第5話(後)終末が訪れた

 「救世の家」であった船の中。

 ノゾミが目覚めた時、この場所がそこ・・であることはすぐに気が付いた。「救世の家」が崩壊したときに入り込んだ時と同じ材質の壁。他では見たことのないその壁は、そこが「救世の家」であると断定するのに十分だった。

 ノゾミが覚えているのは、シラセと出会い、ユウと思しき人影が近づいた辺りで背後から衝撃を受けたところまでだ。なぜ自分がここにいるのかも、今どのような状況に置かれているのかもわからない。

 しかし、計らずともノゾミの目的であった「救世の家」に辿り着いてしまった。ノゾミにはそれがすべてだった。

 体を起こす。

 ノゾミは壁にもたれかかるように寝かせられていた。どれだけ寝ていたのかわからないが、あまり姿勢がよくなかったようで節々が痛い。

 周囲は殺風景な部屋であり、まるで監獄か何かのように見える。しかし、扉は開いたままで、部屋の中にも机や椅子など、ある程度生活するのに十分な家具が置かれており、迎え入れようという気概だけは見えなくもない。

 部屋には窓もついており、そこから建物の外が覗けた。

 窓に顔を近づけ、外を眺める。

 一番手前には緻密な青い魔法陣が見える。明るくも半透明なそれを、ノゾミは不思議そうに眺める。

 確か「救世の家」が滅ぶときにそれをわずかに目にしたはずだが、ノゾミはその後の記憶が鮮烈に残っており、その魔法陣は実質初めて見るものだった。

 そしてその奥。魔法陣の外側には、ほぼ真っ暗闇な世界が広がっていた。しかし、時々近くに建物が通りがかると、魔法陣の輝きに照らされているため、確かに外に世界が広がっているようだ。そして、ノゾミが今いるこの物体は間違いなく空に浮いていた。

「私の……家」

 ユウの話を思い出す。

 「救世の家」が船になり、どこかへ飛んでいった、と。

 決してそれを信じていなかったわけでもないが、実際にそれを目にすると、かなり衝撃的な反面、以前に見た内部の雰囲気から、本当にそうなってしまったのだな、という納得感があった。

 窓から離れ、今度は空いた扉の方に向かう。そっと扉から顔だけ外に出す、すると扉脇のすぐ横には一人の男が立っていた。

 心臓が飛び跳ね、顔を思い切り引き戻す。

 いったん部屋に戻り、拍動する心臓を落ち着けようとしていると、

「……目覚めたのか?」

 顔は出さずにその男は話しかけてきた。それ再び心臓が跳ねる。

「……悪かったな、突然こんなところに連れてきたりして」

 申し訳なさそうな声色で男が話す。ノゾミは、何をしゃべればいいのかわからず黙りこくる。

「少しだけ、我慢してくれよな。大丈夫だ、悪いようにはしない」

 それだけ言うと、男も黙ってしまった。

 ノゾミは何をしたものかと頭を悩ませる。「救世の家」にたどり着くという目的は達せられた。その変わり果てた姿を目にした。未練も思い残しもまだあるが、この家にできることはもうない。

 この時点で、ノゾミは己の目的を見失い、ただ、備え付けられた椅子に座ることしかできなかった。


 どれだけの時間が経ったろうか。

 何時間も立っていた気がするし、ほんの一、二分程度のような気もする。無気力に、ぼうっと座っていただけのノゾミにはそれは関係ないことだった。

 そんなとき、扉の外から足音が聞えた。

 カツカツという、重たい軍靴が踏み込むような足音。

 それがしばらく続いた後、扉の近くで止まった。ノゾミは億劫そうにそちらを一瞥する。そこには、顔の一部が金属めいた物質に成り代わっている女がいた。

「……っ!」

 旅の道中でいろいろなものを見てきたノゾミだが。身体そのものが変質をきたしているという不気味なその女に、思わず小さな悲鳴を上げてしまう。

「ん?悪いね、醜い顔で。ついこの間まではこんな顔ではなかったのだけれどね」

 女は軽く笑いながら部屋の中へ入ってくる。ノゾミは椅子から立ち上がり、そんな彼女から離れるように後ずさりする。

「ああ、すまない、怖がるなというほうが無理な話だ。こんな、妙な場所に連れてこられたなら特に、ね」

 女はノゾミが怖がっている様子を見ると、ノゾミに近づくのをやめ、立ち止まると手を床にかざす。するとその先に紋章が現れ、空気椅子でもしているかのようにその場で座り込んだ。

「さて、わたしがここに来たのは他でもない。君に今の状況を教えたかったからだ。君にはなぜここに来たのか、それを知る権利がある。どうだ、聞きたいか?」

 その言葉に、ノゾミはすぐには頷かず、少し考えるそぶりを見せる。確かになぜここにいるのか気になるところではあるが、結果的に「救世の家」に辿り着けた以上、その過程は別に聞かなくてもよかった。

 それ以上に、聞きたいことがノゾミにはある。

「私たちの家を、壊したのはなんで、ですか」

 頷く代わりに、ぽつりとつぶやく。

 それを聞いて、女は沈痛な顔をした。

「わたしたちが許されざることをした。それは自他ともに認めるところだ。わたしたちは騙されていた。“終焉の徒”はヒトの形をした怪物だと。それを免罪符にしようとは思わない。初めて本物の“終焉の徒”に襲われて、気が付いたんだ」

「運がよかったんですね」

 ノゾミは冷たく言い放つ。理由が何であれ、ノゾミの家族が壊されたことには変わりない。ノゾミの皮肉に女は苦々し気な顔をする。

「まあ、それを本国に伝えようとしたら新たに任務を仰せつかってこのざまだ。力は得たが、同時に見捨てられた」

 自嘲気味に笑う。

 女もそれ以上言い訳めいたことをせず、この場に沈黙が流れた。

 しばらく静かになった後、少し心の整理のついたノゾミが口を開いた。

「いま、どこへ向かっているんですか」

 今、空を行く船という移動手段に乗っているというならば、当然向かう先がある。もう「救世の家」は取り戻せなくとも、その行く先には興味があった。

「……いま、わたしたちは、わたしたちの王都へ向かっている」

 女は、少し重たげに話した。

「この飛空艇は、地上の探索船であり、そこにいる者を掃討するための軍艦だ。いま、わたしたちは護送の任を帯びている」

「ごそう……?」

「わたしたちの任務は、そうだな、稀代の大罪人を空へ送っているというところかな」

 単語がわからなかったのか、あまりピンときている様子のなかったノゾミに、わかりやすく伝えなおす。

「でも、なんで私も……?」

 護送任務だけならばノゾミが連れてこられる意味が分からない。やはりノゾミの顔からは不思議そうな色が消えなかった。

「確かに。言い方は悪いかもしれないけど、君は人質だ。その大罪人がおかしな真似をしないようにね」

「その、大罪人?って?」

 ノゾミが人質として機能するということは、それなりに親しい人物のはずだ。しかし、ノゾミに心当たりはなかった。

 それを尋ねられた女は、答えようと口を開いて、いったん閉じる。そして重々しく再び口を開いた。

「わたしにも、まだ半信半疑でな……ただ、わたしたちは絶対にそれを為さねばならないんだ」

 半信半疑という割には、その瞳に湛える決意は揺らぐことはないように見える。

 そのあたりで、女は立ち上がった。その拍子に着用している軍服の隙間からも、その変質した皮膚が垣間見える。

「さて、そろそろ定時報告の時間だ。わたしはもう行くよ。何か不便があったら扉の外の者に言ってくれ。できる限りのことはしてあげられるから」

 そう言って、女は部屋から出ていった。

 再び部屋に沈黙が訪れる。

 特段するべきことも見つからず、ノゾミは真っ暗な窓の外を眺めた。

「……ユウは、どこにいるんだろう」

 自分で発したその言葉に、なぜか覚えた違和感が拭えなかった。


 船の人たちは、確かに優しくしてくれた。

 ノゾミが部屋の外に出た時も特に何も言わず、何か頼めば、例えば食事などを希望すればすぐに持ってきてくれたし、道に迷ったときはここがどこで何をするべき場所か教えてくれた。ただ、監視のつもりなのだろう、船を歩く間中は部屋の外にいた男が常にすぐそばにいたが。

 それでも、ノゾミを害する素振りなど一切見せず、むしろ好意的な反応ばかりだった。しかし、同時に彼らはよそよそしかった。

 また、この船は巨大であるが、中にいる乗組員は少なかった。探せばもっといるのかもしれないが、少なくともノゾミが出会ったのはたった五人である。歩き回った時には出会わなかった、あの女を含めても六人である。

 聞けば、器律式なるもので半自動化制御されており、通常業務としてはそこそこ暇らしい。さらにこの船の艦長──船だけでなく、彼らは部隊としてこの船を持っているだけなので、部隊長というべきなのかもしれないが──彼女が空にいる他の部隊と比べても特別優秀で、他の人はそれによりさらに手持無沙汰になっているとのことだ。

 ノゾミが自由に歩けるのは巨大な船の中の中でも、食堂、それぞれの私室、甲板という名の屋根に覆われた広場くらいであったが、聞くところによるとこの船はヒトがまだ地上で自由を謳歌していた時の船を同じような構造をしているとのことだ。とはいえ、ノゾミは船の構造何てほとんど知らないし、甲板についた屋根など空を飛ぶために各所の改変は行っているようだけども。

 そのどれもを、幾度かノゾミは周った。行ける所ならばあらゆるところに手を伸ばしてみた。監視下でそれほど行けるところは多くなかったけれども、どこかに元々の「救世の家」の名残が残っていないが探してみた。

 完全になくなったわけではなかった。間取りや一部の家具などは、「救世の家」と似たところがあった。しかし、それしか残っていないという事実は、「無くなった」という現実をさらにノゾミに叩きつけた。

 食堂の飯は美味しかった。甲板という名の広場はどういう仕掛けか、外を透かしていて開放的だった。

 しかし今、ノゾミは自分に与えられた部屋にこもっていた。椅子の上で、膝を抱えていた。いつの間に搬入されたのか、ふかふかと柔らかい寝台が部屋に置かれていたが、それには見向きもせず、椅子の上で俯いていた。

 扉は開いたままで、その向こうには誰の姿も見えないが、恐らく監視役としてあの男が佇んでいるだろう。

 そんなことは、ノゾミには関係ない。

 ここに来る前のことを思い出す。

 シラセと話していて、ユウに出会う前だった。今の状況に多少混乱していたからか、そう言えばシラセはどこにいるのだろうと今頃になって考える。ユウのことはすぐに出てきたのに、直前まで話していたシラセは今まで全然頭に浮かんでこなかった。直前まで話していたという事は、ノゾミがここに連れられるときに彼女もノゾミを連れ去る者と出会っているだろう。

 出会えていないだけでノゾミと同じようにここにいるか、それとも見逃されたか、あるいは──。

 最悪でありつつもよくある想定を、首を振って否定する。

 考えても仕方がない。

 ノゾミは、顔を上げて窓の外を眺める。真っ暗で景色などは何も見えないが、きっと外はまだ雨が降りしきっているのだろう。青く輝く紋様の近くには反射した光の筋がいくつも見える。

 そんな時、突然窓の外が赤い光で染まった。予想外に眩い輝きに、咄嗟に目を細めようとして、

 轟音が鳴り響く。

 身体を震わせるほどの大気の震え。

 いったい何が起こったのかと、窓の外を確かめようとして、

 船体が落ちた・・・

 強烈な衝撃がノゾミの体を襲う。立っていられなくなる。

 なんとか膝をついてバランスを保とうとする。そんなとき、もう一度船が揺れた。そのままの体勢が保てなくなり、振動に合わせて地面に体が打ち付けられた。

「……ぁ」

 僅かに呻きを上げて、そのまま視界がぼやけた。

 力を失ったその身体は、船の動きに合わせて宙を舞った。


     :::::


 体中がべたべたとした、生暖かい何かに包まれている感覚が、ノゾミが目覚めてまず味わった感覚だった。

 次いで、身体中の痛み。

 打撲のような痛みが、全身に走る。

「ぃっ……!」

 その痛みに思わず小さな悲鳴を上げて、目を開いた。すると、目の前にはノゾミに乗っかっている血塗れの男の顔。

「ひ…………っ!」

 驚いて体を起こそうと力を入れると、再び体中に痛みが走る。

 しばし己の思考が落ち着くまで待つ。

 よく見ると、目の前の男はノゾミをずっと監視していた男だった。名も知らぬが、短時間と言えど一緒に歩いた仲だ。大して親しくもないが、血塗れの彼を見ると、ほんの少しだけ可哀そうに思う。

 とりあえず、体を起こすために体を引きずる。目の前の視界は男の顔が占領しているが、共に歩いたときの男の身体はノゾミの1.5倍はありそうだったので、それを痛みに耐えながら退けるのは難しいと判断したためだ。

 ゆっくり腕を地面に突っ張り、体を引き出そうとする。すると、

 ごろん、と。

 男の体は、思いのほか容易く横へ転がった。

「……え?」

 なにが起こったのか。元から状況をよく理解できていなかったノゾミの頭には、疑問符ばかりが浮かぶ。

 男が思いのほか軽かったこと。辺りはいくらか立ち上がる炎で薄暗くもそれなりに明るかったこと。うっすら見える景色は荒廃した地上だったこと。その薄暗さで気付かなかったが、男の下半身が千切り取られていたこと。ノゾミの身体中を覆っていた不快感は、そこから溢れ出る血液であったこと。

 その全てを一度に呑み込むことなど、到底出来やしなかった。

 男の顔をもう一度見てみる。手で触れてみる。その体は、既に血が抜けきってしまっていたのか、冷たかった。

 その男はユウを守るようにして、死んでいた。再び辺りを見回すと、船の材質のような大きな柱がいくつも突き出し、崩落した屋根やはじけた石片を防いでくれていた。そして、その柱は、男の下、ノゾミの下の地面に広がる魔法陣から出現していた。船の紋様のように光り輝いていたのであろうそれは、今では駆動を停止したのか、ただの紋様と化している。

「ぁ……」

 体中痛むが、そんなこと気にしてはいられなかった。

 完全に状況を呑み込んだわけではないが、そのことだけは理解した。

 この男は、身を挺してノゾミを守ったのだ。

 目の前で人が死んだ。ノゾミを守って。

 もう、手遅れだ。

 手の施しようのないその男の下から、そっと体を引き出して、自由の身となる。ゆっくりと脚に力を籠め、その場で立ち上がった。

 足元に男の死体が伏し、その傍らで辺りを見渡す。

 船が、「救世の家」が、地上に墜ちていた。ある程度無事な箇所もあるが、もはや動く事はないだろう船の残骸が辺りに散らばっている。ただ墜落しただけではここまで飛散はすまい。それほどの衝撃を以って墜落したのであろう。

 辺りにはノゾミと同じようにふらふらと立ち上がる人影があった。しかし、その数は三人程度。ユウが出会っただけの人でも五人。ノゾミを守って死んだ人を差し引いても、その数は圧倒的に少ない。

 船の墜落、崩落により、それほどまでに人が死んだのだ。

 人死には日常茶飯事とはいえ、これは確かに惨事だった。

 彼らは確かに「救世の家」を破壊した張本人たちだ。しかし、どうしても彼らの死を喜ぶ気にはなれなかった。

 ただ、呆然とする。

 そんな中、ただふらふらと立ち上がるでもなく、なにか、目的をもって動く影があった。見れば、それは身体の一部が無機質に変性した、あの女だった。彼女の名前も知らないが、この船の艦長であることだけは知っていた。

 ノゾミの方へ、彼女は近づいてくる。

 僅かにふらつきつつも、しっかりとした足取りで。そのふらつきも、傷を負ったからというようなものではなく、精神的なところが原因の物だった。

 されど、どこか決意を秘めて。

 彼女はノゾミの正面に立った。ノゾミよりも高い女の顔を見上げる。

 その顔は悲痛に満ち、悲壮な炎を瞳に讃えて。

 女が口を開く。


「わたしたちのために……死んでくれ」

 女が手をかざした。


 はっきりとした白い紋様がノゾミの正面に展開される。先の言葉と合わせ、ノゾミは身の危険を感じ、咄嗟に横に転がった。

「……ぅ……っ!」

 節々が痛い。動きたくない。

 しかし。

 空間・・が凝縮された。

 ノゾミが立っていた場所が、大気が、地面が、縮んで、回転して、弾けて、爆ぜた。

 石片が顔を掠める。

 なにが起こったのかノゾミには分からない。殺される、そのことだけが頭によぎる。微かに周りからほかの人間の驚きの声が聞こえてくる。しかし彼らの声は唐突に収まる。彼らの行動は固定されたかのように静止していた。女はそれに構わず、再びノゾミに手をかざす。

 その動作はひどく緩慢で、手は震えており、されど殺意を持って。

 ノゾミは踵を返して逃げる。

 時折振り返りながらも、ほとんど勘で転がって避ける。女は決して走らず、ただ見失わない程度の早歩きで迫って来ていた。

 右に、左に、そのまま前へ。左と思わせて右に、もう一度右に、崩壊した壁の後ろに跳び込んで。

 思い切り跳び出し、急に止まって方向転換。曲がると思わせて真っ直ぐ。そのまま転がって、左へ曲がる。

 痛む身体を叱咤する。

 背後にいる女から、小さくもはっきりとした声がノゾミの耳まで届いてくる。

「……殺さないと、誰も守れない。わたしは地獄に落ちてもいい。だが、仲間までそれに付き合わせるわけにはいかない。全ての責はわたしが負う。だから、あの子を殺すのはわたしだ」

 それは元から聞かせるつもりはなかったのだろう。それは己を鼓舞する言葉だった。

「殺す。殺さねばならない。でなければ、空へ帰れないのだから」

 相も変わらずノゾミへの攻撃の手を緩める気配はない。むしろ、言葉が続くとともに徐々に隙がなくなってきている。それは、彼女自身の迷いの表れであろう。

 もちろんノゾミに、その言葉に反応する余裕はない。強くなった攻撃の前では、弾ける空間の感覚と大気と地面の爆ぜる音がノゾミの脳を支配し、言葉を聞き取ることすら難しくなってきた。

「ああ、“勇者”様は、なぜかような子供を見棄てるのか」

 その言葉を最後に、女の攻撃から一切の躊躇がなくなった。

 激しく視界が歪み、崩れる。

 見たことのない空間の歪みと迫る死の気配で、吐き気がする。

 そして、

「……うぐっ!」

 顎に何かの衝撃を受け、ノゾミは昏倒した。

 先ほどまでは躱せていた女の攻撃に、ノゾミは一瞬で捕まった。幼い子供を潰すことなど造作もないだろう。ノゾミの周囲の空間が凝縮し──。

──あぁ、死ぬのか。

 逃れ得ぬソレに捉えられ、奇跡など起こるわけもなく、なんど死ぬと思ったことであろう。間違いなく死ぬと感じた時もあった。そんな彼女は、もう、いいやと、無気力に。

 家族もいない。在った目的も失った。

 煤けてしまった栗色の髪の少女の顔に諦観が浮かび、


 一瞬、空間の凝縮が止まる。

 ノゾミを見る女の顔に苦しみに似た表情が浮かぶ。なにかを話そうと口が開き、


 横から突然衝撃を受け、ノゾミは解放された。そのまま何者かに担がれ、走り去る。そのものの足取りはしっかりとして、どこか安心感が得られて、それは誰だと顔を動かしてその者の姿を見た。

「のう、ノゾミ、どんな心境の変化かわからぬが、人を騙すのは悪い事だと思わんかのう?」

 白い着物の、小さな体躯が逆に担がれているかのとうにボストンバックを背負っている少女が走っていた。


 ユウは、ノゾミを担いだままある程度まで走ると、そこで彼女を下ろして廃屋壁際の物陰に身を隠した。

 あちら側も突然邪魔が入るとは思っていなかったようで、走り出しが後れた彼女はノゾミたちを見失っていた。

「ノゾミよ、なぜ主は急にあやつに殺されかけておるのじゃ?」

 そんなことはノゾミの方が聞きたいが、そんなことよりも、

「どうして……ここにいるの?」

 ユウと別れた場所は、ノゾミが勝手に飛び出した場所はここではないはずだ。それに船で空を移動している以上、移動速度に関しても追いつけるはずがない。動機的にも物理的にもユウがここにいるわけがなかった。

 驚いているノゾミに、ユウがなんてことないように手を振る。

「うむ、まあ、偶然とかいうやつかもしれぬのう?」

 理由を答え切れていない答えに、ノゾミも釈然としない様子ではあったが、今はそれどころではないと意識を切り替える。

「それで、あやつは一体全体なにをして、主を狙っておるのじゃ?」

 もう一度その問いを繰り返されるが、ノゾミにもそれはわからなかった。そのため、黙って首を横に振る。

「うーむ、ノゾミがわからんとなるとどうしようもないのう。あやつに直接尋ねるわけにもいくまいし……そう言えばシラセはどうした?」

「ここにいるの、ですか?」

 ノゾミにとって、シラセと船で出会っていない以上、その事は初耳だ。驚いて訊き返すと、ユウは頷いた。

「うむ、主が人質に連れ去られたのちにシラセがあの船に乗ったはずじゃが……」

「大……罪人」

 小さく過去の言葉を反芻する。

「私は見ていないから、どこにいるのかも……」

 船の墜落の衝撃で死んだかもしれない、などという事は言えなかった。それをノゾミ自身が口にすると、なんだか真実になってしまいそうで、ノゾミにはその勇気がなかった。

 じゃり、と軍靴が砂を踏みしめる音が、迫っていた。

 無駄にあの力を連発するようなことはしないようだ。流れ弾でやられることはなさそうだとほんの少し安心する反面、いつ見つかるかもしれぬ恐怖がノゾミを襲う。

 隣で座り込むユウも、この状況をどう打破したものか考えこんでいた。

 じゃり。

 音はだんだんと近づいてくる。

 息を殺し、身を屈めて見つからないように隠れ潜む。

 じゃり。

 また、音が近くなった。すぐ後ろにいるような気がする。当然だが、見つからずに顔を出して相手を見ることは難しいため、こちらも相手の様子が分からない。

 じゃり。

 すぐ横から音が聞こえた。おそらく、今隠れている壁の向こう側だ。こんな時に限って、地面は水はけの良い砂なんだな、なんていう無意味なことが頭に浮かんでしまう。

 さらに身を屈める。口に手を当て、少しでも声が漏れないように意識する。ノゾミには理解できないあの力。見つかれば、待っているのは死だ。

 見ればユウも、ノゾミほどではないが潜むように音を殺していた。

 そして、音が遠ざかった。

 安心できるような距離ではないが、ほんの少しだけ緊張をほどく。

 そのまま行ってくれと祈ろうとしたとき、

「ここならば、よいか」

 ぽつりと、そんな声が聞こえて。

 これまでの比にならないほどの大規模な空間の歪みが辺り一帯を覆い。


 その歪みは、捻じりは、うねりは、何よりも“終焉の徒”に近かった。


 誰よりも早く、ユウはハッとした顔をする。

「いかん──ノゾミっ!」

 鬼気迫るユウの声に、ノゾミが我に返るよりも早く。


 位相が、ズレた・・


 次元が歪み、空間がうねり、世界が崩れる。


 ノゾミはそれに呑み込まれるような錯覚を覚え、実際に呑まれかけ──目の前に白い影が被さった。

 それでもノゾミの視界の崩落は収まらず、その人影が崩れる。

 気が付くと、そこは大地が歪んでいた、大気が乱れていた。空間の崩壊のその余韻が、この場を支配していた。その中でノゾミ一人、座り込んでいた。

 いや、一人ではなかった。

「いき、のこったんだ」

 顔の半分ほどが無機質な、そして何かの武器のような無骨な物資で覆われている。その割合は確実に増していた。そんな女が、中心に立ち尽くしていた。

 ノゾミを見ると、苦しげな、悲しげな顔をする。

「……さっきので、死んでいてほしかった」

 その女の顔は悲壮を帯びているが、ノゾミの顔は絶望で覆われていた。そんな彼女に、女は手をかざし、何度目かわからない白い紋様を展開する。

「なんで、なんで……!」

 ひたすら、ノゾミはそんな言葉を繰り返す。しかし、その言葉に女の行動はぴたりと止まった。

「わたしだって……!わたしだってしたくないさ……!」

 絞り出すように女は言う。

「だが、誰かがやらなければ」

「私の家を壊して、何が“終焉の徒”なの……!あなたは、安全な空の上に生きて、たんだよね……?」

 かすれた声で叫ぶノゾミのその声に、女は苦い顔をする。

「……そうだ。わたしは空の上に住んでいた。仲間たちと。そして、任務は“終焉の徒”の掃討。君たちの殺戮だった」

 その言葉を、口にすることも忌々しいとでもいうように吐き捨てる。

「しかし、真実に気付いた今、それを伝える必要がある。そう判断して、故郷に帰ろうとすると、拒絶された。“終焉の徒”に汚染されたと、排斥された」

 そこには確かに怒りのようなものが含まれていたが、同時に仕方がないとでもいうような達観した様子もあった。

「そして今、代わりにわたしたちには新たな任務が命じられている……!それを達しなければ、わたしたちは帰れない……!君を殺す、それをしなければわたしたちは、故郷に戻れない……!」

 だから、死んでくれと。帰るべき場所を失った少女を、故郷に帰るために犠牲にすると女は言い放った。

「罪は全てわたしが背負う。わたし自身はどんな罰で受ける。だが、仲間たちは、守らなければならないんだ……!」

 そうして、女のかざした手から展開されていた魔法陣が、輝き始める。

「かえるべき、ばしょ……」

 もう、何も思い浮かばず、ただ無意味に言葉を紡ぐ。

「……おねえ、ちゃん」

 走馬灯だろうか。

 失った全てを思い返し、少女の瞳から滴が零れた。

 そして、


 “愉悦”を象徴する嗤いが、響いた。


 ノゾミはソレを一瞥すると、目を見開き、意識を失った。


     :::::


 壊れる、毀れる、沈む、浮ぶ、苦しくて、愉しい。


 その嗤いは全てを内包していた。

 全てを甘受していた。

 同時に、全てに飽いていた。


 女の展開していた器律式の魔法陣が突如として消失する。もちろん彼女自身が故意に消したわけではない。さらに強大な力により、かき消されたのだ。


 憎め、怨め、恨め、壊せ、堕とせ。

 何でもいい、誰でもいい、何処でもいい、理由など、いらない。

 盗め、奪え、殺せ。


 冷たい哄笑と虚無の嗤いが幾重にも重なって世界を支配する。

 それは全てを憎悪し、厭忌し、嫌悪し、唾棄し、あまねくを滅ぼさんとし、


 そして、森羅万象を愛していた。


 どうしようもない苦しみが、喜びが、孤独が、愛しさが、

 ただ概念として叩きつけられる。


 女は、畏れを抱く。

 それは恐怖であり、畏怖だった。

「まだ少し見ておこうかとも思ったがのう」

 世界の理がずれ、冥府の異界と化したこの場に、しっかりとした声が響き渡る。女はその声を聞き、我に返った。

「君は……!?」

 女の視線の先には、白い着物を纏った少女、

 バラバラにコワされたはずの少女は、それが当たり前であるかの如く、ノゾミを抱いて平然と立っていた。

 煤けていたはずのその白い着物は真白に妖しく輝き、そして──。


──虚無が、空いていた。


 心臓があるちょうどその箇所。そこは深く陥没しており、何もない・・・・。白い着物を着ているにも関わらず、なぜかそれが分かる。

「あそこで終焉を迎えさせるのも、また一興だったかもしれぬ。しかし、呼ばれてしまったからのう」

 女は呆然として、着物を着た少女を眺める。

「姉と呼ばれたからには、役割は全うせねばなるまい?」

 さも当然の如く言い放った少女の姿は、あまりにこの場に似付かわしくなく、同時に誰よりもその場に相応しかった。

「君は……だ……?」

 女は声を絞り出す。

「そう聞くという事はわかっておるのであろう?」

 そこで少女は言葉を止めた。

 そう、この空間において、その背筋を撫でるその感覚が、それを教えてくれていた。

 少女が再び口を開く。


「わしは<幽かに揺れる彼岸の界>──六番目の≪終焉を告げるモノ≫

 然して、その概念は“幽霊”じゃ」


 死装束を来た≪終焉を告げるモノ≫は、栗色の髪の少女を抱いたまま、声高く嗤った。


 女はその声を聞いた瞬間、即座に器律式の紋様を展開する。すると、同時にユウの周囲が弾けた。しかし、それは全てユウの身体を透過し、傷どころか、触れている感触すらなかった。

「言ったであろう。わしは“幽霊”じゃと。主らがそう呼んでくれたのじゃがなぁ?」

 ノゾミを抱いたユウは、心底楽しそうに嗤い声をあげる。しかし、一歩も動こうとはしなかった。

「くっ……だが、序列六位ならば……!」

 女は、ユウが一番弱いとされる<幽かに揺れる彼岸の界>であることに、なんらかの勝機を見出したのか、両手を合わせた。

 ユウはそれをただ傍観する。

 その行動原理はただひとえに、興味があったからにほかならない。

 女の両手から紋様が召喚される。金色の神々しいそれは、女の身体すらも侵蝕する。しかし、女がそれを止める様子はなかった。

 それを見てユウは目を細める。あの光に触れるのはいくらユウでも危険だ。それが分かった。

「ふむ」


『──世界に仇成す因果の器。されど、我は対立の器なり。顕現せよ“位相”──』


 詠唱が終わり、その輝きが収まった時、その手には、少し頑張れば片手でちょうど持てるほどの透明な球体が握られていた。

 それを見て、ユウは嗤う。さらに“愉しげ”に、悦楽に浸って。

 そして、女の六割ほどが変質した顔をじろじろと観察した。

「主のその姿、分かっておったことじゃが……さては「救世の家」を壊した後で『勇者の武器』を“匣”に取り込んだな?」

 『勇者の武器』──それは“勇者”が用いた武器だ。概念を封印するというのは一つの側面であり、本質ではない。その本質は「概念を武器として固定化する」ことだ。その原初の武器。それが『勇者の武器』。

 そして、その全てを、ユウは知っていた。

 その言葉を聞いて、女は球体を前に掲げる。それは、見た目はただの球体だが、見た目に似付かわしくない強大な力が秘められているのを、ユウは知っている。

「“位相”か、確かにちと面倒なやつじゃのう、まあ、全部面倒なやつじゃが」

 その言葉に女は縋り、チカラを発動させた。


 世界が乱れ、大気が歪み、そこに在るモノが潰される。

 空間が絶たれ、現れ、ズレる。それはただ空間が爆ぜるだけではない。

 それは、文字通り位相を“ずらす”チカラだった。


 その力は確かに世界の理を逸脱していた。≪終焉を告げるモノ≫に届きうるチカラだった。しかし。

「それだけかいのう?」

 歪むセカイの中で、その爆心地にいる≪終焉を告げるモノ≫は、平然としていた。それどころか、彼女の抱いた少女にすら傷一つ与えられていない。

「……な」

「“勇者”の力は確かにわしを殺しうる。今の主の力でも十分にやってのけられる。しかし、やはり無理じゃのう」

「くっ……うる、さ……!」

 女の身体の変質が進んだ。

「それは人の身に余る力じゃ。空の“勇者”の領域ならまだしも、この地上ではわしを殺す前に主が死ぬ。いや、正確には主の存在が世界から“外れる”。亀裂に呑み込まれて死ぬじゃろう」

「それ、でも……!」

 女にも、退けない理由があった。目的のためには、帰るためには、無理をしなければならぬときがある。

 再び球体を掲げる。その力が再度発動する前に、

「んー、そこまでする事かのう。まあよい、なればわしもそれ相応の返答をするとしようかの」

 ユウは、初めて一歩踏み出した。腕にはノゾミが抱かれたままだ。

 そして、

 ピシリ。

 ただ一歩。その一歩を踏み出した瞬間、偶然・・大地が割れた。遠く、遠くまで亀裂が走った。ちょうどその先には、偶然・・にも女の仲間がいたはずだ。

「ぁ……」

 それに女は言葉を失う。

 亀裂は女の足元まで届き、呑み込もうとする。慌てて我に返るとそれを躱す。しかし、

「無駄じゃ」

 飛び退いた先には偶然・・槍のように突き出した棘がある。当然のように避けようとするが、踏み込んだそこに偶然・・くぼみがあり、脚を取られる。さらに偶然・・にも彼女を追うように亀裂が広がり、さらに呑み込まんとする。そのような些細な偶然・・を繰り返し、遂に──。

「運命には、抗えぬものじゃ」

 ユウが少し前に拾った鎖。なぜかそれが女の首を絞めていた。

 苦悶の表情で女はユウを睨む。しかし、なにかを口にすることはできなかった。

「わしは“幽霊”じゃといっただろう?そして、その本質は呪いじゃ」

 呪い。

 なんだそれは、と苦痛の中で女は疑問を浮かべる。

「ああ、そうじゃのう、主はひたすらに不運だったのじゃ。なぜか船は落ち、そこに≪終焉を告げるモノ≫が現れ、無残に殺される。これを不運と言わずなんと言おうか。そして、それが呪いの本質じゃのう。

 わしは、因果を歪めて世界を壊す。そういう存在モノじゃ」

 死装束を着た≪終焉を告げるモノ≫はひたすら嗤う。何がおかしいのか、何が“愉しい”のか、己にもわからずとも嗤う。

 女としても、船が落ちたのは確かに不可思議だった。空を行く船が、機体そのものに不調がないにもかかわらず、なぜ落ちたのか。

 その因果を繋げたのが、この≪終焉を告げるモノ≫だった。

「な……が……」

 なにがしたい、そう尋ねたかったが、絞められた首と朦朧とする頭では言葉にならない。<幽かに揺れる彼岸の界>はただ嗤う。

 ある意味、それが答えだった。

「さあ、終わりじゃ」

 その言葉に、女は絶望と後悔の顔に染まる。苦しみで涙が溢れる。

「誰かの居場所を奪った者が、幸せに己の居場所に帰れるとでも思ったのかのう?そんなこと、無理に決まっておろう。奪った物は返せぬ。奪われた者は消えぬ。ならばいくら贖おうとしたところで、その末路は決まっておる」

 ユウの腕に抱かれたままの少女の姿が、女の視界に映る。

「安心せい。わしは他人の苦しむ顔は特段好かん。すぐ逝かせてやろう」

 <幽かに揺れる彼岸の界>が一歩踏み出す。それだけで偶然・・にも女の首を縛っていた鎖が動いた。

「疾く、去ね」

 その言葉を最後に、

 じゃらじゃらと音を立て、

 ぽきり。

 あまりにあっけない音を響かせて、

 名も知らぬ女は絶命した。

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