと、デイヴィッドの曲がった通路をまっすぐに歩いて行った。少しして立ち止まり、傍らの水槽を覗き込む。その中の人工食肉には、よく見ないと分からないほど小さな黒いしみが出ていた。クリスはそれをちょっと眺めてため息を吐いた。それから水槽の横の操作ボードに数回触れると、水槽の底が開いて培養液が抜かれていき、最後に人工食肉がチューブから外れて落ちた。すぐに水槽内が培養液で満たされていく。チューブの先に小指の先ほどの人工食肉がセットされるのを見届けて、クリスはその水槽の前を立ち去った。




 1997年、アメリカにおいて一つの法律が上・下院ともに賛成多数で可決された。通称1997年動物虐待防止法と呼ばれるこれは屠殺を含む一切の動物虐待を禁止するもので、違反者には最長7年の懲役や罰金が科された。当時の民衆はこの法律の成立を先進国の倫理の模範として支持し、すでにごく僅かとなっていた動物肉食者は紛れもない犯罪者として逮捕・一掃された。

 それも、法案の成立の数年前に人工食肉が国内の食肉の需要に完全に応えられるようになったからこそとされている。60年代に高まった屠殺に対する批判は業者に対する人権侵害にまで及び、これを憂慮した当局が人工食肉研究を奨励した結果だった。諸外国では家畜への苦痛が少ない電気を用いた屠殺が70年代後半になって確立されたが、アメリカでは人工食肉の研究が続けられ、現在では世界の人工食肉のほぼ100パーセントを生産するまでになっている。

 人工食肉は筋組織と脂肪の塊だ。脳や神経がないため、苦痛を感じるということがないし、脳がない以上そもそも意識すらない。合成タンパク質を培養して作られる人工食肉は、アメリカにおいて初めからモノとして紹介され、広まった。そのためそれは命を持たないと考えられており、肉を食べる生物にとって、そして今まで命を奪い食らってきた人間にとって最高の救済だと考えられた。人工食肉の登場により牛や豚・鶏のみならず魚やエビに至るまで、これまで人間が食べるために苦痛を与えられてきたあらゆる生物が、人間の捕食による死から解放されたのだ。

 人工食肉の生産に携わる者は肉を摘む者ミート・ピッカーと呼ばれており、デイヴィッドはその一人として自身の仕事に誇りを持っていた。デイヴィッドにとって、この仕事は生命の尊重のシンボルだったのだ。そのため、人間によって動物が死を与えられていることがどうしても許せなかった。1997年動物虐待防止法の施行から50年以上たった今でさえ動物を殺して喰らう人間がいることは、彼にとってある種の悪夢だった。

 だから、彼は友人のクリスが動物を食べることにあまり嫌悪感を示さないのが理解できなかった。もちろん、クリス自身が食べるのではない。しかしクリスは、今日のように動物を食べることについて議論を吹っかけてくるようなことがしばしばあった。最初のうちは、デイヴィッドは彼と命の大切さについて語り合うつもりでその誘いに乗ったものだが、何度か話すうちに彼が自分とは違う考えを持っていると気が付いた。

 なぜそのような考えを持っていながらミート・ピッカーの職に就いているのか、クリスに聞いたことがある。その問いに対し、クリスは

「そりゃあ肉が好きだからさ。肉を食うのって、生きてるって感じがするだろう?で、肉を大切に育てりゃそれをもっと感じられると思ったんだ」

と笑って答えた。デイヴィッドはそれを聞いて煙に巻かれた心地がしたが、しばらく付き合って彼が悪い奴ではないことが分かってからは、友人として概ね好ましく思っていた。

 この日も、終業後にデイヴィッドがロッカーで帰る支度をしていると、隣にクリスがやってきて明るく話しかけてきた。

「なあデイヴィッド、国道沿いに新しく出来たレストランに何人かで行こうと思ってるんだが、お前今夜どうだ?」

 それが彼なりの謝罪だと分かっていたので、デイヴィッドは努めて残念そうに返した。

「すまないな。今夜はエミリーが早く帰れと言ってるんだ。多分、新しいメニューの試食を頼みたいんだろう」

「へっ、そりゃ羨ましいな。それじゃ、こちとら独身組は仕事の愚痴で吞むとするよ」

「悪いな」

 クリスは声をあげて笑いながらロッカーを出て行った。その後ろ姿に、デイヴィッドはつい口許を緩めてしまう。彼のああした気持ちの良さに自分が救われているのも事実で、デイヴィッドは今度家に彼を招こうかと考えた。

 しかし、その考えはすぐに頭を振ってかき消した。確かに彼はいい奴だが、動物を殺して食べることが間違っていると理解していない。もし彼がエミリーの前でその思想を開陳してしまったら、エミリーに悪影響が出る可能性がある。エミリーは自分と同じく生命の大切さを理解しているが、万が一がないとも言えないではないか。

 そこまで考えて、デイヴィッドはもやもやとした何かを胸に感じた。それは人工食肉による救済を考えるたび、彼が時々抱いてきた違和感だった。だが、それを抱くというだけでデイヴィッドの胸中は穏やかではない。苦痛を与えず、命を奪わない人工食肉が解決策以外の何物でもないと分かっているからこそ、そしてミート・ピッカーの誇りを持っているからこそ、デイヴィッドにとってその違和感はひどく背徳的だった。それに深く分け入ることは、彼の感情が許さなかった。

 デイヴィッドは明日にでもクリスにおすすめの菓子をあげることにして、それっきり彼のことや胸の引っ掛かりのことを考えるのはやめた。その代わりに、家で待つエミリーの姿を思い浮かべる。デイヴィッドはつい鼻歌を歌いそうになるのをこらえながら、荷物をまとめてロッカーを出た。




「おかえりなさい」

「ただいま」

 リビングは食欲をそそる香りで満たされていた。テーブルに出来上がったばかりの料理をならべながら、エミリーが笑顔で振り返る。結婚して3年、デイヴィッドの自慢の妻だった。

「ちゃんと朝のことを覚えてたのね」

 キッチンで料理を皿に盛りながらエミリーが言った。

「もちろん。で、新メニューはこれかな」

「あら、分かってたの」

「朝の君が楽しそうだったから」

 エミリーが両手に皿を持ってキッチンから戻ってきた。デイヴィッドは、皿を置きやすいようにテーブルの上のサラダとスープを脇に寄せる。

「ありがと」

 椅子に座ったデイヴィッドの前に置かれたのは、初めて見る魚料理だった。

「バルックブーラマっていうの。トルコの料理らしいわ」

 白身魚を模した人工食肉といっしょに、パプリカや玉ねぎといった野菜が湯気を立てている。それらの上に乗っているのは輪切りにしたレモンだ。ほんのりと香るスパイスに、思わず喉が鳴った。

「美味しそうだね」

「でしょ。常連の人に教えてもらって、良さそうだったらお店でも出せるか聞いてみるの」

 エミリーは近くのレストランで料理人をしている。彼女の腕は相当のもので周囲の信頼も篤く、しばしばこのように新しいメニューの提案もしている。実験台はデイヴィッドだ。しかしそれもデイヴィッドにとっては楽しみで、エミリーが新メニューを試す日には日中もついそればかり考えてしまう。

 デイヴィッドがエミリーと出会ったのも、彼女が勤めるレストランだった。閉店の少し前、ラストオーダーでデイヴィッドが頼んだメニューに虫が入っていたのだ。そのことを店に言うと、エミリーが謝罪にやってきた。立派なレストランの料理人を勝手に男性だと思っていたデイヴィッドは驚くとともに自分の先入観を恥じて、彼女の謝罪を断って代わりに料理の解説を頼んだのだった。それから何度か通ううちに親しくなり、新メニューの試食も頼まれるようになった。あれから数年、今では試食は彼の特権だった。

「ぼうっとしてどうしたのよ。食べましょ」

 エミリーに声を掛けられ、デイヴィッドははっとして座りなおした。

「ああ、そうだね。頂くよ」

 フォークで魚の人工食肉を小さく切り、口に運ぶ。しっかり脂の乗ったそれがほのかな塩味とともに舌の上でほぐれた。それと同時に、鼻をクミンの風味が通り抜ける。口の中、耳の下のあたりから唾液が流れ出すのが分かった。

「美味しいね、これ」

 本心からの言葉をエミリーに伝えた。しかしエミリーは浮かない顔だ。

「うーん……ちょっと味が薄いかな」

「そう?」

 料理人であるエミリーは、新メニューの開発にも一切妥協しない。彼女が悩むということは、この料理は没か、改善されてより素晴らしいものになるに違いない。

 そのことを考えて、デイヴィッドは優しく微笑んだ。エミリーは難しい顔をしながら料理を食べている。それを見ながら、デイヴィッドは自分が心底恵まれていると実感していた。ふと窓の外に目をやると、街灯に照らされた隣の家が見えた。その窓から漏れる暖かい灯りを眺めて、デイヴィッドは思わず呟いていた。

「平和だ」

「どうしたのよ、急に」

「いや、何でもないんだ」

 エミリーに苦笑されて、ついごまかしてしまう。しかしデイヴィッドにとってこのひと時は間違いなく幸福であり、満ち足りた時間だった。エミリーに目で促されスープを飲む。あっさりした魚料理に合わせて、スープの味も野菜のエキスを効かせたシンプルなものだ。ほのかな柑橘の香りと辛味を感じ不思議に思って聞いてみると

「ユズコショウ、っていったかしら。日本の調味料らしいわ」

「ふーん、面白いね」

 夕食がほとんど済んだ頃、エミリーが「そういえば」と切り出した。

「うちのレストラン、今度の土曜で35周年なの。特別ディナーを出すから来てほしいんだけど……」

 エミリーの伺うような上目遣いに、仕方がなくといったそぶりで頷く。もちろん、本心では行く気満々だ。

「よかった。それじゃあ、席を用意してもらうわ」

 嬉しそうなメアリーの様子に、デイヴィッドはまたもつい口に出していた。

「幸せだなぁ」



 週明けの月曜日のことだった。

 その日いつものように培養液の調整を済まし、クリスたちの手伝いにでも行こうと考えていた時、作業室に工場の事務員が駆け込んできた。

「デイヴィッドさん!いらっしゃいますか!」

 突然のことに他の職員が驚いて固まる中、デイヴィッドは胸騒ぎを感じて前に進み出た。

「はい、僕がデイヴィッドですが……どうしたんですか?」

 事務員は肩で息をしながらも、デイヴィッドの顔を見ると後ろめたそうに目を伏せた。それから少し息を整えて再び目線を上げると、デイヴィッドの目をしっかりと見つめながら言った。

「奥様が、事故にあわれたと連絡がありました」

 デイヴィッドの思考が止まった。頭が真っ白になり、全身の感覚が薄らいでいく。まるで他人の体に意識が入ってしまったように、体が指示を受け付けず重くなっていった。

「デイヴィッド!」

 倒れかけたデイヴィッドを、近くにいた同僚が支えた。彼は呆然とするデイヴィッドの肩を揺さぶりながら大声で呼び掛けた。

「おい、しっかりしろデイヴィッド!いいから早く病院へ行け!おい!誰かこいつの荷物をまとめて持ってきてくれ!」

 デイヴィッドはふらつく体を同僚に支えられながら、荷物とともにタクシーへ押し込まれた。隣に事務員が乗り込み、運転手に病院の名を伝える。デイヴィッドはどうにか働き始めた意識の中で、事務員が急げと何度も繰り返すのを聞いて、この人はいい人だと場違いにも考えていた。デイヴィッドの頭は、現状を受け入れるのを拒んでいた。

 病院に着くころには、デイヴィッドも幾分か思考をはっきりさせていた。とはいえ情報が素直に流れるにはまだ不明瞭で、医師に会うまではこれが夢であったらと祈っていた。この時間がすべて悪い夢で、今すぐにでもクリスか誰かが肩を揺すって起こしてくれたら。しかしそれも、エミリーの姿を見たとたんに思考からかき消えた。

 エミリーは集中治療室にいた。体のほとんどを包帯で覆われ、かすかに覗く目元と鼻の稜線からどうにかそれとわかる程度だった。その体からはチューブが何本も伸び、傍らの機械に繋がっている。医師の話によると、朝、レストランに歩いて出勤する途中でトラックに轢かれたという。トラックはかなりのスピードが出ていて本来なら死んでもおかしくなかったが、道端の植木がクッションとなって一命は取り留めたらしい。医師はエミリーの命があることを、デイヴィッドに言い聞かせるようにくり返し言った。デイヴィッドは集中治療室のガラスに額を押し付けて涙を流しながら、それに無言で頷いた。

 その翌日デイヴィッドが食肉工場へ行くと、エントランスの隅でクリスが待っていた。出勤してきたデイヴィッドの姿をみとめると、クリスはまっすぐに駆け寄ってきて顔を覗き込んだ。

「なんで来たんだ。昨日の今日だろう、休んだっていいんだぞ?みんなだって責めやしない」

 その顔と口調から、クリスがデイヴィッドのことを心底心配していることが窺えた。しかしデイヴィッドは弱々しく微笑むと、クリスの横を通り抜けてロッカーへ向かおうとした。

「ちょっと待て、デイヴィッド!」

 肩を掴まれて、デイヴィッドはクリスの方を振り返った。その顔からは笑みが消え、代わって深い悲しみを湛えていた。

「本当に大丈夫だ、クリス。いつも通り働ける」

「……いつも通り働いて帰ったって、エミリーがいつものように迎えてくれるわけじゃないんだ」

 クリスのその言葉を聞いて、デイヴィッドはクリスの胸ぐらを掴んだ。しばらくそのままデイヴィッドはクリスの顔を睨んでいたが、やがて腕の力を抜くと「ごめん」と小さく呟いてクリスから離れた。うなだれたままロッカーへ向かうデイヴィッドの背中を、クリスは苦々しげに見つめていた。

 その日、デイヴィッドは結局休暇を言い渡されて昼前に家に帰った。同僚たちの心配通りデイヴィッドの仕事は酷いもので、工場長から直々に休むよう言われたのだ。デイヴィッドは家に帰ると、普段見慣れない真昼のリビングを見まわし、少し泣いた。リビングはどこかよそよそしく、彼をまるで異邦人のような心地にさせた。デイヴィッドはリビングの壁に寄りかかりながら、いつも帰ったらエミリーが迎えてくれていたことを思った。しかし今は、暗くなるまで待ったところで帰宅したエミリーを迎えることさえできないのだ。

 デイヴィッドは、エミリーの入院している病院に行くことにした。そう、エミリーは死んだわけじゃない。いつか再び、この家に帰ってこられるのだ。デイヴィッドは自分にそう言い聞かせて、どうにか自分の気持ちを奮い立たせた。エミリーがいない間、この家を以前のように保つのは自分の仕事だ。ならば、それまで家を綺麗なままにし、エミリーの快復を祈るのが自分に出来ることだ、と。デイヴィッドは工場から持ち帰った荷物を置くと、見舞いのための花を買いに車に乗り込んだ。

 病院では、相変わらず包帯に覆われたエミリーがデイヴィッドを待っていた。集中治療室とこちらを隔てるガラスの前でデイヴィッドが眠る妻を見つめていると、昨日エミリーを治療した医師がやってきた。医師はデイヴィッドから花を受け取ると、彼を診察室に案内した。

「あなたはミート・ピッカーだそうですね?」

 診療室に入ってすぐ、医師はどこか気まずそうに聞いた。それを疑問に思いながらもデイヴィッドが「そうです」と言うと、医師は沈痛な面持ちで頷いた。それからデイヴィッドに椅子を促し、自分も座ると深呼吸を一つした。

「非常に言いにくいことなのですが」

 医師はそう切り出した。エミリーの病状の説明で、彼女がどれくらい回復したかが聞けると思っていたデイヴィッドは、それを聞いて思わず立ち上がった。医師は急いで続けた。

「落ち着いてください、デイヴィッドさん。奥さんはまだ生きていますし、回復の兆しもあります」

 医師はデイヴィッドを座らせると、数枚のCT画像をパソコンに表示して彼に示した。そのままその写真を見上げ、口を固く結んで黙っている。

「では、何が問題なんですか」

 デイヴィッドが耐え切れずにそう聞くと、医師はパソコンの画像の一つを拡大し、デイヴィッドの顔を見返して重い口を開いた。深い同情と、それとは裏腹な強い意志が感じられる声だった。

「この写真は見ての通り、奥さんの脳のCT画像です。この白いところ、ぼやけているところが出血箇所、つまり怪我です。奥さんの怪我は大きく、放っておくと出血で脳が圧迫されて機能が失われてしまう恐れがありました。そこで、私は治療を行ってその血を抜いた」

「ええ、ですからもう大丈夫だと」

 デイヴィッドの懇願するような声に、医師はゆっくりと首を振った。マウスを使って、もう一枚のCT画像を拡大する。

「これが、治療後のCT画像です。先ほど言った白い影は小さくなりましたが、ここ、この部分を見てください」

 医師の指した場所には、前の画像より小さいながら濃くはっきりとした白い影が映っている。それはまるで、傷や血ではなく―――

「奥さんの脳内に、石が刺さっているのです。この石は脳を壊しながらこの場所に来ていて、それによる脳の機能低下は著しいと思われます」

 まさかとは思ったが、エミリーの頭には本当に異物が潜り込んでいる。デイヴィッドの頭が危険信号を鳴らし始めた。これ以上は聞いてはいけない。しかしデイヴィッドの口は勝手に動いて質問をしていた。

「それは、取れるんですよね……取ったら、妻は治りますよね……」

 デイヴィッドの声はか細く、今にも呼吸を止めてしまいそうなほどだった。それは懇願だった。しかし医師はデイヴィッドの希望を打ち壊すように、彼から目を逸らさずにはっきりと言った。

「率直に申し上げます。奥さんは怪我がある程度治っても、以前のような生活を送ることは難しいでしょう。そして恐らくは、意識が戻るかどうかも怪しい」

 そして医師は、絶望に満たされていくデイヴィッドに決定的な一言を放った。

「奥さんはいわゆる、植物人間となる可能性が高いです」

 診療室に沈黙が降りた。ドアの外から時々聞こえる足音や話し声が、かすかに部屋に滑り込んでくる。その静寂の中、デイヴィッドは自分の心臓の音を聞いた。呼吸の音を聞いた。それから膝の上で握っていた拳を開いて手のひらを眺めた。それをもう一度ゆっくり握ると、今度はパソコンの画像を見上げた。白い影。妻の頭を壊した小さな石ころ。それは今も、エミリーの頭で彼女を傷つけている。これからずっと、傷つけ続ける。

 両手で顔を覆い号哭を始めたデイヴィッドを、医師は黙って見守っていた。

 その3日後、医師からデイヴィッドに、エミリーの意識の快復は絶望的だと正式に連絡があった。




 デイヴィッドの休職から一週間後、デイヴィッドの家をクリスが訪れた。以前のデイヴィッドの憔悴ぶりを見た同僚たちが一人でいる彼を心配し、クリスが代表して様子を見に来たのだった。

 鍵の開いたままのドアをくぐったクリスは、リビングの片隅で倒れているデイヴィッドを見つけると、両手に下げたビニール袋を放り出して駆け寄った。

「デイヴィッド!大丈夫か!」

「……クリスか……ああ、ごめん……来ると聞いていれば用意したんだけど」

 デイヴィッドの頬はこけ、しばらく食事をしていないように見えた。クリスはデイヴィッドを担いでソファに横たえると、ビニール袋を拾ってキッチンへ向かった。クリスは袋から様々な食材やカップ麺を取り出しながら、デイヴィッドに聞こえるよう大声で言った。

「お前、エミリーを迎えなきゃいけないのにそんなナリじゃ駄目だろう。やつれたお前が幽霊みたいで、帰ってきたエミリーがすぐ倒れちまうぞ」

 手早く野菜を洗って、クリスが料理を始めた。横になって虚ろな目をしていたデイヴィッドはそれに気づくと、突然弾かれたように起き上がってキッチンへ走った。しかしふらついた足がもつれて、冷蔵庫に大きな音を立ててぶつかった。

「なんだ、どうした!」

 デイヴィッドは冷蔵庫に手をついてどうにか起き上がる。そしてクリスの持ってきた食材に人工食肉のハムがあるのを見て取ると、大声で叫んだ。

「やめろ、やめてくれ!」

 デイヴィッドはハムを掴むと、胸に抱きかかえてへたり込んだ。そのデイヴィッドの様子にクリスは混乱するしかない。クリスは包丁をしまうと、しゃがみこんでデイヴィッドの肩をさすりながら語り掛けた。

「なあ、どうしたっていうんだ。それは人工食肉のハムだぞ?落ち着いて、ゆっくりでいいから教えてくれ。何があった?」

 クリスの言葉にゆっくりと顔を上げると、デイヴィッドは焦点の定まらない目でぼんやりと彼を見つめた。抱きしめたハムを一瞬見下ろし、デイヴィッドはクリスに言った。

「エミリーと同じなんだ。生きていたんだ、これも」

 クリスはそれを聞いてしばし瞑目すると、デイヴィッドを立たせてリビングの椅子に座らせた。テーブルを挟んだ反対側にクリスも座る。

「デイヴィッド、エミリーに何があったんだ?助かったんじゃなかったのか?一命は取り留めたと聞いていたんだが。辛ければ、言わなくてもいい」

 クリスは、デイヴィッドに優しく話しかけた。デイヴィッドはしばらくハムを抱きしめて見つめていたが、少ししてぽつりぽつりと話を始めた。

「病院で、エミリーは植物状態になったと言われた……エミリーの意識は、もう戻らないんだ。エミリーはずっと、何も感じず、自分という認識さえないままに生きるんだ。きっと僕が僕だとは分からない。手を握っても、キスをしても……そう、何をしても、エミリーの意識は戻らない」

 話しながら、デイヴィッドの目から涙が零れる。それを拭う様子もなく、デイヴィッドはうわごとのように話し続ける。

「エミリーは、これからずっとチューブに繋がれて、生かされていくんだ。もう、エミリーは笑うことも、泣くこともできない。エミリーの心は永遠に失われてしまった……」

 涙を流し続けるデイヴィッドをクリスはじっと見つめ、その言葉に耳を傾けていた。

「人工食肉は、脳も神経もない。だから、何も感じない。生きていない。そう言われてきた。何も感じないものは、切っても焼いても苦しまない。そうだろう?そうなのに……」

 そこでデイヴィッドは顔を上げ、クリスの方を見た。

「じゃあ、エミリーは?」

 クリスは、デイヴィッドの次の言葉を待った。デイヴィッドが感じたそれは、クリスにとっても大切な疑問だったからだ。デイヴィッドは続けた。

「エミリーは、もう何も感じられない。でも、生きてるんだよ。まだ心臓が動いて、脈が感じられるんだ。彼女が生きていることは、僕にとって疑いようが無いことなんだ。それなのに……僕は今まで、人工食肉が生きているだなんて考えたこともなかった。正直、今でも考えにくいし、考えたくない。でも……人工食肉を生きていないものと考えてしまったら、エミリーだって……」

 デイヴィッドは再びハムに目を落とす。それをさらに強く抱きしめて話す姿は、以前の彼と同じ人物とは思えないほど小さく見えた。

「人工食肉も生きていたのなら、僕もやっぱり動物を殺して食べる奴らと何も変わらなかったってことだ。僕だけじゃない。世界中の、人工食肉を食べている人がそうなんだ。だとすれば、僕らが今まで信じていた救いは、救済は何だったんだ?……このハムだって、生きてたんじゃないのか?」

 デイヴィッドが語り終えてからしばらく、リビングには彼のすすり泣く声が聞こえていた。クリスは長い間天井を見上げていたが、おもむろにハンカチを取り出すとデイヴィッドに渡した。デイヴィッドが顔を拭いているのを見ながら、クリスもまた静かに話し始めた。

「……今のこの国じゃとても言えたことじゃないが、俺は人工食肉に救いを見出す奴らは間違っていると思ってる。お前がそちら側なのは承知の上でちょくちょくあんな話をしたのはな、お前は話せばわかると思ったからだよ。お前と何度か話すうちに、人工食肉をあんなにも持ち上げるのにその理由がはっきり言い表せないのを、お前自身がもどかしく思っているのが何となく分かった。ミート・ピッカーになったのだって、救いとやらを信じる証拠が欲しがったからだった。違うか?」

 デイヴィッドの反応はない。しかしクリスの話を聞いていることは確かだった。

「俺は昔から、人工食肉を解決策として見ていなかった。だってそうだろう?脳や神経がないから何も感じず意識がなくて、生きているとは言えない。じゃあ、植物は、俺たちの食べる野菜はどうだ?あれは生きている命に違いない。百歩譲って何も感じないから食っていいという理屈が通ったとして、植物が何も感じない証拠がどこにある?オジギソウは葉に触れると閉じるし、ハエトリソウは毛に何度か触れればやはり動く。そこに、俺たちのまだ知らない感じるはたらきがないとどうして言い切れる?動物は駄目で、植物はいい。あまりにご都合主義だ」

 相変わらず反応のないデイヴィッドを見ながら、クリスは語り続ける。窓の外から車の音がして、隣の家の住人が帰ってきたことが分かった。人工食肉を、無自覚に命を食べる人々。もはやデイヴィッドに救いはなかった。俯くデイヴィッドに、クリスは語調を強めて言った。

「結局この国が間違えたのは、苦痛を与えることと命を奪うことを一緒にしてしまったことだ。苦痛を与えてはいけないという出発点が、いつしか命を奪ってはならないになり、こうして命がないという理屈で人工食肉を正当化することになった。だが、お前ももう分かるはずだ、デイヴィッド。生きてるんだよ、全部な」

 デイヴィッドが顔を上げてクリスを見た。クリスは微笑んでデイヴィッドに手を伸ばす。手のひらを上に向けて、デイヴィッドの目の前に置いた。

「命を食って、俺たちは生きてるんだよ。その命が、俺たちの命を作ってるんだ」

 クリスの手のひらは、皮膚の下の血管を薄く透かしていた。つられてデイヴィッドも自分の手を見る。いつかは無力の象徴だったそれは、無力でありながらも確かに命が流れていることを教えていた。この命は、いったいいつ食べた命だろう。

「なあ、クリス」

 涙が乾いた目で、デイヴィッドはクリスを見やる。

「僕はこれまで、命を奪って肉を食べるのを邪悪そのものだと思っていた。きみはそれを、生きるためには仕方がないって言うのか?」

「ああ。今までだってそうだろう?俺たちはそうして生きて来たじゃないか」

「……みんな、その仕方がないことを避けてるふりをしてたって?」

「そうだ」

「じゃあ……人工食肉にも命があることをみんなが知ったら、エミリーの命はもっとはっきりするのかな」

「逆だ。エミリーは生きてるだろ。だから、人工食肉だって生きてるって分かってもらえる」

「……どうしてこの国の人は、そんなことから目を背けたんだろう。他の命を食べて僕らは生きていたのだと、どうして忘れて、そのままでいるんだろう」

「そりゃあお前、最初はちょっとした思い違いで、それが受け継がれたんだろうよ。人間、これまでそうだったんだから今もそうだと思うもんだよ。例えばお前が手記を出してみんなが読むと、字面だけじゃ多分お前は金髪に白い肌だって思われるぜ。本当は黒髪に黒い肌なのに。それも、今までアメリカ人って言ったらそれが普通だったからだ。読者が馬鹿なわけじゃない。どこかで知って気付けばいいんだ。ただ、アメリカでそれを指摘するのは自殺行為だがな」

 その時、デイヴィッドの腹が大きな音を立てた。二人は顔を見合わせて、同時に破顔した。

「なんか食おう。せっかくいろいろ持ってきたんだから」

「そうだね」

 台所に向かうクリスにハムを抱えてついていきながら、デイヴィッドが聞いた。

「ところでさ、クリスは牛や豚を食べるのか?」

 包丁を取り出し水で洗っていたクリスが、ちらりとデイヴィッドを見て言った。

「食わないよ。どっちにしろ命は食ってるが、苦痛をわざわざ感じさせることねえもん。俺は別に活動家じゃないし。まあ、命を食ってるのにそれを忘れてるんじゃあ、命がかわいそうだとは思ったが」

「なるほど……ねえ、クリスはいつ自分も命を食べてるって気付いたんだ?」

 クリスはデイヴィッドからハムを受け取り、フィルムを剥がしてまな板に置いた。冷蔵庫から出した缶詰と玉ねぎをその横に並べ、腕を組んで思案している。少しして小さくうなずくと、玉ねぎの皮をむき始めた。手元を見たまま、デイヴィッドの問いに答える。

「いつっていうか、考えてるうちに気付いた。あれ、全部生きてるじゃん、俺たち命食ってるじゃん、って。それで、急にみんなの中にいるのが息苦しくなった。だからミート・ピッカーになって、俺だけでも人工食肉を命として大切にしようと思った」

 それからしばらくして、テーブルの上には料理が何皿も並んだ。その中には薄く切ったハムもあり、それをデイヴィッドは少し居心地が悪そうに横目で見ている。その視線に気づいたクリスが

「まあ、すぐに納得しろってのもな」

「……違う、エミリーの料理より貧相だなって」

「エミリーと比べるなよ……やっぱ楽しいな、考えてることを好きに話せるの」

 窓の外は既に暗く、今夜も隣の家の窓からは明かりが室内の暖かな様子を伝えていた。そこにかつてのエミリーとの食卓を思い出しながら、デイヴィッドは考える。きっと彼らはまだ、自分たちが命を食べて生きているという認識を持っていないだろう。いつか彼らに教えた方がいいのだろうか。その時は、最初は驚く彼らに笑って言うのだ。命を食べて、生物は生きているのだと。僕も持ち、エミリーも持ち、そして人工食肉だって持っている命。

 いつになるかは分からないが、設備を整えればエミリーはこの家に帰ってこられるだろう。リビングを見ても、ソファに座っても、もう笑わないかもしれない。けれど、エミリーは生きているのだ。エミリーはまだ、そこにいてくれる。デイヴィッドは、エミリーが帰ってくるまでに料理の腕を磨くことに決めた。リビングを彼女の好きな香りで満たすのだ。

「そういえばさ」

 クリスが唐突に言った。見れば、両手をぴたりと合わせて胸の前に構えている。

「何?」

「いや、日本では食事の前に、食材になった命に感謝してこう言うらしいぜ。イタダキマスって」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

肉を摘む者 雨野榴 @tellurium

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る