第4話(前)終末世界は今日もいつも通り
曙が宵闇を取り払い、白く染め上げていくと同時に、丘の上からは街の様子がより鮮明になっていく。“終焉の徒”により赤黒く滅びたその地を、ところどころはねた栗色の髪を持つ少女はその虚ろな黒い瞳に映していた。
どれだけ日差しが白くその地を照らそうとも、滅びた大地が白く戻るわけはなく、ただただ滅んだという事実だけを少女に叩きつける。
「ノゾミ、夜を徹して起きていたのかのう?」
そんな少女の背後に白い着物の少女は立つと、そんな言葉を掛けた。
「……」
ノゾミは口を開くことはなく、ゆっくりと首を振る。しかし、その視線は一点に固定されていた。
「そうか」
その視線の先を再認すると、ユウは足元に大きなボストンバッグを寄せ、その上に座り込んだ。
ノゾミは微動だにせず、その場で膝を抱えて座り続けている。そんな彼女をじっと観察するように、ユウは眺めていた。
昨夜、「救世の家」が滅んだ。その中にいた人も、恐らくは全員死んだ。殺された。空からやって来た人たちに。そして、その空の人々も“終焉の徒”に呑まれた。おそらく生きてはいないだろう。ノゾミの見つめる先にあるのは、既に誰もいない、無人の死んだ大地だ。
ノゾミの向こう側、その赤黒い大地にユウは目を向ける。
昨夜赤黒く染まったその大地は、今もなお赤黒いままで、その表面には“終焉の徒”が闊歩している。時間が経てばそんな認識不能の存在達も消失し、動くものなど何一つない、完全に死んだ大地と化するであろう。
現在ユウたちがいる場所も、安全とは言い難い。すぐ近くに“終焉の徒”が迫っており、それはつまり≪終焉を告げるモノ≫がいるという事であり、いつ死に捕捉されるとも知れない。
ユウの胸に一瞬だけ、見覚えのある少女の顔が横切る。もう戻りはしない青い影。それはほんの少しだけ針のように痛みを与えたけれども、そのような感覚はすぐに忘れた。
「まったく、無意味で、無価値なものじゃよ」
そんな言葉が、ふっとユウの口から突いて出た。沈黙が支配するこの場所で、その言葉が虚空に溶けようとしたとき、
「……なにが、無意味で無価値……なの?」
せいぜい半日ぶり程度のはずだが、ひどく懐かしく感じる声がユウの耳を震わせた。ほんの少しだけ、それを嬉しく感じたものの、そんな様子はおくびにも出さず、ユウはいつもののんびりした口調で答える。
「いや、なに、こちらの話じゃよ」
そんな、答えにもならない言葉。案の定そのような答えにノゾミは納得せず、決してユウの方は振り向かないものの、体をピクリと震わせた。
「おじさんが、おばさんが、私の家族が……私のお家が……なにもかもが、無駄だったってこと……?」
震える声で紡がれたその言葉に、ユウは無言を貫く。しかし、ノゾミは続けた。
「空には行けなかった……それどころか、嘘をつかれて、皆……し、死ん、じゃって……だから、みんなみんな馬鹿で、だから生きてくこともできなくて、こうなって当然だって……そういうこと……?」
それはユウからすれば話が飛躍しすぎだと言えるような主張だったが、流石にそれを真っ向から言えるほどに人の気持ちが分からぬわけでもない。だから、代わりにただ首を振った。その行為も、こちらを向かぬノゾミには見えないものだったけれども。
「わかんないよ……どうすればよかったの?どうして、私だけ生きれたの?ねぇ……こたえてよ……!」
ほとんど泣き叫ぶような声でノゾミが言葉を放ち、こちらを振り向いた。なぜだかその瞳からは、涙など一筋も流れていなかった。
「これも……ぜんぶぜんぶ、こんな、こんな世界にした、≪終焉を告げるモノ≫のせいなの?ねえ、そうだよね……?」
崩れるように下を向いて絞り出された声に、ユウは悟った。
世界に終末が訪れたのは数十年程度のことだが、ノゾミの齢は十前後。終末世界しか知らないノゾミは、人の死の中に常に身を晒し続けている。その中には、親しい人も当然含まれる。幼き精神で幾度もの死を直視し、それでなお己を保つには、その死の原因足る存在に縋り、悲しみを鈍化させるしかなかったのだろう。歪んで崩れた終末世界は、そのような成長を促した。
自分のせいではない、仕方がないことなのだ。誰かのせいだ。
それは、責任を誰かに押し付ける行為。この世界が滅びたのは≪終焉を告げるモノ≫のせいだ。そう思うのは当たり前のこと。しかし、この心優しい少女であれば、
「≪終焉を告げるモノ≫、のう……」
小さく呟き、瞑目する。そして、
「そうじゃのう、「救世の家」が滅びたのは、間違いなくわしのせいじゃ」
それを聞いたノゾミが、首を上げる。
ノゾミ自身が誰かのせいにすることに負荷を感じる。優しくて脆い少女は無意識的にそれができない。例えその対象が世界を滅ぼす化け物であろうと。いや、だからこそ、ソレのせいにしきれない。あまりに身近で、けれども大きすぎて、災害に等しいソレに、責任を押し付けることは彼女には難しく、ゆえに自身に責を求めてしまう。だからこそ他者にその原因の肯定を求める。ならば、その責を背負うべきは、己であろう。ユウはそのように判断した。
「思惑に気付きながらも、わしはそれらを看過し、死が近づいていることを誰にも教えず、誰も彼もを見殺しにした。騙すのも悪かろうが、それを知りながら傍観するのも悪かろう。ゆえに、「救世の家」が、ノゾミの家が滅びたのは間違いなくわしのせいじゃ」
家族が死んだのも、この地が死んだのも全て、己のせいであると、そのようにユウは言った。着物の少女の、顔の半分にかかった前髪の向こう側にある瞳を、ノゾミはじっと覗く。黒いその瞳は射抜くかの如くユウを見て、ふいっと視線を逸らした。
「……そう、だ……すべて、すべて
そこから紡がれた言葉は、とても遠くに感じてしまうようなものだった。そんなノゾミに対し、ユウは眩しそうに目を細め、フッと笑みを漏らした。
「ああ、そうじゃ。それでよい。なにもかもわしのせいじゃ。主が人の死に捕らわれることはない。振り返りたければ振り返ればよいが、それだけじゃ。わしを恨め、怨め、憎め。わしが殺した。わしが壊した。ああ、それは間違いない。だから、それでよい」
そうして、着物の少女は立ち上がり、手を叩いた。
「さて、というわけで、そろそろここから去った方がよいのではないかのう?」
気分を変えるように明るい声で提案してみる。しかし、ノゾミは再び街の方を向くと沈黙してしまった。
「まだ、早かったかのう?」
ノゾミの様子を見て、ユウも再びボストンバッグに腰を下ろすと、栗色の少女とその正面に広がる滅びた大地を眺め始めた。
朝日は昇り切り、日差しが少女たちを照り付けるようになっても、ノゾミは座り込んだままで動き出す気配を見せなかった。
「昨日の今日で、まだ整理をつけるには早すぎる、かもしれんのー」
そんなノゾミをずっと見続けているわけにもいかず、ユウは一旦席を外す。ボストンバッグに必要な物資は大体入っているが、それでも必要なものはそこら中にある。
「今日はここで野宿じゃろうなぁ」
公園を少し見て回りながら、ノゾミの姿を脳裏に浮かべる。動かないノゾミを無理に動かすのも良くないと考えたため、一人で公園を散策している。木々がまばらに生え、草花が青々と茂っているその地は、とても傍に荒廃した大地が広がっているとは思えない。
「さてさて、野宿に必要なものはっとなー」
遊具は少なく、残っている器具も錆び、朽ちている。もしも遊び盛りの子供がこの公園を見つけたとしても、とてもそれらで遊べる状態ではない。尤も、ユウはここに遊びに来ているわけではない。
手ごろな枝を見つけると、何本かそれを拾う。ブランコか何かの一部だったのか、鎖が落ちていたので、今のところ特に使い道もないが拾っておく。どこかから飛ばされてきたのか、大きな布切れも落ちていた。こちらはしっかりと使い道を思いつき、手に抱える。
「食料があればよかったのじゃがなー」
そんなことを独り言つが、無いものをねだっても仕方がない。
「まあよかろ、今日のわしは寛大じゃぞ」
冗談めかして言ったその言葉も、当然ながら聞き遂げる者はいない。
ある程度散策し、見つけためぼしいものは一通り拾ったので、ノゾミがいるであろう丘の上に歩いて戻る。日はまだ高く上ったままで、空を見上げたユウは、眩い白光に目を細める。南の頂から西の方へ少しずつ下がりつつあるが、未だ日差しは強いままだ。しばらく呆けたように突っ立っていたが、急に辺りが薄暗くなり、はっと我に返る。
一瞬ひやりとするが、何のことはない。空中大陸が太陽にかぶさり、日が陰っただけのこと。
「空の上、ねぇ。一体何がしたかったのかのう」
そんなことを呟いて、ユウは歩みを進めた。
のんびりとした足取りで来た道を辿っていくと、見覚えのある場所と変わらぬ姿の影がユウを出迎えた、
ノゾミは、今もなお丘の上で座り込み、眼下の街を見下ろしていた。日差しはそんな彼女も照らしており、ノゾミ自身はそれを気にした様子はなかったけれども、その白い肌の上にはじんわりと水滴が浮かんでいた。
それを見て、ユウは長めの枝と拾った布を組み合わせる。ついでバッグに初めから入っていた紐を括りつけ、その辺りに落ちていた石を集めて作った山の中心に枝をたてる。最後に布の影がノゾミにかぶさるように調整する。即席のテントである。
「ほれ、ノゾミ。こんくらいしても、別に良いじゃろ?」
熱中症というのは意外と怖いものである。特に水が十分に手に入るかも不安定なこの世界において、些細な体調不良でも死に繋がる。それは単に脱水状態で死ぬ他にも、間接的に、運動能力の低下によって本来なら逃げ切れるであろう場面で殺される可能性もある。“終焉の徒”にも、獣にも、人間にも。
幸いなことにユウは水だけは余分に持っているが、水があれば大丈夫と言うわけでもない。直射日光に照らされていたノゾミに影ができたことで、ユウはひとまず安心する。
「っと、おや?」
静かなノゾミにあまり違和感を覚えていなかったが、すぅ、という空気が抜けるような音が聞こえた気がして、ノゾミの顔を覗き込む。
「……昨夜はきっと、寝られなかったからの」
じっと街を見続けていた大きな黒い瞳に瞼が下りており、穏やかな寝息を立てていた。
「座ったまま寝たら体を痛めるぞー」
ボストンバッグから寝袋を取り出すと、それを広げて地面に敷く。膝を抱えていた両手を静かに離し、その上に身体をそっと横たえた。汗が少し染み出るくらいに気温は高く、上に何か掛ける必要はないだろう。
ユウもすぐ横の地べたに座ると、テントの端から見える大陸が浮いている蒼い空と、対照的に赤黒い大地を視界に収める。
「いつまで、ここにいられるかのう」
侵蝕された終焉の地を目の前にして、ひとまずの休息を得た。
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うとうととしていたユウは、なにか物音がして微睡から引き戻された。
「もうこんな時間か」
重い瞼を開けてまず目に飛び込んできたのは、赤く焼けた西の空だった。真っ直ぐにユウを照らしてくる、燃えるような赤に、真昼ほどの眩しさは感じぬものの、直視しないように顔を背ける。するとその先に眠っているはずの少女の姿が消えていた。
多少疑問に感じたものの、大きく伸びをしながらのんびりと辺りを見回す。
「よっこらせ」
そんなことを言いながら立ち上がり、テントから出る。すると、テントを出たすぐ後ろの方に、彼女が微睡む前と同じように座っていた。その姿を認めると、しゃがみ込んでボストンバッグの中身を探りはじめる。
「おー、あったあった」
目的の物を見つけると、バッグごと引きずってきて、ノゾミのすぐそばに立つ。昼間のうちに集めておいた枝を集めると、山を作る。以前はここで火をつける手がなく、困ってしまったこともあったが、今回は違う。
「ノゾミノゾミ、朗報じゃぞー。素晴らしい逸品を今日は持ってきておるのじゃ。さぁ、その逸品を見せてあげよう」
そんな口上を述べ、ユウはバッグの中に手を突っ込む。ノゾミは一見興味がなさそうな顔をしているが、その視線はしっかりとユウの手元を見つめている。
「さあ、これじゃ!」
そんな掛け声とともに取り出したものは、キャンプ用の小さなガスコンロとカセットボンベだった。
ノゾミはそれを認めると、完全に興味を失ったように視線を逸らす。それにユウも気付き、カセットコンロを手に、主張し始めた。
「そんな興味なさげな顔をするでないぞ。旅に火というものは重要じゃ。マッチ、ライター、バーナー、コンロ。なんでもいいから一つは持っておかないと、せっかく良質な肉が手に入ったというのに調理できず、美味しいご飯を諦めるという結果にもつながるのじゃぞ……」
どこか遠い目をしながら最後に、まあ、生でもまずくはないんじゃが、などと付け加える。ノゾミは依然として興味がないようだ。
「ふむ、確かにサバイバルに慣れた者であればその場の物資でどうにかすることができるやもしれん。しかし、事実としてわしらにこう言った知識はあまりない。もしくは知識で知っていても実践するとは違うかもしれぬ。良質なご飯のためには、常何時もその準備を怠ってはならぬのじゃぞ……!」
徐々に熱くなり始めて、あまり関係のないことを語り始めるが、それでもノゾミは興味を示さない。
その時、カラン、と。
コンロを取り出したときに一緒に転がり出ていたのか、金属質な円柱形の物体が落ちていた。
ノゾミはそれに視線を移した。ユウもそこに目を向ける。
それは、なぜだかずっと持ち歩いている缶詰だった。ノゾミが少しだけ手を伸ばすが、その前にユウがそれを拾い上げた。そして、それを上に掲げて、まるで空を透かしているかのようにそれを見つめる。少し振ると、その中に何かが入っているような音がする。それを聞いて、少しだけ青髪の奇妙な少女のことが思い出される。
ユウが視線を下ろすと、それは何だとでも言いたげなノゾミの視線が合った。それを見てユウは口を開く。
「これらは、そうじゃな……無意味で無価値で、それでも傷跡を遺してくれたどこかの誰かの形見じゃよ。持ち続けることに意味は無い。想いを馳せるわけでもない。だから、どこまでも無駄で、ただそこにあるだけの、ゴミにも等しい残り物じゃ」
ノゾミはそれを聞くと、その缶詰に何かを感じたのか、少しだけ感情をこめてそれを見た。しかし、ユウにはそれがどんな感情なのかはわからなかった。
「まあ、これはバッグの奥で眠っててもらおうかの」
缶詰をボストンバッグに放ると、巨大なそれの大きな口の中に広がる闇に消えていった。
「さてさて、今日の飯は少しだけ豪勢にいこうかのー」
そう言ってコンロを地面に置く。そしてレバーを回して火をつけるが、それを直接使うのではなく、枝の一本を手に取ると、その先に火をつけ、先ほど造った枝の山に火をつけ、コンロそのものは火を消して片付けた。
「うむ、着火道具という物は貴重じゃからのう」
あとは焚火の火が消えないように気を付けながら、その上に台をセットし、小さな鍋を置いてその中に食料を入れ始める。
これらの食料は、「救世の家」からかっさらってきた物である。脱出時に急いで詰め込んだものではなく、隙あらばくすねて、日々少しずつ溜め込んだ保存食である。内容は、今では非常に貴重であるスープや肉の缶詰やレトルトパック、生の物は保存がきかないのであまり持ってきていないが、多少の果物くらいなら持ってきている。しかし、それらも新鮮なものよりもドライフルーツのようなものを優先して持ってきている。
「うむ、人類の英知という物はほんとうに素晴らしいものじゃ」
特に調理をするというわけでもなく、ただ鍋に入れて煮込んでいるだけだ。しかし、辺りには香ばしい匂いが立ち込める。本日のメニューは鳥の水炊きにリンゴだ。自分の手料理というよりもほぼ保存食なので、調理と呼べるかは疑わしいが、まずいという事はないだろう。
「ノゾミー、ご飯じゃぞー。美味しい美味しいごはんじゃぞー」
まるで猫でも呼ぶかの如く呼ぶ。相変わらず街を見下ろすノゾミは、ユウの言葉に反応した様子はなかったものの、漂ってきた料理の匂いに小さく、くぅという可愛らしい音が鳴った。ユウの耳にもその音は届く。それでも、ノゾミは動かなかった。
「ほれ、ノゾミ。意固地になっても別によいが、飯は食った方がよい。格別に美味しいかどうかは保証せぬが、最低限の味はあるはずじゃ。旨いものは心を豊かにさせるぞい」
皿に分けた水炊きをノゾミのすぐ横に置く。
「それに、昨夜から何も食べておらぬじゃろう?きっと、お腹が空いたときに食べる飯は美味しいぞ」
それだけ言うと、自分は焚火の傍に座りこむ。自分の皿にも取り分けると、それを口に入れた。
「んんー、うまい!」
保存食らしい味だが、それはそれで美味しいものである。「救世の家」で食べたものに比べれば圧倒的に味は劣るものの、現状の世界ではこれ以上ないというほど豪華な飯と言っていいだろう。さらに言えば肉の味である。それだけでユウは大満足であった。
「まあ、まだ物足りない気もするがのう」
ノゾミの方をちらりと見遣る。そこには料理には目もくれず、ただ正面の街を眺めている少女の姿があった。
沈黙が続く。
カチャカチャとユウが皿を掬う音と、時折汁を啜る音だけが木霊する。
「さて、ご馳走様」
ユウが自分の取り分を全て食べ終わった後も、ノゾミは動かなかった。
「さてさて、食後のデザートっと、おお、そうじゃ」
林檎を掴むと、思い出したかのようにノゾミの前にそれを見せびらかす。
「ほれほれ、リンゴじゃリンゴ。ノゾミも好きだったじゃろう?飯を食べ終えたら丸ごとあげてもいいのじゃが……このままでは、わしが全部食ってしまうかのう」
そんなことを言って、ノゾミの注意を引こうとした。その効果はいかに。
今までほとんど反応を示さなかったノゾミが、リンゴを目にするなり、少し目を細めた。次いで、ノゾミの方を恨めしげに睨む。そんな彼女に気付いていないかのように、ユウはリンゴにかぶりつくような動作をする。
「あぁ、美味しそうなリンゴが、赤く綺麗に熟したリンゴー、我慢できないなぁ」
意地が悪いのはユウも自覚しているが、好物に反応してくれるならばそれに越したことはない。
いくらかそんな風にリンゴを眺めた後、ノゾミは横に置かれた水炊きを一気に口に掻き込み始めた。そんな彼女の姿を、ユウは嬉しそうに見守る。
「はてさて、好物には勝てんかったか」
空になった皿が地面に置かれると、ユウはリンゴをそのすぐ隣に置く。ノゾミは一瞬躊躇するように手を止めたが、結局つかみ取って、丸ごとかじり始めた。
リンゴを食べ終えると、ノゾミも少しだけ満足そうな表情をした。そのわずかな表情変化に気付いたユウは、何かに納得でもしたかのように一人頷いている。
「うんうん、やはり旨いものは愉しい気分にさせてくれるからのう」
食事とはただ栄養分を得られればいいという物ではない。確かにその意味合いはあるだろうが、いつ死ぬともしれない終末において、その役割は幸福の享受であり、誰かとの繋がりを作るものだ。ユウにとってはそういう物だ。
リンゴは芯だけが残り、捨て置かれたそれを焚火の中に放り込んで処理する。
「のう、ノゾミ。食べてよかったろ?」
そう尋ねたユウに返ってくる言葉はなかった。
夜中。ユウは寝袋に包まり、昼間に立てたテントの下で目を開けたまま横たわる。星明りも月明りも空中大陸に遮られ、赤黒い大地は違う闇に染まっている。しかし、少し目を凝らせば歪んだ大地の相貌が見られ、また、いくつもそびえ立つビルやそれより低い建物もただ朽ちるだけでなく、ぼろぼろと腐れ、融け、砕け、変質しているのがわかる。
いまはノゾミも大人しくテントの下、ユウの後ろで横になっている。しかし、時折もぞもぞと動いているため、眠れてはいないだろう。それは、昼に寝てしまったからだとか、そういう理由ではあるまい。
ユウはそれが分かっていながらも、そちらの方に決して振り向かない。ただ、その音を静かに聞き取るだけだ。
しばらく、そうやって静かな時間が流れていた。
ユウもそろそろ眠ったかと思い始めた時、再び後ろから音が聞こえてきた。けれども、それは先程までのような身じろぎする音ではなかった。
「……っ!」
それは、嗚咽だった。
声は出さない。涙を流しているかどうかもわからない。ただ彼女は、歯を食いしばって泣いていた。
そんな彼女の様子を音で認識して、目を閉じて微睡に身を任せた。
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朝になり、目が覚める。目の前の光景は昨日と変わらないままだ。
ノゾミはまだ横で寝ている。赤黒い大地も特に変化は見せず、依然としてすべてが絶え果てたその様を見せつけている。
「今日も、何とか朝目覚められたのう」
白い着物の少女は呑気にそう言うが、事実、“終焉の徒”の存在しているすぐ横で過ごしているという現状は、危機迫っている状況であることに違いない。夜の間にすべてが呑まれて死んでいてもおかしくはないのだ。
無事、ノゾミが朝を迎えられたことに対してユウはほっと安堵の息をつく。
「こんなところで終わっては、なんとも言い難いからの」
バッグの中にこれでもかと詰め込まれている食料に手を伸ばす。中はよく確認しないままにそれを取り出す。
「うむ、アタリじゃ」
取り出したものは袋に包まれたおにぎりであった。ボストンバッグの中には生の食料やそのままでは食べるには難しいような食材も入っている。何も見ないままで取り出したため、そういう物が当たる可能性も高かった。そのような物が当たっても、彼女は何らかの方法で食すことにしたであろう。言ってしまえばこれは一種の運試しのようなものだった。
なぜそんな面倒なことをしたのか。そんなものは明白だ。
その方が面白いからである。
さておき、ユウはおにぎりを口に入れ、口をもぐもぐと動かしながら美味しさに顔を綻ばせる。食事という物はどんな時であれ、楽しく、心浮き立つものだ。
空を見上げると、今日も晴天、空気も澄んで空中大陸がよく見える。切れ切れの空の隙間からも蒼穹が覗き、今日の天気を教えてくれていた。
「はてさて、今日からなにしたものかのう」
昨日は魂が抜けたかのようなノゾミに対して、多少のお節介を焼きつつ旅に必要そうなものやなんだか面白そうなものを拾って、一日を過ごした。とはいえ、今日も同じように過ごすのはあまりに不毛だ。
「ノゾミの様子次第じゃなぁ」
もしかすると、気持ちの整理もついてきて、昨日よりも活動的になる可能性もある。そうすればどこかに出発することも難しくない。
「まあ、変わりないならそれはそれで興味深くはあるがのう」
口元を歪めながら、小さく呟く。
日はまだ昇り始めたばかりだ。一日はまだまだ長い。すぐに決める必要もないだろう。そのように判断して、ボストンバッグの上にどっかと座り込む。食料の他にもたくさんの布類やある程度の金属製の道具が入った大きなバッグは、凹みながらも少女の小さな体を柔らかく受け止めた。
「ふん、ふふーん、ふんふんふーん♪」
特に音程など考えずに、気の向くままに鼻歌など歌って景色を眺める。ノゾミもまだ起床していない。別に起こす必要もない。ゆっくりと日が昇っていく中、ただぼうっとしながらすでに見慣れた元「救世の家」の辺りを見つめていた。
固まった血のように赤黒く変色した大地に、流線型のナニカが垂直に刺さったような形をした「救世の家」。元々はただのビルのはずだったが、空の人々により、ただのビルではなくなっていた。尤も、それも元々の青調の色ではなく、大地と同じような滅びを示す色を呈していたけれども。
「はじめに見た時から思っておったが、元々の色合い、そしてあの形……なんか船か潜水艇みたいじゃのう」
くだらない冗談だと自ら思いながら、けらけらと笑う。
「船じゃとしたら、あれじゃのう、あれ。なんと言うか、完全に沈む一歩手前。いや、もう沈み始めているのかの。こう何て言ったか、ちょっと前の映画で、海に船が沈むものを見た覚えがあるのう。潜水艇だとしたら、なんじゃろう、制御不能状態?」
いや、むしろ海中から鯨のように飛び出す瞬間とかどうだろう、などと考え始めた時だった。
それは、空間が歪む音。
隔絶されたセカイが、開く。
歪められた理に穴を、穿った。
「おや」
それに気付いて、少女は声を上げる。同時にかつてなく口角が上がる。
大地が震えたわけではない。ゆえにそのような重低音が鳴り響いたわけではない。
“終焉の徒”の襲来でもない。ゆえに、死に捉えられた本能的な感覚が脳に響いたわけでもない。
その音は、大気を震わせて少女の鼓膜に届いたわけではなかった。少女に何かが聞こえたわけではなかった。
けれども、
「なるほど、退屈な者であると思っておったが、なかなかどうして愉快なことをするものよ」
次いで、実際に目の前の光景に変化が生じ始めた。
「そうかぁ、これが器律式というものかいのう」
賞賛と敬服と、同時にどうしようもない嫌悪感が少女の皮膚の上を蠢く。しかしそれを刺激と甘受し、娯楽として愉悦に笑みをこぼす。
目の前には、「救世の家」だった建物が、浮いていた。
その表面は相も変わらず赤黒い泥がこびりついており、それは内部にも侵蝕しているのかいくつか剥がれ落ちる物もあるものの、その箇所は深く抉れている。浮いているそれの、泥のついていない隙間にはどこかで見たような緻密な魔法陣が刻まれており、それはまるでCGのようにほんの少し表面から浮いて、青白く光っていた。
そこからは、強大な力を感じた。
セカイを歪ませるかのような。
因果を断ち切るような。
時空を捻じ曲げるような。
そんな、世界の理から逸脱した力だった。
「“終焉の徒”の災禍の下でも無事、いや、見るからに五体満足ではなさそうじゃが、それでも残るとはのう」
それは確かに船だった。
まるで予想していたかのように少女はのんびりと話すが、それは確かに予想外の出来事だった。
歪んだ口元がさらに歪む。
ゆえに、“愉しい”のだ。
「器律式。“勇者”の力をお借りして行使する技術、チカラじゃったか。ならば死んだ地に呑まれても己のみならば生き延びられるやもしれんの」
“勇者”の力。≪終焉を告げるモノ≫と同じく世界の理から逸脱した強大な力。それをただの人間が十全に扱えるとは思っていないが、その一端が行使できるだけで、ビル一つを創り変えて“終焉の徒”とその禍を退ける。
「うむ、なるほど、あやつが言っていたこともあながち間違っとらんかもしれんのう」
青い髪と異なる色彩の瞳を持っていた少女のことを思い出しながら呟く。
「とはいえ、前提が間違っとる場合はどうしようもないがの。まあ、今はそれはどうでもよいな」
宙に浮いた「救世の家」は、その全貌を露にした。地面に埋まっていた箇所も流線型になっており、船と言う感想に間違いはなかったという事を再認識する。
縦に細長い形をしたそれは、そのまま上に上がっていくと、徐々に傾いていき、横に細長くなる。本来であれば堂々たる船か潜水艇のような姿を見せるのであろうそれは、“終焉の徒”に呑まれた影響により、どこか有機めいて、無秩序で醜悪な肉塊のようだった。
そのまま上昇していき、空中大陸に近づいていく。しかし、その大きさが点のようになってそのまま大陸に入るかというところで、前へ進み始めた。そこは、少女らの頭を超えて、今いる公園のさらに向こう側の方向だ。
「……どこへ向かう気なのじゃろうなぁ」
笑みを浮かべたままでその行く先を見据える。
「ふむ、あの方向か。何があるのか、わからぬけれども……」
わからぬならば、分かるところまで追いかければよい。
未知の娯楽を追求する少女は嗤って、今日からすることを定め始めた。
無理にノゾミをたたき起こすことはしない。けれども、早くあの船を追いたいという気が急く。
「ふぅ、まずは深呼吸」
自らを抑えるために深呼吸をする。船が飛び立っていった方向を見据え、ノゾミをどう引っ張っていくか思案する。
昨日のノゾミの様子では、今日も無気力である可能性は非常に高い。その場合無理やり引っ張っていくことは確定するのだが、どのように引っ張っていくか。昨日の様ではよほど嫌がることはなさそうだが、ここで仲違いをして旅の道中にどこか逃げられるのも流石に面白くない。
日は高く上り、そろそろノゾミも目覚めるだろうと予測する。ちょうどその時に、テントの下からノゾミが飛び出してきた。
「予想がぴったり当たるとそれはそれで面白いのう。当たりすぎるのは好かんけれども」
呑気にそう言うユウの視線の先には、対照的に目を見開いて唖然としている少女の姿があった。
「おー、おはようノゾミ。飯は適当にバッグの中に入っているから、食べ過ぎないくらいに食べてよいぞー」
ノゾミは、そんなユウの言葉に反応する余裕はなく、ただ口をパクパクと開閉して目の前の衝撃を何とか理解しようとしていた。
もちろんノゾミは「救世の家」が飛び立つ瞬間を見ていない。しかし、彼女が驚き、呆然として動けないほどの衝撃を受けている理由はただ一つ。
「私の、私たちの家が、無くなった……」
彼女の人生の多くを過ごしてきた場所。帰るべき場所。確かに形を変えていたけれども、そこに存在していた建物自体の消失。そこに「救世の家」があったという痕跡自体が消えていた。見ると、建物が飛び立ったあとの土地も地面がえぐれているわけではなく、そこに元からなにもなかったかの如く、ただ赤黒い地面が広がっていた。
それを見て、ユウはすっと目を細める。今の状況とノゾミの様子、それらを少し鑑み、そして、口を開いた。
「のう、ノゾミ。「救世の家」を、ノゾミの家を探してはみんか?」
「家を、探す?」
オウム返しに返ってきた問いに、ユウは頷く。
「変わり果てた「救世の家」を見たじゃろ?“終焉の徒”に呑まれる前の」
今度はノゾミが頷く。
「あの建物のう、どうやら船だったらしいのじゃよ」
自分で言っていてあまり意味が分からないな、なんてことを思うが、ノゾミは幼いなりの感性でそれを素直に理解したらしい。
「どこに行ったの……?」
どういうことか、というような意味を求める問ではなく、船という移動手段が行く先を真っ先に訊いてきた。それに多少驚きつつも、ユウは飛んでいった方向を指差す。
「あのへんじゃ」
具体的な場所はユウも分からないので、ひどく抽象的な答えになるが、ノゾミにはそれで十分だったのか、そのまま走りだそうとした。
「待て待て待て」
それをユウは慌てて手をつかんで引き留める。ノゾミはそれを振り払って走り出そうとするが、
「このまま走り去っても確実にたどり着く前に死ぬだけじゃぞ」
そんな言葉で、立ち止まった。
「まあ、わしとともにいったからと言って死なないわけではなかろうが、少なくとも飢餓で死ぬ可能性は低くなるぞ?」
辿り着けるとは断定しない。けれども、その可能性は高くなるとは言った。ノゾミは不満げに悠を見るが、納得したのか、走り出そうとするのはやめて、おとなしく引き戻された。
「うむ、ノゾミくらいの子なら自分なら大丈夫と走り出してもおかしくないのじゃがのう」
そんな余計な一言を付け足してしまうが、船の行く先が気になるのか、ノゾミは聞こえないふりをした。
「さて、まずは腹ごしらえじゃ。腹が減っては戦はできぬというからのう」
そんなユウの言葉で、ノゾミは差し出されたおにぎりを食べている。どういうわけか、先ほど同様におにぎりを食べたはずのユウも、食事をとっていた。
「むむむ、自分で取っておいてなんだが……これはなんじゃろうなぁ」
ノゾミには普通に食料を渡したが、自分のときは今回もバッグの中から何も見ないで取り出している。今回取り出されたものは、レトルトパックのようなものではあったのだが、中身をさらに出すとどろどろとした、言ってしまえば吐瀉物のようなものが出てきた。
「まあ、食べられはせんじゃろ」
気楽にそう言い放ち、口に運ぶ。見た目はお世辞にもいいとは言えず、触感もどろどろとしてあまりいいモノではなかったが、味はまあ、食べられなくもない。美味しいとは言い難かったが、まずいかと言われるとそこまでではない。とはいえ、好んで食べたいというものではなかった。
「ふぅむ、なんというかこれは……一昔前の宇宙食みたいな感じかのう……」
これはこれで面白い食べ物ではあったので、それで良しとする。
吐瀉物、否、昔の宇宙食を食べ終えると、ノゾミはすでにおにぎりをすべて腹に収めており、ユウの食事が終わるのを待っていた。
「それじゃ、早く行き……ましょう」
約一日ぶりに聞いたノゾミの口調は街で初めて出会った時のように敬語だった。いや、突き放すような冷たい感じなので、関係としてはむしろそれ以上に悪いといってよいだろう。
「わかったわかった、ちょっと待っとれな。片付けを済ますでのう」
しかし、ユウはそんなことは気にせず、いつも通りにこたえ、片付けを始める。そのような関係でよいとしたのはユウ自身である。責任は自分が負うと言ったのだから、素直にノゾミがそうしてくれて、むしろ嬉しいまである。
「……姉とは、そういうものじゃろう?」
テントに括り付けた紐と布を取り外してバッグに詰め込みながら、誰に聞かせるでもなく一人呟く。少なくとも唯一人それを聞く可能性のある人物である、焚火をしていた場所で佇むノゾミにはその言葉は聞こえなかっただろう。
「よーし、行くぞ」
色々なものを詰め込み過ぎて、かなり重くて大きくなったボストンバッグを、対照的な小さい体躯が逆に背負われているかのように担ぐ。いつも重い荷物を担いでいるので、それが多少重くなった程度ならば平気である。
焚火が完全に消えていることを確認し、最後に一昨日まで過ごしていた、今では“終焉の徒”蠢く滅びた大地を見納めると、丘を下り始めた。
「はてさて、今回はどこまで生きられるかのう」
そんな縁起でもない言葉は誰も聞き遂げず、栗色の髪の幼い少女と白い着物を着た少女は、どこへ行くともしれない旅に向けて足を踏み出した。
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