第5話(中)終末が訪れた

 ユウの目の前には、少女が二人並んで歩いていた。

「その、シラセ、さんは私たちについてきてよかったんですか?」

 まだ遠慮が残りながらも、ノゾミが話しかける。

「ふはは、呼称なぞ何でもよい。お前に何と呼ばれようとて、我は気にしないのでな。あと、そうだな、我はユウについていくことに決めたのでな。それに、このような終末世界で他に目的もないだろう?同胞と道を同じくするのは、当然のことだ」

「どうほう?」

「切磋琢磨する仲間であり、ともに歩む友であり、死すらも別てぬ兄弟姉妹だ」

「えぇっと、つまり?」

「そういうことだ」

「え?」

 ノゾミにはシラセの回りくどい言い回しはわかりづらいようである。幾日かともに過ごせば慣れてくるだろうが、それまでは辛抱だ。

「仲のいいことで、よいことじゃ」

 少し遠めにその後ろをついていきながら、ユウは呟く。ノゾミとシラセは、言うほど仲のいいというほどでもないが、悪いというわけでもない。そのうちもっと仲が深まることとなろう。

 呑気に歩きながら、ちらりと歩いてきた道を振り返る。

 ユウたちは、「救世の家」だった船を追っているが、その道のりはまっすぐではなかった。紆余曲折ありながらここまでたどり着いているため、本当にその足取りを終えているかもわからない。

「そもそも、どこに向かっておったのかのう?」

 相手が飛行しているため、目的地までは通常ほぼまっすぐに向かうであろう。気流の関係などで多少寄り道をすることはあれど最短距離で進む可能性が高い。

「歩いていけば、そのうち見えるじゃろうと思っておったけれども」

 もちろん、どこかの空中大陸に向かった可能性もあるが、わざわざ空中大陸に向かったにもかかわらず、そこから別の場所に向かったのが気にかかる。ゆえにあえてその可能性には目をつぶって歩き続けている。

「うーむ、薄暗いのう」

 空中大陸の見える空を見上げる。

 今朝にはいくつも小さい雲が集まったようないわし雲が見えていたそこは、だんだんと一つ一つの雲が密集し始め、大きな一つの雲となりつつある。まだ、空は7割くらいがおおわれている段階で、一応晴れと言えるくらいだが、巨大な影を落とす空中大陸と相まって、地上はかなり薄暗い。

「まぁ、どうにかなるか」

 特にそれ以上深く考えることもなく、前の二人の跡をついていった。


「飯にしよう!」

 歩き続けて数時間。そんな言葉が周囲に響く。

「どうしたのだ、ユウ、耐えきれぬほどに肉体の限界を迎えたのか?」

 辺りは薄暗いままで日の高さが分からず、ユウの腹時計が限界を迎えた。

「まあ、その通りと言えばその通りじゃが、主はともかく、ノゾミは疲れたじゃろう」

「む、そうか?」

 シラセは隣に歩くノゾミのほうを見る。そこには、首を横に振りつつ、同時に足も震えている少女の姿があった。すぐ近くにいるシラセは気付いていないだけかもしれないが、少し遠めに見ていたユウからはその様子がよくわかる。

「ノゾミはそうではないと言っているが?」

「じゃあ、わしが疲れたのじゃ」

「それならそうと言えばよいのだ」

 そういうシラセは満足げだ。

「あとちょっとだけ……」

 ノゾミが小さくそんなことをつぶやくが、ユウは聞こえないふりをした。

 背負っていたボストンバッグどっかと地面に置き、バッグから食事をいくらか取り出すと、目の前に落とした。出てきた食料は鳥の蒸し焼きのようなパックである。それを開くとコンロを点火し、肉に火を通す。それをシラセとノゾミに渡した。

 シラセとノゾミはそれらを受け取ると、とりあえず食べ始めた。

 川に落ちたこともあり、残っている食料が心許ない。密封袋に詰められていた食材や缶詰は残っているが、単に布で包んでいただけの食材などは大体が保存できず、早々に調理したか捨ててしまった。

 いまシラセとノゾミに渡したのは、ずいぶん昔に作られたのであろう真空パックに詰められた肉である。ユウの記憶が正しければ、それはよくコンビニエンスストアとかいう店で売られていたはずだ。「救世の家」ではなく、通りがかった崩れた建物の中から盗ってきたが、もしかするとそれがそのような店だったのかもしれない。

 昼間はその肉のみで我慢する。しかし、恐らく夜はいつも通りの食事を取るであろう。食材が少なくとも、それほど無理に節約などという物はしない。明日すら、生きていられる保証もないからだ。とはいえ、全く考えずに消費するわけにもいかない。ゆえに夜のみちゃんとした食事を取ることにした。

 それに、ユウとしては腹が減ってからとる食事という方がなんだが美味しい。

「過去の技術という物は偉大じゃのう」

 どれだけ最近の物だと見積もっても、恐らく数年は経過しているだろうが、生で食べても妙なにおいもせず、口に入れてもそれなりに美味しい肉の味しかしなかった。

 通常であればまず間違いなく腐るなりしていると思ったのだが、運がよかった。ならばなぜそんなものを、しかも生で食べたのかと言われると、単純に食料が少ないからというのと、生ではどんな味がするのか気になったからに他ならない。後に腹を壊したらその時はその時である。

 シラセはすでに食べ終えて、その辺りに落ちている大きな岩に腰かけて休憩していた。しかし、ノゾミの方はまだ小さく肉をかじった程度で全然食事が進んでいない。時折船が進んだであろう方向を見て、そわそわと体を動かしている。

 そこには、抑えきれぬ焦燥感が垣間見えた。

「まあ、ノゾミも同じ考えなのかもしれんのう」

 小さく呟く。

 いつまでも見えない船の行き場。目標はありつつも、目的地の見えない行軍に焦りが募っているのだろう。それに、ユウよりもはるかに、ノゾミの「救世の家」への思い入れは強い。

「なー、ユウよ。あの幼子は一体何を焦っているのだ?」

 シラセがユウに近寄ってきた。ノゾミの焦りは、出会ったばかりのシラセにも筒抜けであるようだ。

「うむ、シラセにはわしらがどこへ向かっているか話したかのう?」

「ユウは話していないが、幼子が話してくれたな。なんでも天を進む青き紋章を帯びた船が突き進んでいったとか」

「うん?やけに詳しいのう?まあ、いいか。しかし、その姿が一向に見えぬのでな。それで焦っておるのだろう」

「そんなに焦ることなのか?」

 シラセの疑問ももっともである。ただその船を追うだけあれば、自分のペースで追っていけばよい。

「それを尋ねたという事はもう幾らか察しておるのだろう?ノゾミにとって大切なナニカがアレに存在するという事に」

「まあ、うすうすはな」

 具体的にはわからずとも、早く追いつきたいという願いがあるならば、そのように予想するのも当然だろう。

「あの船はのう、ノゾミの『家』だったのじゃ。理由としてはそれだけよ」

「ふうむ、『家』か」

 そう呟くシラセの顔は、思うところがあるのかどこか寂しげだった。

「ま、焦ってもしょうがない。ノゾミ自身もそれが分かってるからこそ焦りがさらに募るのじゃろうな」

 そのようにして、話を締めた。ノゾミもそれ以上に話を続けることはなく、ノゾミの傍の岩に座り込み、何やら話をし始める。きっと先程までと同じように他愛ないことを話しているのだろう。ソレに耳を傾けることはなく、ユウは船の向かった先を見つめた。


 曇天模様に大陸の影が掛かる。

 元から薄暗かった地上は、さらに暗くなる。宵闇ほどではないにしろ、昼間とは思えない暗さだ。

「雨が降りそうじゃのう」

 暗くなった地上と真っ黒な空を見て呟く。

 流石に雨が降れば雨宿りをする必要がある。無理して行軍しても。体を冷やし、のちの損害に繋がる。この終末世界では些細な体調不良が命取りだ。

「どこかに屋根があるような場所が欲しいのう」

 辺りを見渡して、該当する建物なりなんなりがないか探してみる。

 いま彼女らが歩いているそこは、高いビルが立ち並ぶ大都会、だった場所だ。幾人もの人が行き交っていたであろうそこは、今では人っ子一人歩いておらず、高いビルも半分以上が倒壊している。そこら中にはガラス片や石片が散らばり、歩くたびにピシリと鋭い音が響き渡る。また、いつかに“終焉の徒”が訪れたのか、終末の象徴でもある赤黒い泥がそこら中にこびりついている。しかし、それは随分前のことだったのであろう。また、そこまで深く侵食もされなかったのだろう。今ではある程度その色を取り戻していた。ところどころ崩れ去った箇所もあり、未だ赤黒い領域も存在するが、もう他の無事な地とほとんど変わらない。

 “終焉の徒”に覆われた領域は、そこに存在する数多の生命を蹂躙するが、傷が浅ければ幾年、幾十年とかけて元の姿を取り戻すこともある。この街はその典型的な例だった。もっとも、“終焉の徒”の影響が抜けたからと言って、そこに在った者たちが戻るとは限らないが。

 獣もいない。虫もいない。

 本能に忠実な彼らは、滅びた大地に戻りたがらない。歪められた大地を生存本能が忌避する。再びこの地に立つのは、本能を理性でねじ伏せた人間くらいのものだ。

 そして、再び“終焉の徒”が来た時に、彼らは滅びるのだ。

 赤黒く侵食されたり、文字通りの意味で風雨に浸食されたりした建物が多く、意外と雨宿りできそうな建物が見当たらない。

「まあ、歩きながら見つけられれば良いか」

 まだ雨が降り始めたわけでも無し。のんびりと探そうかなどと考えていた時だった。

 ぽつり。

 ユウの頬に水滴が落ちてきた。

「豊穣の恵みたる天からの戴物か……」

「ん?」

 いつの間にか隣にいたシラセがそんなことを言ってきたが、流石によくわからなくてユウが聞き返す。

「この地を潤す雫だが、今はいらぬものだな」

「あー、つまり雨が降っていやだということかの?」

 シラセの言い方を簡潔に訳すと、ユウはなんだか不満げな顔ながらも頷いて肯定した。

「それに、閃光と共に落つる轟音が響き渡れば、それは恵みとは対照的な天罰となり得るな」

「閃光……んー、まあ、雷が落ちる可能性も確かにあるのう」

 ちゃんとした意見を言うときは普通の言葉を使ってくれないだろうかと少し思うも、理解できなくはなかったので何も言わないことにした。

 一粒だけ落ちてきた雨雫は、辺りに少しずつ数を増やして落ち続けていた。

「早々に雨を避けられる場所を探すとするかのう。おーい、ノゾミー」

 少し先行していたノゾミを呼び止める。ノゾミは立ち止まったが、ほんのわずかに逡巡する。しかし、結局はユウたちのところに戻ってきた。

「おー、ノゾミ、雨宿りするところとかどこかになかったかのう」

 先行していたノゾミならもしかするとどこか見つけた可能性もあるのではと尋ねてみたが、無言で首を横に振られた。また、彼女の顔はたびたびある一方向、船が行ったであろう先を向いていた。

「ふふふ、ユウよ、甘いな。我にかかればこの程度造作もない事よ」

 どうしようか頭を悩ませたユウに、シラセの声が掛かった。見るとシラセは少し遠くで手を振っている。その横には、小さくも、しっかりしたバス停が立っていた。屋根もついており、足元は濡れるかもしれないが、雨宿り自体はできる。

「む、少し心許ないが、まあ、よいか。のう、ノゾミ、雨が降っては進行速度も捜索能力も落ちる。いったん中断して、ここは雨を凌ごうぞ」

 ユウの言葉に、素直にノゾミは頷いた。

 雨足も強まってきた。ここにいてはびしょ濡れだ。

 シラセのいるバス停までユウは走る。その後ろにノゾミもついていく。そんな彼女の視線はやはり、船の行き先から離れないでいた。


 バス停の屋根にパラパラと音をたてながらいくつもの雫が落ちる。

「にしても、こんなバス停をよく見つけたのう」

 ユウは感心したように言う。

 今雨宿りしているバス停は、確かに廃墟と言えるほどにボロボロと崩れているが、どうにもならないほど崩壊しているわけでもなく、今すぐ倒れたりするような感じではなかった。ただ、古びた木でできており、この都会にはとても不釣り合いであった。

「ふっはっは、我にかかればこんなものだ。雨宿りにぴったりであろう?」

 自慢げにシラセが放つ。

「うむ、そうじゃな、よくやった。ありがとう」

 シラセの手柄以外の何物でも無いので、ユウも素直にシラセに礼を言う。言われた彼女は満足げだ。

「……いつまで、続くのかな」

 段々と勢いを強くする雨を見て、ノゾミがぽつりとつぶやいた。

「んー、もしかすると、今日一日はここで寝泊まりするかもしれないのう」

「え!?この狭い場所で寝るのか!?」

 ノゾミに対して言ったつもりの言葉に対して反応したのは、ユウをはさんでノゾミとは反対側にいるシラセだった。

「まあ、しょうがあるまい。寝苦しいかもしれぬが、今から移動するわけにもいかんじゃろ。今日一日くらいは我慢してもらうぞ」

「むー、三人でこの狭き空間に寝そべるのは無理がないか……?」

 地面に落ちた雨粒が跳ねて雫が飛んでくるので、布でもかけてそれを防ぐことにした。

 バス停の屋根のとっかかりに、たびたびテント代わりにも使っていた布を引っ掛けて垂らす。下端が地面につかないくらいに調整して、完成である。単純だが、これだけでほとんどの水滴を防げる。光が遮られてバス停の中がさらに暗くなるが、特に光の下ですることがある訳でも無し、少しだけ濃い薄闇の中でぼうっと座り込む。

「暇じゃのう」

 いくらかして、ユウが呟く。特に答えを求めた言葉でもなかったが、他人がいるのになにも返ってこなかったら、それはそれで寂しいものだ。

 外の様子は布に阻まれてしっかりとは見えないが、隙間から覗くと勢いを増した雨粒が視界を覆っていた。

 じっと耳を傍たてると、雨が落ちる不規則な音がひたすらに耳に飛び込む。横の二人も特にすることがなく、シラセに至っては早々にユウにもたれかかり、瞼を閉じている。

 退屈なのも相まって、ユウの意識もいつの間にか闇に落ちていた。


「……ウ!……!起…ろ!大変だぞ!」

 耳元で響く喧しい音で、ユウは否応なしに目覚めた。

「んー、なんじゃ、うるさいのう……」

 ぐっすりと深く眠った後の朝ほどではないが、浅い眠りから目覚めたユウの頭は寝惚けており、夢現のなかでうっすらと瞼を開ける。

「寝ている場合ではないぞ!早く目を覚まさないか!」

 目の前には薄暗く、狭いバス停の中で立ち上がり、ユウの肩を揺らす青髪の少女がいた。その黒と碧の瞳と視線が合う。

「うん?なんじゃ、シラセではないか……よく生きておったのう……夢か」

「夢ではない!というか、焦るべきなのは我よりもお前だぞ」

 シラセの言葉が忠告めいてくる。

「まあ、ユウがどうでもいいというなら、我もやぶさかではないが……そうだな、もういっそのこと結論から話すぞ」

 依然として寝惚けているユウに、シラセは肩を揺らして起こすのを諦め、目の前で腕を組んだ。肩を揺らす衝撃から解放されたユウは再び微睡に身を任せ始めるが、そんな彼女に対してシラセが口を開く。


「幼子が消えたぞ」


 ユウの頭は一気に醒めた。


     :::::


 雨が降りしきる中を、ユウは走る。その後ろをシラセが付いていっていた。

 思わずノゾミの名前を呼びかけたくなるが、それをしても意味がないことはわかっていた。むしろ、引き留められることを嫌がり、逃げる可能性すらある。

 微睡んでいた間にノゾミがいなくなった。

 シラセもついうとうととしてしまったらしく、はたと目覚めるといなくなっていたという事だ。それに関してシラセを責めるつもりなど、毛頭ない。ユウも寝てしまっていたのは事実なのだから。

 彼女らはすぐさまノゾミの探索を始めた。ノゾミがどこに向かったのか、ユウには分かっていた。

 「救世の家」を探しに。

 ただ、それだけだ。

 ノゾミは、誰よりも「救世の家」を求めていた。失われた『家』を取り戻すことだけを考えていた。それは、「家族」という、大切なものを守るため。

 もう崩れ去ってしまったものだとしても、その大切な痕跡を遺すため。

 ノゾミはそのために、「救世の家」を追い求めた。

 ならば行く先は一つだけ。

 ユウは走ってきた道を一瞥し、これから行く道を見据える。

 船はこちらの方に向かった。少なくともユウはそのように見たし、ノゾミにもそう伝えた。ノゾミはこの道を突き進んだ可能性が高い。

 ばらばらと地面に落ちた雨が跳ねる。土砂降りの雨が視界を覆い、数メートル先すらも判別が難しい。ノゾミの足では例え走ったとしても、まだ遠くまで進めていないだろうが、故事ではなく文字通りの五里霧中にいるユウたちに、ノゾミの探索は容易ではなかった。

 脚を踏み込むたびにばしゃりと水を踏む音が響き、泥が跳ねる。

 行く道は予想できても、雨の中ではその道の中のどこにいるのかを探すために、ただ闇雲に走るしかなかった。

 服が大量の水を吸い、肩にその重さが乗っかる。

 水たまりに足を取られ、脚を踏み出しづらい。

 晴れの日のように視界がいい中で隅々まで探しているわけではない。見通しが悪く、視界が滲む中を走って探しているのだ。

 見逃しているかもしれないし、とうに追い越したかもしれない。

 それでもここにいると信じてユウは走り回る。

 なにが自身をそのように駆り立てるのか。娯楽の延長か、それともほかの何かなのか、それはユウにもわからない。

 それでも、捜さねばならぬのだ。

 決して体力がないわけではないが、雨の中を走り回るという行為に、息が乱れてくる。まだまだ脚の力は保ちそうだが、着実に体力は削られていく。

 それでも立ち止まりはしない。

 ユウの顔は、微かに笑っていた。

 愉悦の笑みではない。ただ、どこか満足そうな笑みだ。されど、その口角は耳元まで上がり、“愉しそう”な笑みへと変わる。

「家族、のう……」

 ユウに「家族」というものは決して・・・わからない・・・・・。これまでも、これからも。

「なればこそ、この役も意味があるというものよ」

 脚を踏み出す。

 さらに突き進む。

 薄暗闇の雨の中、ユウはノゾミを探して走り続けた。


 四肢は冷たく、体表は冷たい水に濡れ、身体の芯は凍える。

 視界もままならない土砂降りの中、ノゾミは歩き続けていた。

「……寒い」

 そんな言葉が口に出てしまうが、それはわかりきっていたことだ。

 雨の中でも、ノゾミは突き進むと決めたのだ。「救世の家」を追って。

 幾日かユウと共に歩いてきた。途中にはキョウという双子の片割れも共だった。もういないけれども。そして、今は代わりにシラセという者がいる。

 そして、歩いてきた中で、「救世の家」の痕跡は少しもなかった。空を飛んでいるのだから当然だと言えば当然だ。しかし、本当にこの調子でたどり着くのだろうか。そのような不安がノゾミを襲った。

 ゆえに、独りで歩き始めたのだ。

 別に彼女らが邪魔だとか、そう言うわけではない。ただ、独りでも歩くと決めたのだ。己のために、己の大切なもののために、誰を置いても行くと決めたのだ。

 薄暗闇の雨の中、水滴が視界を滲ませ、水たまりに脚が取られる。

 身体は冷え切り、けれど決して脚を止めない。

 倒壊したビルの影が、まるで化け物のような幻影を見せる。それを見て、否応なしに恐怖に襲われる。

「ユウと一緒の時は、なんとも思わなかったのに」

 ついそんなことを言ってしまうが、慌てて首を振ってそれを取り消す。聞いている者なんて、誰もいないけれども。

 不安と恐怖を焦燥感で押し潰し、唯、使命感と、もしかするとこの先にある「救世の家」に希望を抱いて前へ進む。どれだけ進んだのかもわからない。雨の中では、距離感すらもわからなくなる。

 大都会だった街中をひたすらに歩く。

 雨が降り、元から崩れかけていた床が完全に崩れ落ちた。

「あ……っ!」

 踏んでいた床が落ち、バランスを崩す。幸い崩れた跡の穴はさほど深い場所ではなかったようで、這い上がれる程度の穴だった。

 両腕を伸ばし、泥にまみれて這い上がる。時々赤みを帯びた土を握りながら穴から這い出た。

「いッ……」

 歩こうとしたときに、脚に鈍痛が走り呻いてしまう。みると、ところどころ擦り傷があるほかに、足首が腫れていた。先程まで痛くはなかったので、穴に落ちた時に挫いたのだろう。這い上がるのには主に手を使ったのと、一生懸命だったのとで気づかなかった。

 足首は痛かったが、それを我慢して再び歩き出す。

 ノゾミにとって痛みなど今はどうでもよいのだ。昨日までならその場で蹲ったかもしれないが、今は違う。

 死んでいないなら、まだ歩ける。

 そんなことよりも、ノゾミにとっては大切なのだ。

「あそこに、私の家族がいるんだ……」

 夢にいるかのように朦朧とした意識で呟く、冷えた身体にさらに無理をし続けたからかもしれない。

 それでも、脚を引きずって歩き続ける。

 突然に奪われた、己の家族。さらに、帰るべき場所と一緒に思い出まで奪われた。それを、目前にした“終焉の徒”によって実感してしまった。

 アレは、ただ蹂躙するだけの怪物ではない。ただの≪終焉を告げるモノ≫という化け物の配下ではない。

 アレは、死とともにそれまで生きた痕跡、存在そのものを喰ってしまう存在だ。目の前に出会っただけでなく、呑まれた・・・・ノゾミにはそれがよくわかった。

 間に合わなくなる前に。その存在を歪められる前に。

 まだ、少しでも残っているうちに。

 ノゾミは変容した「救世の家」を取り戻したかった。取り戻せなくとも、少なくとも別離を告げたかった。

 それが、ノゾミの焦燥の正体だった。


 歩いていると、ばしゃりという足音がすぐ近くで聞こえた。

 びくりと肩を震わせ、身を縮こませる。

 この大都会で誰がいるというのか。

 ノゾミの頭には、まずはユウかシラセという可能性が頭によぎる。しかし、次いで別の誰か、もしくはナニカである可能性も浮かんでしまう。どれだけ成し遂げたい使命があろうと、それを為す前に死んでしまっては元も子もない。その場でしゃがみこみ、視界の悪い雨の中で気づかれないことを祈る。

 歩いていく中で荒くなっていた息を殺し、大きく拍動する心臓だけが大きく響く。

 ばしゃり。

 水を踏む音は、あっちへ行ったりこっちへ行ったりと、様々な場所を行き来している。ノゾミはただ、祈り続けた。

 例えユウかシラセであろうと見つかりたくはない。見つかれば引き戻されるであろう。そうすれば、結局今までと何も変わらなくなってしまう。

 足音はだんだんと小さくなっていった。どうやら見つからなかったようだ。ノゾミはほっと息を吐き、

「見つけたぞ」

 心臓が跳ね、肩をびくりと大きく震わせる。しかし、その声には聞き覚えがあった。慌てて声のした方を見ると、

「幼子よ、帰るべき場所があるぞ。待っている者がおるぞ」

 黒と碧の瞳と青髪を持つ少女が、ノゾミのすぐ後ろに立っていた。

「シ、シラセ、さん……」

 その少女は腰に手を当て、少し偉そうにふんぞり返りながら、満足げに笑っていた。

「私に帰るべき場所なんて、ない、です」

 突然話しかけられたショックから立ち直ると、ノゾミはそう言って顔を背けた。

「うーん、我にも帰るべき場所などわからぬからなぁ」

 自分で言ったにもかかわらず、その次にはそんなことを言い始める。

「だったら、話しかけないで、ください」

 突き放すように言うノゾミに、シラセは腕を組んで一度目を瞑る。

「帰るべき場所、か……難しい問題だな」

 自分の世界に入っているように見えるシラセを、ノゾミは無視して進もうとする。近くに来ていた者がシラセとわかった以上、もう隠れる必要性はない。脚を引きずりながら進もうとした辺りで、シラセの目がかっと開いた。

「うむ!わからん!」

 なにがしたかったのかと歩きながらノゾミは思わず脱力する。

「なあ、ノゾミよ、逆に問おう。お前はなぜ、『救世の家』を帰るべき場所と定めているのだ?」

 その質問にわざわざ答えてやる必要性もないのだが。「救世の家」の話が出て反射的に答えてしまう。

「あの家は、私の思い出で、家族と過ごした日々が詰まっていて、どこよりも大切な場所だから」

「だが、本当の家族ではないのだろう?それに、もうあれは『救世の家』と言えるようなものでもあるまい?」

 その言葉に、ノゾミは息が詰まった。

「な、なんで、それを……?」

「我にかかればこの程度の状況推理など容易なことだ。しかし、お前はまだ二桁も生きたかそれすらも生きていないかという歳であろう?人生の上で到底長いとは言えない時間を過ごしたあの家を、そして本当の家族と過ごしたわけでもないあの家を“帰るべき場所”と定めたのか?」

「うるさい!」

 シラセの指摘に、思わず叫んでしまう。すぐにしまったと思い、頭を下げた。しかし、シラセは驚いた顔すらせず、ただ不思議そうに首をかしげるだけだった。

「あの家での日々は、私を“私”にしてくれた、んです。あの家が、そこの人々が。それに、同じように私のことを大切にしてくれた。それが私にもわかった。だから、です」

 拙くも、ノゾミは自分の想いを精一杯に言葉にする。けれども、シラセの不思議そうな顔はさらにその色を深めた。

「ふむ?だが、今のお前はあの家にいた時と比べても変化し、成長しただろう?それはその間、時を共にした者が起こしたものではないのか。ならば、今のお前を作っているのはその人物ではないか?」

「それは……」

 シラセの言う「その人物」とは、言うまでもない。

「それに、その人物もお前のことを大事に思っているであろう?幼子よ、ならば、なぜそこが“帰る場所”にはならぬのだ?」

「……っ!」

 返す言葉もなく、ノゾミは押し黙った。

「……関係、ない」

 ようやく絞り出せた言葉は、何の意味もなかった。

 ばしゃり、と新たな水音がかすかに聞こえてきた。

「うむ、ユウがもうすぐ来るようだな。我が同胞に幼子を見つけたと報告しなければなるまい!」

 シラセは嬉しそうにそんなことを言う。しかし、ノゾミはまだ戻るわけにはいかないのだ。

 一人得意げに頷くシラセを尻目に、静かに立ち去ろうとしたが、

「その脚でどこへ行くつもりだ、幼子よ?」

 彼女はちらりとも振り向かずノゾミの行動を看破した。

「傷を負ったお前ではどちらにせよ遠くまで行けまい。待つのは死、のみぞ」

「……」

 ノゾミ自身にもそれはよくわかっていた。それでも進まなければ辿り着けるまいと歩こうとしていたのだ。しかし、それも見抜かれ、ノゾミはそれ以上歩けなくなった。

 ばしゃり、という足音が近づいてくる。

 激しい雨の中に、その人影が見え始める。

 その時、


 空気が震えるような感覚と、セカイが歪む感覚に襲われた。


     :::::


 この辺りからシラセの声と同時にノゾミの声も聞こえた。

 そんな気がして、その声を頼りにユウは歩いていた。

 少し後戻りする結果になってしまったということは、ユウはノゾミの姿を一旦見逃してしまっていたようだが、シラセはしっかりと見つけたようである。

「うむ、見つけていたのなら褒めてやらねばなるまいて」

 その姿を実際に見るまで事実はわからないが、シラセがノゾミを見つけていたらほめちぎってやろうと決める。あの少女はどこか犬のような節がある。どうにもユウに懐いているようなので、褒めればきっと喜んでくれるだろう。最も、物資の足りない現状においてそれ以上のことはしてやれないが。

 雨に包まれた視界の中を手探りで進む。

 それはまさしくバケツをひっくり返したような大雨であり、嵐と言えるほどだった。

 しかし、その中でうっすらと影が見えてきた。まだ一人分の影しか見えないが、少なくともシラセとノゾミのどちらかがそこにいるようだ。

 数歩歩くと、もう一人分の人影が存在していた。

「おや?」

 その人影に少し違和感を覚える。

「うーん?」

 何にそんな違和感を覚えているのかわからないが、そのまま進んでいけばわかることであろう。

 ばしゃりと音を立てて、一歩進む。そしてもう一歩。

 進んで。


 セカイの理が、ズレた。


 その感覚が背筋を上った瞬間に、反射的に走り出す。

 何かが起った。

 それがわかった。

 そして、そこ・・に飛び出した。

 

 時空が、哭いていた。

 歪んで、壊されて、軋んで、


 異常に変質したそこは、存在を潰す。


 見かけ上は何の変化もない。しかし、そこは異界だった。

 しかし、その先にいたノゾミとシラセを視界に捉える。けれども、状況はほっと安堵などできるようなものではなかった。

 どこかで見た覚えのある女性がそこにいた。その者は確か──。

「久しぶりだね?」

 変わり果てた「救世の家」の中でユウたちを、いかなる方法によるものか、どこぞへ召喚して、なんらかの器律式によって一度ユウの腕をねじり切ったあの女だ。

 その様は、初めて出会ったあの時と同じくどこか余裕を見せていた。しかし、その姿は壮絶なものだった。

 全身血まみれで、身体は一部が変質・・している。それはヒトの理から外れ、片腕、脚、胸、そして顔。それらの一部が、どこか無機質めいた存在に成り代わっていた。

 そして、その女はノゾミを片腕に抱き、ユウの方を見ながらほんのわずかに笑みを浮かべている。しかし、その瞳は笑うどころか、どこか悲壮な決意を燃やしていた。

「ノゾミを殺す気か?」

 そう尋ねるが、その女は横に首を振る。

「いいや、この子自身にはもう用はない。君らには悪かったとも思っているよ。許されるとは少しも思っていないが」

 確かに、ユウへの敵対心のようなものは見えなかった。けれども、行動としてノゾミを捕まえている。

「主の目的はなんじゃ?」

 ノゾミはぐったりとしており、一見死んでいるようにも見えるが、僅かに上下する肩で、その生存が確認できた。

 どんな心境の変化があったのかはわからないが、ノゾミを殺さないというならその女は一体何がしたいのか。その意図がいまいち読めず、ユウは困惑する。

「聞くに、その幼子に用はないのだろう?現れるなり気絶させて捕縛するとは、礼儀を知らぬ愚か者よ」

 シラセは見たことのない冷淡な表情で、その瞳を光らせる。そんな彼女に、女は激しい敵意と、なにやら畏れのような感情を露にする。

「そうだな、確かにこの子に用はないね。なんなら今すぐ釈放したいくらいだ。いや、むしろ約束通り空へ連れて行ってやりたいな……それはただの、自己満足かもしれんけど」

「ほう」

 シラセはこのような状況でも、どこか不敵に笑っている。しかし、そこにいつもの間の抜けた感じは鳴りを潜めていた。

「だが、この子はお前にとって仲間なんだろう?」

 その女の視線は、ユウではなくシラセの方を射抜いていた。

「うむ、我か?ユウではなく?」

 女はその言葉に応えることはなく、続けた。

「そこの着物の少女。君には悪いが、この子はいったん預からせてもらう」

「ノゾミに対する用途如何では、主が何であろうと、わしはここで主を潰すぞ」

 話しかけられたユウが発した言葉は、忠告であり、そして事実だ。女もそれを重く受け止める。

「わたしも、無闇に傷つけるつもりはないよ。ただ、わたしの、わたしたちの目的が達成させられれば」

 そして、シラセの方を向いた。

「ただし、お前がおとなしくわたしたちについてきたら、だ。妙な動きをしたら、迷いなくわたしはこの子を殺す」

 それもまた、ただの警告ではなく、決然とした事実だった。それを聞いて、ユウは目を細める。シラセはそれをちらりと見る。そして、口を開いた。

「ふむ、いいだろう。その幼子はユウにとって大事な子供だ。ゆえに我も無下にはしない。お前らがなにを警戒しようが、我は何もしない。大人しくついていこう」

 その言葉を待っていたかのように、女の背後から巨大な影が掛かる。雨の中でも、その影はくっきりと映った。


 まるで今まで光学迷彩でも使っていたかのように、突然と。

 その体表に走る青い紋章を光らせて。


 「救世の家」が、姿を現した。


 この場を覆っていた歪んだ世界の感覚が、一点に収束される。宙に浮かぶ船が、止まない雨を遮る。一時的に女の周りに落ちる大量の水滴が止んだ。

 女は手をかざす。すると、なにかが断裂した気配がした。目を凝らすと女のかざした手の平の先には、ほぼ不可視の魔法陣が展開されている。

 きりきりと、軋むような、擦るような、削れるような空間の震えを、ユウは肌で感じた。その正体がなんなのか。それはわからないが、女が何かをしたのであろうという事はわかった。

「わたしたちは、絶対に故郷へ帰る」

 それだけ、女の声がユウの耳に届く。

 そして、ユウの視界が歪む。それは別にユウの認識が歪んだためではない。文字通りの意味で空間が歪んだのだ。

 そして、その歪みが直ったとき、女の姿も、ノゾミとシラセの姿も消えていた。

 ほんの少し明るくなった気がして、空を仰ぐ。船はいつの間にか消え去っている。辺りを見てもあの巨体の影も形もなかった。激しい雨の中にその身を紛らわせたのか。

 突然現れて、忽然と消えた船。

 空は依然として真っ暗な雨天模様だ。

「故郷へ帰る、のう」

 女の最後に残した言葉を反芻する。同時にその、壮絶ともいえる変質した姿を思い返す。

 そして、少女は、嗤った。

 懐に手を伸ばす。

「いいじゃろう、その行く末にわしもついていこう」

 懐から出した手には、銀色の刃が握られている。

 同時に、認識不能なナニカが、彼女の傍で揺らめいた。

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